第5話魚鱗奇譚

湯につかりながら戻らぬときの流れの中に身をしずめ、悲しみのひとつひとつに思いを馳せれば、そのうちにもさまざまな色があると見えて、男と寝るも女を抱くも未練ばかりが去来して、一向に解脱は叶わず、煩悩去らず、来世も愛別離苦に喘ぐかなと、かえって興をそそられて、湯上がりの髪もそのままに、絵筆を手に取り、髪からしたたる水が混じるのも顧みず、纏った浴衣が乱れるのもかまわずに、無心に筆を動かして、竹薮の群がる池に鯉が泳ぎ、滝の上には月光が冴えて叢雲むらくもを貫き、山家やまがには茶煙さえんも絶えて、ああ、鯉が喰ったに相違ない、否、池の主は鯉にはあらず、百年前に池に身を投げた女であったと聞く。女の恨みは千年百年ちとせももとせ時をこえ、池の奥底にひそむ龍蛇となって、鯉が我が物顔で泳ぐのもつゆ知らず、時折坊さまが鎮めにおいでになる他には会うものとてなく眠り、やがて坊さまの喉を掻き切って目覚める時を待つという。……と絵詞えことばを書き添えたところで絵の催促に現れた男の名はとうに忘れた、乱れた姿もかまわずに、しっかと掛け軸を手渡して、ひとり手酌で酒を注ぎ、着崩れた浴衣の襟足に、あるいは胸に鱗が覗くのをさらりとなぞって酒を舐め、今宵の肴はいかにせんと洗い髪を掻き揚げ結い上げて、ざっと表へ歩き出た。


ペーパーウェル04 お題「文具」

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