5
五
アップルティを交互にすする僕らの間の沈黙を破ったのは、かすかな鈴の音だった。月彦の足下に、一粒の星が落ちている。
「あれはね、碧星、この夜空に無数に光っている星の赤ちゃんなんだよ。僕の宇宙は赤ちゃんが生きるには過酷すぎるらしくて、すぐ死んでしまうんだ。ぼくの目から零れ落ちるあれらは、ぼくが産んだ子供の死骸で、僕はそれを生みなおす義務があるんだよ。僕のことを化け物だとなじるお母様はぼくの左目さえも見てくれない。たぶん、お父様のことと、自分の過ちを思い出すからなんだだと思う。ぼくは何も悪くないのにね」
月彦はそう言いながら水面の月を芒でなでた。月の輪郭があやふやになり、満月なのか半月なのか分からなくなってしまった。
「ねえ、君がずっと黙ったままだから言うけれど、君がぼくを盗み見していたことは怒っていないよ。君に嫌われるのが怖かったんだ。君にだけは、君にだけは見放されたくなかったんだ。ごめんよ、ごめんよ」
月彦は左の眼から涙を、右の眼から色とりどりの涙を流して、震える手で、ぼくの手を包み込んだ。星たちが、向かい合わせに座ったぼくらの膝の上でしゅわしゅわと音と火花を散らしながら溶けていく。
「何を言うんだ月彦、君を僕が嫌うもんか。ねえ、僕はとても感動しているんだ。あの遠くで輝く綺麗な星たちを、僕の一番の親友が生んでくれているんだから」
「碧星、君はぼくを認めてくれるのかい。この、化け物みたいなぼくを」
「もちろんだよ。月彦、君の宇宙も、君が生む星も、君の眼も、とても綺麗だよ」
色の違う両目を見つめながらゆっくり言うと、月彦は顔をふいと背けた。
「それでもぼくは、受け入れられそうにないな。星を生むのは疲れるし、とても苦しいんだ。生み落すたびに泣きたいくらいに愛おしいはずなのに、ぼくより先にお父様に会いに行けるあいつらがと、それを受け入れる大好きだったこの空が、憎くて憎くてたまらないんだよ」
「泣かないで月彦。ねえ、月彦。あの美しい星を生むなんて、君はきっと神様の使いに違いない」
月彦の右目から流れる色とりどりの星の残骸を食べてしまいそうになる衝動を抑え、左目から流れる涙を救う。
「神様か。僕はそんなにたいそうなものじゃないよ」
何か僕は返答を間違えたのだろうか。月彦は僕の言葉にひどく傷ついた顔をして、膝を抱えて地面に視線を向けた。
「時々、無性にトランクを崖から投げ捨ててやりたくなったり、お母様のおなかを力いっぱいに蹴ってやりたくなることがあるんだ。僕は神様というより、悪鬼だよ」
膝に顔をうずめながらそう言う月彦の方は小さく震えている。
「ぼくは、以前よりも見た目も心も醜くなってしまったんだ。ぼくから生まれたはずなのに、あいつらは綺麗で美しくて荘厳で、なのにぼくの心はあいつらを生むたびに黒く染まっていく気がするんだ。星を生むたびにあいつらへの憎しみが強くなるんだ」
そういうと月彦は涙を抑えることもなく、空を見上げた。きれいな色とりどりの宝石が無造作に散りばめられたような空だ。ぼくにはその宝石の光が、月彦の命そのものであるようにも感じられた。
右目から光を漏らしながら空を睨みつける月彦の姿に、なぜかあの赤い屋根の家で見た月彦のお母様の姿を思い出す。月彦のお母様も、今の月彦の様にあのおなかの中の誰かに同じような気持ちを抱いていたのかもしれない。
そう思うと、僕は知ってはいけないようなことを知ってしまった気がして、思わず月彦から目をそらして膝を抱えた。いつの間にか僕の靴の上で種類の違う二匹の蟻がえさを取り合ってけんかをしている。
「ああ、なんてまぶしいんだろうね、昼のように明るいや」
今は夜なのにそんなことはないだろう。そういってやろうと思って月彦のほうに目を落とすと、その空から伸びる全ての光が月彦にだけ向いているように感じた。いや、向いている。月彦に向かって、睨みつけるようなスポットライトが向いているのだ。
「月彦、光が」
「月も、星も、空も、宇宙も、ぼくはだいっきらいだ。全部消えて無くなってしまえばいい」
おもわず立ち上がって後づさるぼくの言葉をさえぎって、月彦は淡白に言った。
ひとつ、ふたつ、流れ星が流れるたびに、ススキノ原に吹く風が激しくなる。夜空の星とその眼差しは輝きを増し、月彦を包む光が一層強くなる。ぼくはその様子を見て、国家大学の屋上で腹を割いて命を散らせた文豪の人生を描いたあの劇の最期の場面を思い出した。
風が突然止んだかと思うと、月彦は顔を歪め、うめきながら宇宙の眼のほうを両手で押さえる。月彦の紅色に染まった唇からは、矢継ぎ早な甘い吐息がでて、ぼくは思わずその両肩に手をそえた。
右目をおさえた月彦がこちらを見て、ぼくも月彦のほうを見る。青碧の左のほうのそれと目が合った、と思った瞬間あの鈴の音がして、月彦の右の目玉がぽろりと転げ落ちた。手のひらで包みこめる大きさのそれは、水晶の中に小さな銀河を孕んでいる。
「碧星、眼が落ちたよ。眼が落ちたよ。宇宙が見えなくなった」
月彦は水晶を両手で持ち上げてうれしそうな顔をしたが、ぼくはその笑顔を見てとても哀しくなった。ビロウド玉のように、波をたてて光を反射する不思議で綺麗な瞳の代わりに、今は光を通さない洞窟のような闇を孕んでいる。
「お母様はね、お父様が行方不明だと聞いたあの日から、家中の宇宙に関係してるものとお父様の私物を全部捨てて、あんなに大切にしていたお父様の形見のネックレスでさえ、捨ててしまったんだ。僕の部屋の望遠鏡も宇宙の写真も、すべて捨てられてしまったよ。もうあの家には何も残っていない。今度はぼくを捨てるに違いないと思ってた」
月彦はそこで言葉に詰まり、また泣きだした。月彦の残された左の目からはもう鈴の音も星も出ない。ただただ透き通った涙が月彦の紅潮した頬を滑り落ちているだけだ。
「でもほら、これでお母様はぼくをまた愛してくださる。抱きしめてくださるよ。ねえ、君もそう思うだろう、碧星。ぼくはもう化け物じゃなくなったのだから」
月彦はすがすがしい笑顔を浮かべて、立ち上がった。彼の金色の髪が月や星の光に照らされて美しく浮かび上がる。その姿は教会で永遠の頬笑みを浮かべる聖母像にそっくりで、とても神々しい。そう思いながらなぜだかぼくは背中に大量の冷や汗が流れるのを感じた。
なんて美しい。
なんて恐ろしい。
ぼくの目の前にいるのは、本当にぼくの親友の月彦なのだろうか。
「ぼく、帰らなきゃ。この忌々しいものをお母様の前で、叩き割るんだ。そうすればきっと、ぼくは捨てられないで済む。そう思うだろう、碧星」
ぼくの答えを待たずに月彦が走り出そうとしたその時、月彦の持っている玉からオルガンの不協和音の様な音がして、玉が真っ二つに割れた。
割れた玉から月彦が生んだのより大きい光の粒が幾万もわき出し、月彦だけをにらみつけていた光は強くなって、月彦から離れていたぼくさえもその光の中に巻き込んだ。まるで昼のように明るい世界で、月彦の輪郭がぼやけだす。
月彦の足がなくなり、手がなくなり、月彦の姿は消えて、その代わりに強い輝きをもったたくさんの光の粒が現れた。その光の粒から、月彦の声が幾重にも重なって響く。
「碧星、ぼくあそこにいってみたい。ほら、お父様が手を振ってくださっている」
「月彦」
僕を取り巻くつよいお香の匂いに思わずせき込む。いつからこんなに強い匂いがしていたのだろう。
きっと月彦である光の粒を集めようとしたが、それらはぼくの小さな手を器用にすり抜ける。やっと月彦だった何かの一粒に少し触れたかと思うと、それを見えて心臓が大きくどきりと痙攣した。
月彦がいた場所のすぐ後ろに、微笑んでいるような細めた大きな銀色の瞳を持つ両目が僕のほうをじっと見つめている。
神がぼくを見つめている。
ぼくは神に見つめられていた。
そう実感したとたん、神への謁見を果たした喜びの代わりに、身を大きく震えさせる今まで体験したことのないような恐怖がぼくの体を襲った。思わず地面に倒れこんだぼくの握りしめた手の中で、地面に生えていた雑草がぶちりぶちりと悲鳴を上げる。
「君も見えるかい、碧星。ああ、神様はいるんだね。ほら、神様が僕らに話しかけてくださっているよ」
無神論者であるはずの月彦の、恍惚とした声があたりに響く。
違う、あんな恐ろしいものが神であるはずがない。神であってはいけない。
僕の頭でけたたましい警鐘がこだまする。
月彦を助けなくては。月彦があれに攫われてしまう。僕らをじっと見つめていた銀色の目の何かに。そう思うのに、僕の体は縫い付けられたように微動だにしない。
「神様は、ぼくの目をああすることでお母様の過ちを罰していたんだね。でもこれできっと、すべての罪は許されたんだ。お母様にも教えなくちゃ。きっととても喜ばれるに違いない。ああ、星はこんなにもきれいだったんだね、碧星。ぼくはなんて」
月彦の声をかき消す様に、サクスフォンの柔らかい、短い音がして光は散り散りに空に昇っていった。
月彦はもういない。
世界はまた夜に戻った。
彼だけを置き去りにして。
宇宙眼 @toyoiizuka
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