3

  三

 教会から五分ほど歩くと小山の頂上から赤い屋根が控えめに姿を現す。熱い苔に覆われた石階段を昇りようやく見えた月彦の家は、まるで重い霧のようなどんよりとした雰囲気をまとっていた。ぼくらが以前よくおやつを食べていた庭には花ひとつなく、その代わりに枯れかけの雑草が乾いた土の上で死の訪れを待っている。

「あの時からこの家の時間は停まっているんだ」

 玄関で靴の裏をマットで拭きながら月彦はぽつりとそうつぶやき、小さく足音を立てて足早に彼の部屋に向かった。少し足を動かすたびに、ぎしりぎしりと床がきしむ音が家中に響く。

 彼の部屋に続く階段近くにある居間の扉の隙間から、月彦のお母様がソファに腰を下ろして幽霊のようにじっとしているのが見えた。机の上にある大きな置時計は秒針を動かすこともなく沈黙し、その場所から家全体を覆う重い霧が出ているように感じるほどに、異様な雰囲気が月彦のお母様と時計を中心にして渦を巻いている。

 月彦とおそろいの金色の髪の毛は以前のように丹念に編み込まれておらず、無造作に頭の上でくくられており、いつも薄桃色に染まっていた頬は別人のそれとしか思えないほどにくすんでやつれている。

 それに何より異様なのは、はち切れんばかりに膨らんだ大きな腹部だ。月彦のお母様は時折そのふくらみに目をやり、月彦が星に向けるような視線をおくっている。つい数か月前までは、月彦のお母様のおからだはあんなではなかったはずだ。女性というのは妊娠すると、あれほどまでに腹部が急激に膨れるものなのだろうか。

 つい数か月前とは別人のような月彦のお母様の姿に僕はよほど驚いているのか、靴の裏が床に縫い付けられたように体が固まり足が動かない。見てはいけないとはわかっているはずなのに、月彦のお母様から目が離せない。

「あなた、ごめんなさい」

 小さく痙攣する手でなでながら、おなかをそうつぶやく月彦のお母様に、ぼくは底知れない恐怖を感じて逃げるように彼の部屋にとびこんだ。

 飛び込んだ先も何週間か前とはずいぶんな様変わりをしていて、この短い時間でこの家の様子がすっかり変わったことを痛感させられた。

 月彦は昔から天体観測が趣味で、以前部屋に来た時には壁を覆うほどの様々な衛星の写真や、星図がピンで留められていた。しかし、今ぼくがいるこの部屋には、宇宙を連想させるものは一つも置いていない。本棚にあった様々な星や宇宙に関する模型やおもちゃ、図鑑は姿を消し、壁には写真を留めていた無数のピンの跡とそれに引っかかる紙の切れ端が痛々しく残っているだけだ。

「お母様はね、これを見てぼくをぶったんだ」

 息を切らせるぼくには目もくれず、月彦はそう言って両手ほどの小さなトランクを開けた。その中には何十個もの実験用のガラス瓶が隙間なく整然と並べられている。

 見るかい、と月彦はそのうちの一本を取り出し、ぼくのほうに差し出した。その中には瓶の半分のソオダ水と檸檬色の金平糖が入れられておりいる。しゅわしゅわと下からゆっくりと上がっていく二酸化炭素の気泡と共に、光を失った星がゆらゆらと揺れている。

 顔の前まであげたソオダ水に月彦の右目が映っている。逆さになった月彦の宇宙を孕んだ月彦の右のそれと、青碧の左のそれと目が合い、ぼくはなぜだかとてもいけないものを見た気分でさっと瓶から目をそらした。月彦の目がまるで、ぼくのお父様が机にしまい込んでいる宗教画に描かれている、死んだ息子を腕に抱く聖母のそれに瓜二つで、その月彦の眼差しをぼくはどんな女の子の瞳よりも美しいと思ってしまったのだ。

「綺麗だね」

 音を立てないように唾を飲み込んだぼくが月彦に向かってそう言うと、月彦は困った様な笑顔を見せ、瓶を握りしめた手を膝の上におろして、それをにらみつけた。

「ぼくたちはもう十年来の親友だけれども、これに関してはやっぱり意見が合わないね、碧星。ぼくはこれが綺麗だとは思えないよ」

 月彦の瓶を握りしめるそれは、曼荼羅山の麓の曼珠沙華の色のように真っ赤に染まっている。月彦が瓶に向かってつむぐ言葉は、ぞくりとさせるような、憎しみや、悲しみが込められているように感じた。

「そうかな。ぼくは君の出す青空色やら、鈴蘭色やらの星はとても綺麗だと思うけどな。ほら、この星だって、こんなに透き通っていて、宝石のように上品で、小さくてかわいらしいじゃないか」

 ぼくが耳にかかった髪の毛をかきあげて青碧色の星をピアスにしたものをみせると、月彦は少しだけほほを緩ませて微笑んだ。

「ああ、確かにそれは、君の小麦色の髪に映えてとても素敵だ」

「それを使って揃いのものを作ってあげようか」

「いや、ぼくはこれらがあまり好きじゃないから、遠慮しておくよ。そうだな、もしも君の若葉色の瞳と同じ色をした星が出てきたら作ってもらおうかな。君の瞳の色はどんな女の子のそれよりも綺麗だから」

「好きじゃないのなら、どうしてそうやって大事に置いておくんだい」

「”儀式”に使うんだよ」

「儀式?」

 突拍子もない答えに思わず声を上げると、月彦は慌ててぼくの口をその冷たい片手で覆った。

「静かに、お母様はうるさいのがあまりお好きじゃないんだ」

「ごめん。でも月彦、儀式って?」

 月彦は困ったように笑い、ぼくの口から手を放して、小さな生まれたての赤子を扱うようにやさしく瓶をトランクの中にしまい込んだ。さきほど星たちに向けていた憎しみや悲しみは気のせいだったのだろうか。

「いつか君にもみせてあげるよ、碧星」

 そう言ったのに、月彦は何か月かたってもぼくに“儀式”を見せてくれなかった。

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