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ある日月彦は、右頬をひどく腫らせて学校にやってきた。担任の先生はその怪我の原因を問いただそうとしたが、彼はずっと左目で足元を睨みつけているだけで何も答えようとしなかった。

 図書館での天文学のテスト勉強を終えて月彦を気晴らしに洞窟に行ってみないかと誘うと、月彦は頭を横に振って代わりに自分の部屋に来ないかと誘ってきた。家に誘われたのは久しぶりで、最近は先生はもちろん、ぼくでさえも家に行くのを嫌がっていたのにと不思議に思いながらもそれを快諾すると、月彦はありがとう、と小さくつぶやいた。

 学校近くの雑木林にある獣道を十分ほど歩くと、月彦の家への近道になる。ぼくらが住んでいる村はとても小さく、人の数も少ないため、道中すれ違う人は多くてニ、三人しかいない。

 ぼくの要望で途中にある教会に行ってお祈りをしていると、そこの司祭が月彦に声をかけてきた。三年くらい前に首都の大きな教会からやってきた司祭だ。この村に若い人がやってくることはめったになく、さらに顔が整っているのもあり引っ越してから半月ほどは周囲の婦人たちの好奇心の的だった。今はそこまで騒がれてはいないものの、彼に少なからず恋心を抱く女学生もいると聞く。

「月彦、今日の学校はどうでした?」

 ぼくらしかいないのにもかかわらず、司祭は小声でそう話しかけ、複雑な文様が刺しゅうされた白い宗教服をばさりと広げてぼくらの前の列のベンチに座る。教会のいたるところで焚かれているお香の匂いが一層強くなった気がして、思わず僕は小さく咳をした。

 司祭をあまり好いていないらしい月彦はこれ見よがしに不愉快そうに顔をゆがませ、呼びかけを無視していつもはしないはずのお祈りをはじめた。その月彦の態度に、司祭は整えられた白銀の眉を顰めるものの、すぐにいつものやさしい微笑みを浮かべて、アーモンド形の人懐こそうな目をぼくに向けてきた。

 正直ぼくも、この人のことはあまり得意ではない。話している間ずっとぼくの瞳を見つめる銀色の眼差しに、いつも心を見透かされているような感じがして気味が悪いのだ。彼が来てからぼくは教会への足が遠のいてしまった。

「碧星くん。今月末の星供祭には君のご両親にもまたいらっしゃるようにお伝えくださいね」

「はい、伝えておきます」

「月彦、きみのお母様にもそう伝えておいてくださいね。ぼくは君たちの力になりたいのですから」

 司祭がそう呼びかけると、月彦は口の中で唱えていたお祈りをとめ、両ひざの上に置いた手を握りしめて祭壇の向こう側の神像をにらみつけた。疵一つない乳白色の水晶でできた巨大な神像はそんな月彦の眼差しを受け止めながら、ぼくらのほうに向かってやさしく微笑み続けている。

「司祭様がぼくらにできることは何もありません」

 月彦はそう言って素早く立ち上がり、ぼくの手を引いて逃げるように教会を去っていった。教会の敷地を出る直前教会のほうを見ると、大きく開かれた扉の向こうで司祭と神像はおなじ銀色の瞳を光らせながら微笑んだままぼくらのほうを見つめており、ぼくはなぜだかその様子に底知れない違和感と恐怖を覚えた。

「あいつは、お母様があんなになった責任が自分にあるなんて思いつきもしないんだ。信仰心が厚い君には悪いけれど、あんなやつが神様の使いっていうのなら、神様なんてものは大したことがないね。あれは貞操感のない俗物だよ」

 ぼくの手を引いたまま小走りに走る月彦は、息を弾ませながらそう言った。月彦がめったに口にしない罵倒のことばには今まで聞いたこともないような嫌悪の色があり、ぼくは何を言っていいかもわからず黙って手をひかれるまま走り続けた。

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