第8話 霞の谷


 {アイオーナ&モララー・パート}

 「――」

 (うとうとしていたのはどの位の間だったのだろうか)

 モララーは半ば夢見心地で道の傍らの大きな岩に寄りかかっている事に気付く。コケシ型の黒髪の少年はアクビをひとつすると未だ覚めやらぬ目を擦る。記憶を確かめる為に、或いは築き上げる為に辺りを見回す。

 霧の晴れるに従って小径は実体を帯びていく。墨で描かれたような光景はやがて色彩を伴い始める。そしてそこは水彩の世界。天界を形作る薄い雲の合間から柔らかい日差しが差し込んできて暖かい。

白桃樹が狭い谷間の周囲の岩肌に生い茂っている。実は未だ熟しきっていないで青く、葉は白緑で幹は薄い珊瑚の色であった。少年がひとつ掴むと白桃は手の中で熟す。齧ると果肉が弾けて甘い果汁が口の中に広がる。

 (もう、うんざりだ)

 少年のほうり投げる齧りかけの白桃は小川の水面を三度跳ねて沈む。が、底には沈まず淡い桃色の鯉と化して泳ぎだす。

 谷間の真中を透き通った冷たい水を湛える小川がくねくねと曲がりくねって、時には滝となり浅瀬となって流れている。川床の岩に生える苔も彩りを添える。淡い黄緑色の鶯と黄茶色の夜鳴き鳥のつがいが螺旋を描いて翔んで行く。川に絡みつくかのようにうねった小径がある。白く細かい砂利が敷き詰められ、果ては霞の中に消えている。

 “チリリリン”

 鈴の音。

 少年の顔に笑みと緊張の入り混じった表情。視線は霧の中をまさぐる。影だけが霧の中から滑り出してくるのを見つけ、目を瞬く。

 黒子ひとつない純白に輝きすら帯びている見事な一角獣と、妖精の血が混じっているのか白銀色の髪を肩まで靡かせた青年が霞の中から現れる。

 (ほほお)

 腰には美しい銀の柄を持つレイピアを差し、薄手の淡藤色のガウンとタイツ、それと鮮やかな空色の腰巻を身につけている。長旅を続けている感じは受けない。否、手入れは行き届いているが騎手の銀の靴底から旅なれした者だと分かる。

青年は景色に見入っているのか、全く少年に気がつかない。少年のほうが風景に完全に溶け込んでいたせいなのか、殺気どころか気配さえない。何故か?

 「旅の人」

 少年の声にびくっとして向けた面は美しい顔立ちであった。陰になってよく見えなかったが脇から後ろに回した手は剣を抜きかかっていた。一瞬こちらを見据えたかと思うと、視線が緩み柄を掴む手の力が抜ける。しかし、ただそう見えるだけ。

 (そんな姿隠しの技はここでは効かないよ)

 少年は青年に対し目で警告する。

 緊張が伝わる。

 青年の均整がとれた目鼻立ち、青く澄んだ瞳、小造りだが筋の通った鼻とその下の小さな唇。それらをきめの細かい肌が包んでいる。横に伸びた耳でエルフの血を引いていることは知れるが、ひと目見ただけでは男女の見分けは付かなかった。

 (新手の罠か?)

 少年は思い切って声を出してみる。

 「おはようございます。とは言っても今が何時なのかわかりませんが」

 と言って少年は両手を広げて万国共通の下心なしの動作をしながら近づく。騎手は馬の歩みを止める。

 「僕はモーラ・ラーデッシュ。人は皆、モララーと呼びます。お見知りおきを。嬉しいですね。こうして人に会えるのは。久しく会っていないのです」

 騎手は素早く相手を観察する。褐色に日焼けした肌の上にラクダ色の腰布と肩掛けだけ。顔は凛々しく眉が太く黒く濃い。誘惑の術か、魅力が溢れる。武器らしい物を身につけている様子はない。

しかし、少年とはいえこちらの隠れ身のマントが効かなかったのだ。腕の程度はわからぬが妖術に通ずる者だ。騎手もまた思ったのだろう。

 (あの時に見た少年だ。罠なのだろうか。もしかすると彼も精神を汚染させられたのかもしれない)

 しかし向こうが万国共通の挨拶をしてきたのだ、こちらもそれに応えねばなるまい。

 「私の名はアイオーナ・ヤンマーニ。ご覧の通り妖精族の血を引く者。これなるは我が友ワイシャウト。一角獣族の王ベルデガードの血を引くもの。君がどうしてこの地に留まっているのか、是非聞きたいね」

 と幾らかくだけて――緊張の緩める事なく。

 アイオーナの白く細い指は金色に輝く糸を手繰り寄せている。一端は一角獣のがっしりと引き締まった胴に縛り付けられ、ぴんと張ったまま他方の端は霧の中に消えていた。

 質問に答える様子もなくモララーは宙を掴むような動作をする。何も無かったはずの手には朝露に塗れた淡い紅色の月影草が一輪。そっとアイオーナに向けて差し出すが、様々な罠を経験してきた騎手は受け取る動作をしない。モララーは膨れた。

 「こんなに綺麗なのに、花が嫌いならば……」

 掴んだ花は手の平でハチドリに変わって飛んでいく。

 モララーは少し歩き、おもむろに逆立ちをして一回転する。地面に脚が戻ったときには衣装が変わっている。緑のチョッキとズボン、それと帽子。

 衣装に合わせるかのように景色が衣替える。

風に舞う白桃の花弁はひらひらと――絹の蝶は舞い――群れをなして羽ばたき――(変化)――青い風琴鳥――少年モララーを覆い隠す。霞んだ後には黒豹の毛皮を纏っている。

滝より流れ落ちる水しぶきは煌きながら凍りつき、ゆっくりと粉雪、蓮華草の上に降り……積もる。積みあがる岩は水のように溶け流れ出す。彩る苔は青々とした麦畑へ。風に揺れ……竪琴の音色……低く穏やかに……(断片)――フルートの音も混じる。……白桃の樹々――雨に打たれて縮み――サンゴ礁――凪……潮風が漂う。

 手を広げ踊り続けながら――様々な映像が頭の中に氾濫するのを感じながら、モララーはこの異邦人が単なる旅人ではないと判断した。何かある。何かが起こる予感がする。

 警戒せよ。


 {ショボ・パート}

 ワルディクス・フォーセイスの炎の半島国はさながら灼熱地獄であった。

アレク湖に注ぎ込むソーン川の熱湯に青銀色の海蛇は湯で揚がり、ホルホートの大森林地帯は燃え続け、時折振る雨も単なる余興にしか過ぎない。天を黒煙が覆いつくし、硫黄の匂いに蒸せる。全てが赤黒く染まっている。

 大ガンシェス・クーク火山の深い谷間の入り口に、褐色の大柄な馬に乗り、赤銅色の肩当てを身につけた騎士がいた。騎士の右腕にはキリンの文様を彫りこんだ竜の牙を握りに使った大石弓。左手には金色に輝く糸が握り締められ、糸の端は近くの巨石に縛り付けられている。そしてもう一方の糸の端はここからは見えない。彼の左手から伸びた糸は、ぴんと張り詰め谷間の奥へと続いていた。

 火山は時を察知したのか活動を始めている。

騎士は糸の微かな反応を伺いながら辺りにも気を配っている。火炎鳥が何羽も群れをなして飛んでいく。人皮に刺青した妖界の絵地図を馬の背の上で広げながら。

「ローンブリッジを選ぶべきだったか」

遠くで絶叫が聞こえる。吐き気のするほどぞっとする甲高い絶叫だった。

「あの谷だろうか?」

腐ったサメの胃袋のような悪臭が立ちこめ、両側のごつごつ突起の出た高い岩壁からはどろどろの溶岩が流れ出していた。

地震が起こったとき、危険を察知した一角獣にしたがって逃げ出していなかったら、閉じた谷間に飲み込まれていただろう。逃げ出したとき振り返れば、裂け目から触手が一本突き出しうごめいていた。

「まるで舌だったな。この谷は果たして本物なのだろうか? 時間がない」

谷間の外では火山灰が降り注ぎ始めたが、辛うじて谷の奥までは届かない。死の大太鼓の打ち鳴らす音が外の凄さを物語っている。騎士は殺気を感じて弩を射る。馬の嘶きと共に鉄の矢が深々と突き刺さった岩から絶叫が上がる。岩は大口を開け、血にまみれた涎を垂らして悶えるように震える。仲間の死を察してか、牙のずらりと並んだ口の化け物は至る所で活動し始めた。


{モララー・パート}

暗黒要塞の管理者たちによってここに放り込まれ、長い間続いた孤独――そしてある日異邦の男が現れた。半ば虚ろなその男を待ち焦がれていた解放者だと思い込み持て成した。しかし単なる道に迷った旅人にしか過ぎず、初めはモララーに興味を示したが、次第に無関心になっていくのが分かった。男は先に進めぬと知って、暫くここにいたが、ある日彼の目を盗んでいなくなった。ログアウトしたのだろう。態度にすら現さなかったのに。

以来何人か迷い込んでくる者があったが、今はもう誰もいない。

彼らが気に入るようにありとあらゆる秘術を駆使したが、彼らが解放者でないとわかるとモララー自身の関心が薄れた。ただ孤独を癒してくれるからと引き止めたが、彼らの目的が知れると、それもどうでもよくなった。

誰が言い出したのかこの牢獄は楽園であり、莫大な宝がどこかにあると言う。彼らは死肉に群がるコヨーテであり、絶えずモララーの腹を探り疑い、嘘をついた。それが彼を苛立たせた。大半は単にこの閉鎖空間から追い出すだけで済んだが、怒りが抑えきれなくなった事が何度か。その事を思い出すだけで吐き気がする。ああ……。


そしてある日、現れた気の優しそうな老人は彼に牙をむいた。老人は歳に合わぬどころか人とは思えぬ態勢から跳躍すると、宙で溶けて醜い揖保だらけの大きなゴリラに変化。着地すると素早く踏み込みゴリラはその鋭い爪でモララーの喉を掻っ捌く。しかし豪腕はただ空を切っただけ。気まぐれから幻を用いて欺いていなければモララーは事切れていただろう。信じられなかった。長老たちがそこまでするとは。閉じ込めておくだけで充分ではないか。怒りと恐怖から、彼は念力で出口のない谷の入り口を閉じ、彼の以って生まれた力を使い始める。谷間の景色は一転し、竜巻の大渦となり、風に飛ばされた鋭い石片がゴリラのみすぼらしい皮膚から内臓、頭を切り刻む。後に残った血まみれの死骸は彼自身を狼狽させる。以来入り口には高い壁が設けられ、この監獄を孤立無援のものにした。


やがて数日が経過し、怒りが静まり恐れを退屈が薄め去ると代わって孤独が台頭する。気づくと障壁を取り去っていた。考えれば考えるほど混乱した。

(あの程度の妖や盗賊で殺そうなどと長老が考えるだろうか。曲がりなりにも暗黒要塞で育った僕にこんな子供だましの幻が効くとは思うまい。アンリ叔母さんもこうやって殺されたのだろうか)

渦巻く疑問。

(長老たちは何故黙認したのか。あの不幸な奴らがここにやって来るのを。気がつかなかったのか、それとも……)

念じるだけでバナナの木々が視界に入ってくる。モララーはたわわに実ったバナナの房から無造作にバナナを一本取る。

(ゴリラは明らかに僕の命を狙っていた。誰の仕業だ? 僕の閉じ込められている事を知り、しかも僕の力を知らない奴とは?)

バナナの皮をむいてほおばる。涙が出てきた。

(いったいぜんたい、外はどうなってるんだ。あれから誰もやってこない。谷間の楽園を皆、忘れてしまったのか)

バナナの味がしょっぱくなる。彼は食べるのをやめて皮を放り投げる。黄色い皮は地面に落ちるとツチノコとなり、木々を飛んでいった。

謎は謎を呼び、彼の頭の中を引っ掻き回す。

繰り返す脱出もことごとく失敗に終わる。モララーだけが出られない対妖術結界が長老たちによって仕掛けられていたからだ。結界を破ろうと妖術を駆使しても徒労に終わるだけであった。絶望は降り積もり、以来長く苦しい孤独が続いていた。


{アイオーナ&モララー・パート}

青、緑、白、赤、黄、白、黒……様々な色素。

中空で混じり合い分解し構成されそして消えていく。つかみ所のない幻想の旋律。

アイオーナは幻覚かと思ったが、彼のような妖精の目を騙すことは可能でも半ば幻に属する一角獣の目を欺くことはできない。彼はワイシャウトに小声で話しかけるが一角獣も警戒しつつも術が存在までに関わっている事に驚き見入っている。

この谷間を構成するプログラムは極めて不安定であり、数々のソースコード……ルーチンから隔てられていた。自由な因子はモララーの作り出す単純な妖術と高度な幻術、念力に引き寄せられて実体化する。アイオーナは例えいかように地形が変化しようとも小径には影響せず固定していることに気づく。二つの世界の狭間にある谷の小径は、二つの世界の絆の物質化したものであった。

この少年も罠なのか、それとも単なる変わり者か?

おそらくは後者だろう。これだけのモノを実体化させ、さらにコンバート(変換)できうる力の持ち主であれば、たとえ見かけが歳若い少年だろうと、彼を殺す意思あらば即実行するであろうから。

普段ならこんなに急いで判断しない。ゲームの設定では妖精というものは本来人見知りしやすく素朴な反面、疑いにくいものであるし、ウテナの教えに反するから。だが今はその余裕はなかった。妖の手を逃れての長い旅路に判断を下す余裕はなく、単なる予感に従って道を選んできた。死の危険などという可能性よりも確実な永遠の恥辱のほうが恐ろしかった。急がねば、こんなところで時間を割いているわけにはいかないのだ。もう追手はすぐそこまで迫っているかもしれないのだから。妖術で作られた糸が幾分強く引っ張られるのを感じる。


{ショボ・パート}

大柄な馬は恐れることなくその足に喰らいつこうとする大口の妖を踏みつけ、引きちぎり潰す。騎士は大石弓を背負い、なおも追ってくる妖に対し重い長剣でそれらを叩き潰す。

低い層に属する低俗な魔性の岩塊は粉々になって砕け散るが、破片はなおもうめき続け、彼らに汚らしい呪いの言葉を浴びせた。

ようやく妖怪を一掃したとき、ショボの身体に悪寒が走った。式神『灰色熊殺しのスマンカッタ』の名が心の中から流れ出て行くのが感じられた。もう既に九体目。ショボの放った逞しい男の式神たちは妖神の目を逸らすために囮となったのだ。彼もまた追い詰められてしまったのだろう。別れは既に暗黒要塞に行く前、トワンコ街道の入り口で呼び出した際に済んでいた。

彼の手持ちに残る式神はあと三体……。

「くそっ!」

谷の奥、霧の中に道を求めて入っていった相棒のことを思う。

(俺が行くべきだったろうか。だいぶ時間が掛かっている。やはり閉ざされているのだろうか。ここでは袋の鼠だ。引き戻る時間は……僅か)


{アイオーナ&モララー・パート}

(解放者なのだろうか。長い間待ち焦がれた……。どうやら目当ては、あるはずもない宝でも僕の身でも無いらしい。だが、この優男も目的は僕と同じだ。ここから出ること……いいや、力はあるがこの障壁を破ることは無理だ。

残念だ。

この男もあいつ等と同じように僕を置き去りにして、引き返して行くのだろう。

ああ、何かもっと強力な妖術を使える力がありさえすれば……)


アイオーナは谷を通り抜けようと何度か試みた。道は霧の中に消えているが、何かに阻まれて近づくことすら出来ない。ある地点まで来るとそれより先には進めないのである。

“キーン、キーン”

一角獣の脚の動きは泥の中にいるようにだんだん重くなり、角が何も見えぬ一点を引っ掻き音と火花を放つ。

“キーン、キーン”

アイオーナは身を乗り出しあるいは徒歩で試したが、目に見えぬ滑らかな壁を感じるだけであった。少年は道の傍らでニヤニヤしている。

(いい気味だ。あんたもそうやって知るんだ。しかし、あの予感は間違っていたのだろうか?)

アイオーナは少し焦ったような顔でモララーに尋ねる。

「モララー、これは貴方の仕業なのですか?」

「とんでもない。この僕自身も閉じ込められっぱなしなんだ」

「では、ここから出る方法は?」

彼は道の続く先を見る。

(戻って別の道を行くべきだろうか。時間はまだあるのか? ショボを呼び入れるべきか。呼び入れれば、戻る時間はない。二人でここに隠れるか。まあ、あの時と同じ結果になるだろう。単なる引き伸ばしにすぎない。それとも、彼からもらった“エンダードア”の呪文を使うか……、いいや、結界が張られているから無効化されるのがオチだ。いずれは……、ここで奴と向かい討つ事になるだろう。間合いは短くなっているのだ。ここ自体袋小路ということ以外に問題はない。あの虫唾の走る谷に比べればましというもの。一番の問題はこの少年だ。ここで向かい討つならば当然この子にも関わってくる)

「一体どうすればいいんだ!」

アイオーナは少年を見ながら叫んだ。声は閉鎖空間内でこだまする。

モララーは首を縮め、万国共通のしぐさ、首を振る。

「無いね。僕自身が聞きたいくらいだ」


{ショボ・パート}

騎士は怒号が近づくのを感じている。

追っ手は近い。チュチェドの妖神が後を追ってきているのだ。罠も駄目、囮も効かず、二度の対決も敗北に終わった。そして知る限り最大の妖術をもってしても時間稼ぎにしかならなかった。今生きているのが儲けものと言わねばなるまい。“力の解放”を今ここで使うわけにはいかない。たぶん奴には使ったところで徒労に終わるに決まっている。

要塞がひとつ灰燼になるほど絶大すぎる力を持つこの大妖神から逃れるすでは、ただひとつ……しかないのだろうか。それは他の遠い国に逃げ込むこと。妖神はその力を身体に封じ込めておく為にこの半島の妖力の“根源”と結びついている。そしてその結力が強すぎる為に、この地から二百キロ以上離れる事ができないのだ。そしてショボとアイオーナのこの逃走。

「シオドーン、お前とは随分と長い付き合いだったな」

馬のたてがみを撫でる。予感を感じながら。

大ガンシェス・クーク火山は煤煙を噴き上げ、麓に亀裂が入る。まるで何者かが無理やり引き裂いたかのように裂け目から熱い溶岩が流れ出し始めている。赤く照らされた蒸気がまるで鮮血のように空を染めている。


{アイオーナ&モララー・パート}

「この谷はどちら側に属しているんだ?」

アイオーナは焦りぎみに。それに気づきつつモララーは、

「本来は……、どちらにも属さない。例えば、二つの国の間を流れる川の水のように」

「……。国境線のかわりに妖術で作られた“壁”という訳か」

「しかし今は僕がいるから」

焦らすように間を置き、ゆっくりと来た方を指差し、

「あっちでしょうね」

「ワルディクス側か……」


{ショボ・パート}

騎士はやり過ごしたかとかすかに期待した。アイオーナのいる閉鎖空間から流れてくる霧を利用して幻視の妖術と殺気を覆い隠す妖術を使ったのだ。

(全く無意味という訳でもあるまい。少なくとも相手をこの両目で見るだけの間は稼げたろう)

谷間に滑り込んできた砂混じりの風に紛れて巨大な肉の塊は実体化した。異様に長く間接のある触手が五本、平たい胴から突き出し、先端の分厚く硬そうな角質は黒光りしている。全体は青白く、どす黒い血管が大ミミズのようにのたうち脈打っている。肉塊は突然痙攣する。

(やったか)

岩に刻んだ妖術陣に掛かった。単純であるが強力な奴だった。これは同時に使い手の逃げ道も絶つという危険を伴っていたがどうやら候を奏したようだ。肉塊はみるみる干からびていく。 

薄い皮膚はひび割れ、筋肉の繊維が捩れていく。そして四方八方に飛び散る。

構えていた大石弓を下ろす。つかの間の安堵。

(だが妖神の眷属たちに知られてしまった。今にも奴自身がここに乗り込んでくるはずだ)

急いで血にかき消えた妖術陣の修復に取り掛かる。それから式神を呼び出す召喚陣を描き終わったとき、激痛、そして吹っ飛ばされる。左からの第二波の妖術波動の攻撃を彼の馬が身体で受け止めてショボを救う。シオドーンは妙な体勢で傾く。肋骨が折れているにも拘らず、鋭く蹴り上げる。罠に掛かったはずの肉塊がそこにいた。

「キモオタフェス、モテォゥオケヌ、ハイランティチケ」

式神を呼び出しながら、第三波を避けて転がり、その勢いで剣を抜いて起き上がり、第四波を受け流す。角質に剣の刃は火花を放つ。目は投げ出された大石弓との距離を測り、耳には唸りがこだまし、口の中は血生臭い。オンドゥールの作った甲冑は背中への一撃から彼を救ったが、ひしゃげているのが感じられる。

(きたっ!)

薄い霧の中、式神カッコーマの黒いマントが空中で風に靡きながら実体化し、剣を引き抜きながら降り立ち、戦いに加わる。続いてハットウシン、シラ・ネーヨが背後の霧の中から現れ妖神の下僕たちと対峙し、切りかかっていく。

彼らはイチサンの誓いによりショボに仕える十二人の者の最後の三人であった。五体の妖怪に対峙する四人の騎士と一頭の馬。

統制のとれた妖怪たちは式神の騎士たちの鎧を引き裂き、馬に傷を負わせる。大石弓の矢が角質に突き刺さったが、一瞬引いただけで再び襲い掛かってくる。妖怪たちに神経は無いのか動きは変わらない。

敵の後ろから黒いものが実体化する。新手か。それは紛れもなく巨大な黒い手であった。異様に間接が多く細長いけれども俊敏であっという間もなく式神の騎士の一人に喰らいつく。ハットウシンの長身が屈し、ひざまずく。ショボが次に見たとき、既にハットウシンは消えかかっていた。心の中に刻まれた誓いから名が消えていく。

霧はだんだん濃くなっていく。じりじりと奥に追いやられているのだ。シラ・ネーヨは遥かな記憶の彼方に忘れていた恐怖を再び味わっていた。長い首に熱く焼けた岩の感触を感じる。

(オイツメラレタカ……)

深々と巨大な爪が腹に食い込む。息が詰まり、肺の中に血が広がる。二度と味わう事のないと思っていた死に驚きながら息絶える。


ショボは糸の感触を手掛かりに、後退していた。妖怪が繰り出す二本の触手が交差し、その剣の爪が太腿をえぐる。肉が裂ける。左からの体当たりを……引きつつ避けながら右腕で固定した刃で相手の肉を断つ。右から真一文字の爪を屈んで避け正面のを切る。しかしどれも致命傷にはなっていない。左足が痺れている。間一髪で避けるが、安定を崩しよろける。 巨大な黒い指の腹に顔面を打たれ仰向けに倒れる。意識が遠のいていく。剣は肉塊の中、指に深く食い込んでいる。突き刺さったまま握る力が抜け、手の届かない彼方に持ち去られる。薄れる意識のその刹那。痛恨の極み。

「こ、ここまでか……」

そこにアイオーナの声。

(正気を保て! おまえは聖騎士だろ)

それと重なって最後の式神カッコーマの声がする。

(しおどーんハ死ニカケテイル。いちさんノ誓イヲ破ル。合図デ飛ベ……)

「待て!」

と、止める間もなく目が眩む。

閃光。


{アイオーナ&モララー・パート}

「考えられる方法としては、この霧の障壁を、城をも崩せるほどの力で一気に破るか、あるいは作った本人たちに解いて……」

モララーの話の途中、突然アイオーナが立ち上がる。

モララーも外の異変に気づく。

「正気を保て! おまえは聖騎士だろ」

と叫びながらアイオーナと彼の一角獣は谷の入り口に向かって走り出す。

「聖騎士だって!?」

続いてモララーも駆ける。

谷全体を揺るがす轟音と振動が突き抜ける。霧は荒れ狂い、飛沫をあげて光が吹き出す。破られた誓いに注ぎ込む力の渦の中心から、焦げ付いた騎士と馬が飛び出し転がる。身体からは煙が上がっている。モララーは彼らの背後に黒いマントの男がいたように見えたが、幻のようにかき消えてしまった。

アイオーナはショボに駆け寄る。

「ショボ!」

(聖騎士。この男が)

と少年。

弓の弦は切れ、肩当ては焼けている。ざっくりと左のふくらはぎが裂けている。流れる血の止まる様子はない。友馬シオドーンは目を閉じ、最後の式神も“亀”と書かれた胸当てを地面に残して無と化した。

アイオーナは囁く。

「来たな」

「そうだ……」

ショボはわずかに頷く。近寄る少年に気がつき動作に入るが力足らず、抱き起こすアイオーナが制する。

「大丈夫。少なくとも今は」

「一体、何がどうなっているんだ?」

と、モララー。


{チュチェドの妖神・パート}

巨大で黒い人型をしたコンピューターウィルスの塊……妖神は追い込んだことを知る。

「小賢しいダニめ。くそっ。追い込んだ所があの谷間とはな。畜生。あの老いぼれどもめ。奴らの最後の悪あがきであそこだけは手出し出来ん事が何故分かったのだ」

あの霧は俺の最大武器であるビーム兵器、ギガ粒子砲を無効化する。

くそったれ。手はあるはずだ。

何としても手に入れてやる。

あの『力』を。


{アイオーナ&モララー&ショボ・パート}

「いいや、このピンチはチャンスかもしれない」

モララーは真顔で二人に言う。遂にやってきたんだ。長老の一人、ヤキンは言っていた。聖騎士の事を。

アイオーナは手早く話す。外の世界のこと。

ラオーグが自分たちに対して放った追っ手、妖術師スクミズが暗黒要塞内に安置されていた妖神の封印を解いてしまったこと。スクミズはショボの大石弓によってシャフトに落下したが、妖神は自分を封印した神々への復讐のためにショボの式神使いの『力』を欲し、両眼から放つギガ粒子砲によって暗黒要塞を内から破壊して追ってきたこと。

そして使命を達成しなければならない自分たちの事をモララーに明かした。

何たる事だ。故郷は……暗黒要塞は……真っ二つに裂けてしまった。モララーが要塞内で盗み見たあの“禁じられた言葉”の意味を今はじめて理解した。あれは予言だったのか。では、自分は罰せられたのではなかったのか。長老たちは己の死を予感して行動したのか。一体妖神とは何なのか。そして何なのだろう、自分は。

再び谷間は揺れる。焦げ臭い。焼けたニオイが強烈になる。ショボは半ば嘆くように、

「溶岩だ。流れ込んでくる」

「奴の仕業か」

「時間がない」

そのときモララーが進み出て彼らの前でしゃがみ、アイオーナとショボに意外な提案を持ちかけた。

「糸を手繰ってできるだけ近づいて奴を引き込む。言わば僕が餌だ。奴をこちら側に飛び込ませ、あの障壁に叩き付ける。ぶつける為にぎりぎりまで近づかなきゃならないけど。それでも障壁の力が弱まるのは一瞬しかないだろうし、中和する場所もごく一部分だけだと思う……」

アイオーナはショボに目配せしてからモララーを見る。一歩間違えばモララーが死ぬことになる。だが、この閉鎖空間を熟知する少年にしか出来ない。

「それしか方法はないんだろ」

「ああ。まだ疑っているのかい」

「報酬は?」

「いらないよ。まあ、くれるというのならここから脱出できた後でね」

「ふっ、まあ罠だとしても、お、面白そうだな……」

苦痛を耐えながらショボは自嘲的に笑う。

アイオーナは金の糸が巻かれた木の棒をモララーに託した。モララーはふくれ面でそれを受け取った。

「ふん。糸の強度は?」

「十二分。黄金羊の毛から作った糸に“硬化”の術を何重にもかけている」

「じゃあ」

モララーは立ち上がった。


{チュチェドの妖神・パート}

巨大な黒い腕は霧の谷に入り込もうと体当たりを繰り返していた。妖神は流れる溶岩を谷に導くために、巨大な岩で進路を塞ぎあるいは掘り返し開いていく。彼の離れた腕から伝わる疼き。何かが近付いてくるのを感じる。

突然、腕は霧の中に入っていった。溶岩の熱を感じなくなった。続いて谷に流れるように誘導した溶岩が単なる土へと変化していく。

「? おおっ!」

妖神は恐れ飛びのき、分離させていた腕を元に戻し、身長五七メートル、体重五五○トンの巨体を後ずさりさせた。やがて溶岩から土へと変化する妖術は火口にまで及び、噴火が収まった。

妖神はモララーのかけた妖術からすんでの所で逃れたが、自身の“死”に直面し身体が震えた。なぜなら、避けなければ間違いなく妖神もただの土の塊になるところだったからである。

「ダニのくせに俺をここまで震えさせるとは、余程の術師か、それとも世界の不具合か……」

このまま手をこまねいていては妖神の沽券に関わるため、彼は再び黒い腕を分離させ、腕は霧の中へと飛んでいった。

「ダニが、死ねぃ!」


{アイオーナ&モララー&ショボ・パート}

モララーは力に逆らって一歩、また一歩と踏み込む。流れてきた溶岩はモララーの力によって既に単なる土くれへと変化させたが、熱はまだ持っていた。

暗黒要塞の頂点に立つ四人の長老によってかけられた妖術は凄まじく、強い。空気は熱く渇いている。何かが近付いてくるのがぴりぴりと感じられる。まるで鉛の濁流の中にいるように身体が重い。持ちこたえようと踏みしめる足は霧に見えぬ大地にめり込む。大地は反発して押し返す。体中から汗が吹き出し、暑苦しい。強烈な激痛が身体を貫く。血液が逆巻き、身体が締め付けられる。見えない手が彼を掴む。それでもモララーは石を念力で曲げて作った即席の釣り針とアイオーナから渡された金の糸を繋げただけの“しかけ”を手放さなかった。

霧の向こうから黒くて巨大な妖神の腕が飛んできた!

「い、ま、だーっ!」

跳び上がる。力を抜く。風の流れに身をまかす。黒い腕が飛んでくる。釣り針を腕が飛んでくる軌跡を予測して投げる。

「釣れた!」

障壁を構成する妖術の反動でぶっ飛ばされる。抵抗していた力を取り込む。加速……の二乗。気が遠くなりかける。

(ダニが、死ねぃ!)

妖神からの精神攻撃に精神を防御。

(はじめてなのに釣れちゃった!)

誰かの暖かい手が彼の腕を掴む。


視界は怒り狂った蛇のようにのたうつ。アイオーナとショボが見守る中、霧の彼方から妖神の腕とモララーが現れ、そのまま彼らの頭上を掠めた。

モララーは金の糸を手放し、柔らかい地面に落ちた。妖神の腕は障壁に激突。

閃光。

障壁は泣き叫び、腕は砕け散る。地獄の底からの悲鳴。それは妖神の声だった。

「うあぁぁ! 俺の腕がぁ!」

千切れかけたヤキンの笑顔がモララーの頭を掠めた。

『往っ……て……ヨ……シ……』

 腕が激突した障壁には黒い穴がぽっかりと開いていく。

モララーは駆け寄ってきたアイオーナに肩を捕まれ立ち上がる。モララーは金の糸が巻かれた木の棒を彼に返した。

「さあ、早く妖神の本体が来る前にあの中に飛び込んで!」

怪我人のショボを乗せたワイシャウトが穴の中に入って消えていった。

「ちょっと待て、穴の向こうはどこに繋がっているんだ?」

アイオーナは急に不安になって少年に問い質した。

「わからない……。けれど妖神がこれで追ってこなくなるんだよ。今よりマシな所に辿り着くと信じるしかない!」

アイオーナはそれを聞いて一瞬困惑したようであったが、覚悟を決めた。

「うん、わかった“自分の信じたところにたどり着く”そう思うことにするよ」

「さあ、早く!」

「逃がさん! 逃がさんぞ!」

妖神が再び吠えて、地響きが鳴った。こちらに向かってくるのは数秒後か? モララーは穴に入ろうとするアイオーナの腰を押した。彼の姿が消えたことを確認したモララーは次に自分が入ろうと穴の縁に手をかけた。

「うおおおっ!」

妖神の巨大な足が霧の谷に入ってきたのとモララーが穴に飛び込んだのはほぼ同時だった。

モララーはしばらく暗い土管のような空間を落ちていったが、急に彼の視界に光が広がった。目に光が溢れ、何も見えない。光の粒子が身体を刺し貫く。強引な転移に体中の分子の引き千切られる感覚……。

黒く開いた穴に渦巻く霧が唸りをあげて吸い込まれる。暴風の吹き荒れる谷間に、岩は飛び交い、霧は燃え、風は爆発し、光は炸裂する。


{モララー・パート}

冷たい水が足をうつ。心地よい。気がつくとそこは河原。ただ目を開けるだけ。平らな地表がしばらく続き、大分いって土手がある。首すらも動かさず観察する。砂利が頬に当たって痛い。面倒だが決心して寝返りをうつと眩しい。

太陽。懐かしい。

恐れていたがどうやら身体は無事らしい。全身から伝わる痛みがそれを証明する。

しばらくして、

「遂に出られた」

感情が底の方から込みあがる。

長い間があり、そして、ゆっくりと疑問。

「ここは?」

見回す。只独り。

「彼らは……」


{アイオーナ・パート}

アイオーナは空虚な世界に降り立った。

「ショボ」

息をつく。今度は口笛で、

「ワイシャウト」

妖精族とその相棒の間の絆を心に浮かべ、反応を伺う。生まれてから一角獣とこんなに離れた経験はない。不安。否、恐怖。

「ショボ! モララー」

瓦礫に埋もれた都市の廃墟。瓦礫の中の焼け爛れた石垣や瓦、木材を見るとここはどうやら日本の江戸時代の考証を取り入れたゲームステージであることがわかる。

劫火の灰が全てを覆い尽くす。生命の影はなく、死すらも感じられない灰色の空。自分の心臓の鼓動の音に驚く。

アイオーナは瓦礫の山から下りて二人と一頭の名前を呼びながら歩き始めた。やがて急速に夜となり、疎らな星の光も終末をものがたる。突然、死の風が吹きぬける。


{チュチェドの妖神・パート}

業火の燃えたぎる大ガンシェス・クーク火山の麓、妖神は溶岩の沼と化した谷間を見下ろしていた。

先程まで土くれと化していた溶岩はモララーの気配が消えた途端に下からまた熱を帯びて燃えはじめ、火口も再び噴火をし始めた。

妖神は二の腕から先のない右腕を高々と挙げて、叫んだ。

「神々どもよ。お前たちの放った監視者は逃げ出したぞ。見ていろ、『力』を手に入れここから脱してやる。お前たちに復讐してやる。もうすぐだ。首を洗って待っていろ!」

その声はシステムプログラムにより区画管理されたサーバーを越え、電子のノイズとして遥か彼方までこだました。

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