3 七月二十一日、二十二日
10. 図書館にて
翌朝、ダラダラと寝坊を楽しんでいると、九時には母さんが部屋に入ってきて叩き起こされた。
うちの家では、土日と言えども八時半には起床して、朝食を取る決まりだ。
せっかくの休みなのにもったいないと訴えたこともあったけど、即座に却下された。
三十分余計に寝かせてくれただけでも、時間にうるさい母さんにすれば、かなりの譲歩だろう。
母さんの早とちりではあるけど、勉強に励む息子への温情
昼まで時間があるので、父の本を見て暇を潰す。父さんはこの土日も仕事らしく、起きた時にはいなかった。
パラパラと眺めてみた感じでは、どの本もそれなりに面白そうではある。
中でも、ショートショート集が取っ付きやすく、四編ほど最後まで読み切った。
題材はファンタジーが中心で、主に登場人物の会話で話が進む。
難しい言葉は一切使われておらず、これならオレでも書ける――とはならない。
ショートショート、こういうのが一番難しいんじゃないだろうか。
魔法の宝くじとか、妖精に飼われる少年だとか、その発想が自分には無い。
何より、あっと驚くオチを、よく思いつけるもんだと思う。
いくら平易な文で書こうが、自分じゃストーリーを考えるだけで時間が無駄に過ぎてしまうだろう。
昼飯を食べたら、手ぶらで図書館へ出掛ける。
念のため、いつ作ったのかも忘れた利用者カードだけ、胸のポケットに入れた。
母さんは身だしなみチェックをしたがったけど、振り払って道を急ぐ。
坂を下り、学校を通り過ぎて、
着いたのは約束した一時の十分前にもかかわらず、もう波崎は玄関前のポーチに立っていた。
「早いな。暑いから、中で待てばいいのに」
「平気。あんまり汗もかかない体質だし」
長袖のブラウスを着てるくせに、色白の顔は涼やかだ。
一歩間違えれば、病弱そうにも見えるけど。
入館した俺達は、波崎の先導で一階の奥へと向かう。
クーラーの効いた図書館は、自分たちより上の年代、中学生くらいに人気があるらしい。机の有る個人席は、彼らで埋まっている。
父さんより歳を食ったサラリーマンっぽいオジサンたちも多く、こちらは新聞を広げてソファーを占拠中だ。
「人はいっぱいだけど、読書してねえじゃん」
「そうだよね。本好きは、借りて帰る人が多いのかも」
図書館にはしょっちゅう来るという波崎が、ここの来館者について教えてくれた。
中学生だと思った連中は、もう少し年上で、高校生、それも受験生が主だそうだ。静かで涼しい場所だと、受験勉強がはかどるのだと言う。
サラリーマンは“外回りの営業職”、ここで休憩を取っている。
街中を歩き回る仕事なので、夏場は図書館が無料の避難所と化す。こう暑いと、それも仕方ないんだろう。
小声で話していた波崎が、“技法書”のコーナーで立ち止まった。
「ここ。“執筆技法”の関連書があるでしょ」
「『小説家への道』とかか。でも、それがどうした?」
「運ぶの手伝って。丸テーブルに座ろ」
波崎は棚から大量に単行本を抜き出し、半分をオレに渡した。
図書館の通りに面した壁は、天井まで届く大きなガラス張りだ。
円形のテーブルはそのウインドウのすぐ隣にあり、カーテンが閉まっていても、日差しが熱気を伝えてくる。
おかげで座席は空いていたものの、あんまり長居したい場所じゃない。
「これ全部読めって言わないよな? 熱中症になるぞ」
「おおげさ過ぎ。それに、見て欲しいのは一部分だけ」
積み上がった本の中から、波崎は赤い表紙の一冊を選んで開いてみせた。
『物語へ
朝に読んだショートショートとは打って変わって、大量の細かな文字の
嫌がるオレを無視して、波崎の指が一節を押さえる。
そこを読めという意味だ。
“――私が小説家になれたのは、ほんの偶然がきっかけです。深々と冷える、冬の日だったなあ”
作家を目指したのはなぜ? それに答える富山へのインタビュー記事だと波崎が解説した。
“話を書くのは好きだった。しかし、筆が遅くて、なかなか作品が進まない。ひどいと一週間に数枚なんてペースでした”
小説家って言っても、みんな速く書けるわけじゃないんだ。“数枚”が原稿用紙のことなら、オレより遅いぞ、コイツ。
“そんな私に、
「ヒツジィッ!」
「シッ、大声出さないで」
叫んだせいで、受験生が数人、こちらを
でも、大声が出て当然だろう。この羊って、ラルサのことじゃ――
「――いや、そうとも限らないか。例えただけかも。羊がめっちゃ好きとか」
「じゃあ、次」
斧夏美著、『小説家になった私』の冒頭部分。
“ミューズは羊の形をしている。
ワタシの耳元に囁かれる甘い誘い。
「ねえ、聞かせて。あなただけの物語を」”
「モロじゃんっ!」
「静かに!」
まさか、ラルサを本に書いた作家がいるとは。
東野ミシンは、“何者かにせき立てられて、必死で小説を書き始めた”と語る。
肉好きだった
小説家の全員が、ラルサに会ったわけじゃないだろうけど、少なくとも波崎が選んだこの十三冊の本には、それと思わせる記述が存在した。
羊、黒い毛、ヒヅメ、鏡――。
世の中の作家がどうやって生まれるのか、その秘密の一端を知ったオレは、首を反らせて天井を仰ぐ。
なんてこった。ラルサに従えば作家になれると考えるか、それとも作家になるくらい書かないと、羊から逃げられないと考えるべきか。
ん、待てよ……。
顔を波崎に向け直し、肝心の一冊が無いと指摘した。
「なんとか彦々とかいうヤツ。あれが抜けてる」
「荒俣彦々の『読ませる技術』ね。最終章が自伝になってて、かなり詳しくミューズについて書いてた」
「それそれ。図書館に無いの?」
波崎が困ったように首を傾げ、長めの髪が揺れる。分かれた前髪の間から、白い額がのぞいた。
本自体は、この市立図書館にもあるらしい。ただ、
「ミューズが載ってるのは、第三版だけ。三番目に刷った本のことよ。第三版は、最終章の内容が差し替えられてる」
「図書館のは違うのか」
「『読ませる技術』の第三版は貴重で、古本屋でも手に入らない。全本回収されたって」
荒俣彦々は、版を重ねた際に、小説家になった経緯を自著に書き加えた。
ところが、その第三版は印刷に問題があり、すぐに出版社へ返本され、次の版が刷られる。
ミューズの記載を削った第四版には印刷ミスも無く、以降、順調にベストセラーとして版を重ねていた。
「第三版は、何がマズかったんだ?」
「なんでも、薄くかすれてたり、意味不明の文章になってるのが続出したそうよ」
「妙な話だな。汚れとか白紙じゃなくて、意味不明の文?」
「文章中に、“羊”の字が続出してたって」
ラルサだ。
あのモフモフ、彦々の改訂が気に入らなくて消したんだろう。
ちゃんと読める第三版は、ファンの間でレア物となり、ネットオークションでは高額で取り引きされている。
時に一万円を超すらしく、とても小学生が手を出せる値段ではない。
「そんな版の内容、どうやって波崎は読んだの?」
「実本は見たことない。誰かがネットに、最終章の抜粋を書き込んだ。それを私は読んだ」
「パソコン持ってるのか」
「あ、んん……持ってた、かな」
「今は?」
「取り上げられた」
「何やったんだ、オマエ」
休日も部屋に閉じこもり、ノートパソコンにかじりつく娘を心配し、親が禁止令を出したのだと言う。
召喚呪文こそ書き写せたけれど、波崎自身も部分的にしか読めていない。
第三版の最終章は、ネット上のあちこちに断片の形で散っており、既に消えたものも多い。
改めて詳細を知りたいなら、腰を据えてパソコンに向かい合う必要があるだろう。
ちなみに禁止令は今年の四月のことで、その頃から波崎の図書館通いが始まった。
インドア派なのは相変わらずでも、少しは外出するようになり、効果があったと親も満足しているんだってさ。
「スポーツとはいかなくても、散歩くらいしろよ。熱耐性の無駄づかいじゃん」
「私のことはいいでしょ。それより、ミューズを何とかしないと」
「羊な。悪の羊。そこら中に出没してるのはわかったけど、まだ情報不足だなあ」
ここはやっぱり、彦々の第三版を読んでおきたい。
オレはパソコンなんて持ってないし、ゲーム機をネットに接続するのも母さんの監視が
学校の情報室へ自由に入れれば話が早いけど、先生が許可するとも思えなかった。
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