1 七月十九日
02. 図書委員
眠たい目をこすりながら、学校への道を早歩きで急ぐ。
いつも十一時過ぎに寝ていることを考えると、昨夜はまだ早く寝た方なのに、頭はもっと布団に入っていたいと訴えていた。
まさかこれも黒羊のせいだろうか。羊を数えると、眠くなるって言うしな。
母さんは機嫌が良く、起こしに来た時も声を荒げたりしなかった。
朝食の飲み物は牛乳じゃなく、インスタントコーヒーの粉を混ぜたカフェオレ。
「目が覚めてスッキリするでしょ」だってさ。
作文に取り組むって言えば、夜も作ってくれそう。
学校までは普通に歩けば十分くらい、やや走り気味なら五、六分で着く。
一軒家ばかりの面白くない町並みは、これでも以前は都会だと考えていた。
ゲームの限定版が欲しくて、父さんに頼んで都心の専門店に出かけた時、本当の都会がどういうものかを思い知る。
駅を埋め
広い道路にはびっちりと自動車が詰まり、店の前には大量の親子連れが列を成す。
街ぐるみでずっと避難訓練しているような、そんな場所だった。
ばあちゃんの家みたいに、田んぼも畑も無いし、道だって舗装されているけども、ここは
ビルでできてるのが都会、子供飛び出し注意の看板が立ってるのは田舎。
蛇も出るし、羊も出る。
学校までの緩い下り坂、そのちょうど中間地点に、山田の家があった。
似た形の家が並んでいても、一軒だけ屋根が青いから、見分けるのは簡単だ。
山田は早くから登校して、ドッジボールでもしてるだろうし、この時間だと会うことはない。
小さな寺を通り過ぎ、一度道を曲がると、クリーム色の校舎が見える。
時間ギリギリの登校組もちらほらいて、同じ学年の顔見知りだと、手を挙げて挨拶してきた。
「おはよ。先行くぜ、修一」
「なんだよ、まだ余裕で間に合うだろ?」
「算数の宿題、まだやってねえんだよ」
走って行ったのは、同じクラスの
同じクラスになるのはもう四回目で、付き合いが長い分、一番仲がいい。
そういや自分も一問、解けてないんだよな。
正確には、字が読めなかった。
蓮を追って、オレも校門へ走り出す。
校舎の向こうには、周囲から頭三つくらい高い
新任の島瀬先生が住んでいる高層マンションだ。
小学校を越えた先、関真市の南側は、オレの住む北側よりは都会の
コンビニやスーパーもあり、母さんが原稿用紙を買ったのも、ハイツの近くの文房具店だった。
登校するランドセルの波をかき分け、校門をくぐり、運動場の脇を通って下駄箱へ。
ここがオレの通う関真小学校――創設七十三年の古い歴史があるらしいけど、校長の朝礼は半分聞き流したので、詳しくは知らない。
本気で立ち寝した山田が叱られたおかげで、後半は真面目に聞いた。
耐震性を高めるために、来年度はここを一次閉鎖し、再来年から新校舎になるとか。
“あなたたちは旧校舎で学ぶ最後の生徒です”そう言われても、感想は無い。
夏休みに、校舎のお別れイベントが予定されているらしく、オレたちに関係あるのはそれくらいだろう。
そんなことよりも。
今大事なのは算数の宿題、さらにもっと重要なのが黒羊だ。
オレに羊を送り込んだ張本人を問い詰めなくては。
上履きに替え、玄関を入ってすぐ正面の階段を、三階まで一気に駆け上る。
二階に職員室があり、見つかればどやされる禁止行為も、先生がいなければ問題無し。
始業直前のこの時刻は、ほとんどの先生は職員会議に出席している。
六の三、教室に飛び込んで一番窓側がオレの席。
前が山田、後ろが教室の隅に陣取る
どちらももう席に座り、山田は算数のプリントを広げ、ケンは窓の外を不機嫌そうに眺めていた。
そう、剣沢
背は学年で最も高く、右の頬に傷跡がある。
五年生の春に転校してきて以来、無口で誰ともつるまず、授業参観でも親は現れなかった。
街で絡んできた中学生を返り討ちにしたとか、女の子を蹴り飛ばしてただとか、不穏な噂をよく耳にする。
あまり関わりたくないこんな要注意人物に限って、今年も同じクラスになった。
二年間一緒になったのは、前の山田
こっちは絵に描いたみたいなお調子者で、たまにフザけ過ぎて女子から白い目で見られていることがある。
運動はそこそこ、勉強は国語以外は微妙、こういう人間を何て言うんだっけ……
「山田、覚えてない? 冗談で空気を
「ん、朝から何だよ……ムードメーカー?」
「いやほら、蓮が関西弁で言ってたやつだよ」
「ああ、“イチビリ”かな」
「それだ!」
「指さすなよ、オレがイチビリみたいじゃん」
お前がイチビリなんだけどな。
ケンとは対照的に、山田は笑顔が基本だ。
何を言っても笑って受け流してくれるから、話しやすい相手ではある。
「算数の答え合わせしようぜ。半分しかやってないけどさ」
「そりゃ写させろってことだろ。かまわないけど、先に波崎と話があるんだ」
「図書委員と話?」
名前が出る前から、波崎はチラチラとオレの顔に視線を送っていた。
こいつも聞きたいことがあるんだろう。当然だな。
教科書やノートを取り出したあと、ランドセルを後ろのロッカーに入れ、また席に戻る。
真横を向いて椅子に腰を下ろし、波崎の顔を見つめた。
黒く長い髪も、色白の肌も、超インドア派のイメージにはぴったり合致する。
全校集会中に貧血で倒れた時は、あまりに予想通りで誰も驚かなかった。
成績は優秀、特に国語や社会では、模範解答として先生に答案を読み上げられるほどだ。
人付き合いは極端に悪く、常に一人で行動しているため、そのうちイジメられるんじゃないかと、ちょっとハラハラしてしまう。
「おいっ、羊が出たぞ」
「……! あとで。また放課後まで待って」
「えー、まあいいけどさ。ちゃんと説明してくれよ。六問目だけ写させてくれ」
「六――ああ、プリントの答えのこと」
すぐに済む話じゃないと、オレもわかってる。
ゆっくり時間が取れるのは、やっぱり放課後くらいか。
渡されたプリントを机に並べて、最後の問題文を書いて写す。
横目で作業を
「なんだよ。これくらい、自力で解くって」
「別に答えも写していいよ。でも、それ……」
目を見開き、
図書委員っていうのは、波崎のあだ名であって、本当は保健委員だ。
女子がここまで近づくと、さすがのオレもドキドキする。
気味悪くて。
「やめろよ、
「なっ! こういう目なんだから、しょうが無いでしょ」
目が大きいのは、人によってはチャームポイントだろう。
ただし、垂れた前髪の隙間から、白目までむくのはやり過ぎだ。
呪いでもかける気か。
写し終わったプリントを突っ返して、波崎へ自分の席に戻るように告げた。
アクティブな彼女が珍しかったのか、振り返った山田が何か言いたげに口をパクパクさせる。
「何もコメントすんな。ほら、プリント」
「サンキュ。いや、図書委員って――」
「いつも通りだよ。呪い系」
「んー、んん?」
オレたちの会話を聞いた波崎がにらんできたが、知ったこっちゃない。
にらみたいのは、こっちだよ。
この後すぐ、山奈木先生が朗らかに登場して朝の会が始まる。
一限目は算数、次に理科、社会、音楽と給食まで普段と変わらない授業が続いた。
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