第8話 雑踏のピエロ(前編)

 その日ぼくは大学を早めに切り上げて家に戻った。本郷のぼくのアパートは引き上げたので、今では名実ともにひかるのいる場所がぼくの家だ。御茶ノ水まで歩いて帰る道すがら、ぼくはアポトーシスのことを考えていた。世界を壊さなくても、自分を殺せば同じことになるのだろうか?


 そんなことを考えていたからだろう、ぼくはアパートに着く直前まで異変に気づかなかった。そしてぼくが気付いた時、全てはもう手遅れだった。アパートの三階にあるぼくらの部屋には大きな窓が二つある。どちらも南に面しているが、その窓をふと見上げたぼくは、そこに複数の制服警官がいるのを見て凍りついた。一瞬、何かの間違いか、自分が見ているのは隣の部屋ではないか、と思った。その希望が間違いであると気付いた時には、ぼくは駆け出していた。


 階段を駆け上がる。三階について息を整える間も惜しんで玄関へ。ドアノブに手をかけた瞬間、後ろから大きな力で掴まれる。こちら第二班、小川を確保。無線で会話する声を背後に聴きながら、ぼくは終わりを悟った。


 ***


「ひかるに会わせてくれ」

 何度目かしれない懇願を無視して、内務警官はぼくの目の前に透明な袋を置いた。

「これが何か分かるか」

 冷え切ったコンクリートの床から冷気が這い上がって来てぼくの体を震わせた。取調室は窓のない殺風景な部屋で、設計した人間の無個性的な個性が際立っているように、ぼくには思えた。

「知らない」

 ぼくの言葉に内務警官は薄く笑った。

「では不用品だ、捨ててしまおう」

 警官はそう言って無造作に袋を手に取ると、ドアの方に歩き始めた。

「待ってくれ、それはひかるの…」

「彼女のなんなのかな?」

 ぼくは必死に考えた。ぼくは逮捕されてもいい。でも、ひかるにはあの薬が必要だ。もう買い直すお金もない…

「ひかるの薬だ。返してくれ」

 警官は薬をぼくに向かって放ると、一気に距離を詰めてぼくに向き合った。

「君の彼女を助ける方法がある、君がその気なら、協力しよう。私はこの件で逮捕者を出せとは言われたが、実のところ二人もいらんのだよ」

「なぜ薬のことを?」

「近隣住民が通報したのだよ。見慣れない錠剤のシートをゴミ袋の中に見つけた、とね」

 そう言いながら警官は調書を取り出して、私に見せた。サインしろということらしい。

「サインしたらひかるに会えるのか?ひかるは自由になるのか?」

「もちろんだとも、私が罪に問いたいのは君であって一条ひかるではないのだからね」


 ***


 半日ぶりに見るひかるは、見るに耐えないほど憔悴していた。調書にサインしてから四時間も待たされた理由は聞いていない。ただ、今はひかるのことしか頭になかった。ぼくは彼女に駆け寄ると、その震える体を抱きしめた。彼女はぼくにすがりついて激しく泣きはじめた。もう大丈夫、怖いことはもう終わった、大丈夫だよ。そう言い聞かせて、ぼくは彼女を落ち着かせようとした。内務警官が入ってきて、座るように言った。ぼくはひかるを宥めてぼくの横に座らせた。警官の後から検事が入ってきて、直立不動の内務警官を背にして椅子に座った。彼は手短に、例の件は約束通り履行する、調書にサインをしなさい、と言った。ぼくたちは黙って調書を読むと、そこにサインをした。検事は調書を書類入れにしまって、内務警官に頷いてみせた。警官はぼくに外に出るように言った。ぼくはこれを最後と心に決めてひかるを抱きしめると、

「じゃ、元気で」

 と声をかけた。彼女は涙をいっぱいにためた目で頷いた。ぼくは部屋を出た。鉄格子の隙間から不安で震えるひかるが見える。内務警官がひかるに向き直るのが見える。ひかるが緊張して、ぼくの方を盗み見た。そのさみしげな目を見た時、ぼくは全てを悟った。警官が発する言葉が、その悟りを追って廊下まで響くのを、ぼくはなすすべもなく聞いていた。

「優生保護法の規定により、一条ひかるを拘束する」

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永遠 旅人 @tabito

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