第7話 アポトーシス

 そんな回想から現実世界へ戻ってくると、テーブルに両ひじを乗せて頬杖をついたひかるがにっこり笑ってぼくを見つめていた。ね、何考えてたの?そう訊ねる彼女に、ひかると出会った頃のことを考えてたんだ、と答えながら、ぼくは蜜柑を一つ取った。一昨日八重洲崎先生にもらったその蜜柑は、とてもみずみずしく皮が薄くて美味しかった。ふうん、うれしそうな顔してたから、えっちなこと考えてたのかと思った。そう言ってけらけら笑うひかるを見て、ぼくもつられて笑った。そんなこと言ったら寝込みを襲うよ?そう言うぼくの顔を見て、ひかるは急に立ち上がると、意味不明なポーズをとって、寝込みと言わず今でもよい、受けて立つ、と時代劇の口上じみたことを言った。


 その後どうなったかは言うまでもない。


 ***


 次の日、ぼくは八重洲崎先生の研究室を訪ねた。先生はまた飲みもしないコーヒーを二人分淹れて、ぼくの向かいに座った。締め切った窓からは散ってゆく銀杏の葉が見える。ぼくは蜜柑の礼を言った。先生は筆談用の紙を広げる手をふと止めて、ぼくの顔をじっと覗き込んだ。君の恋人は蜜柑を喜んでくれましたか。ぼくはひかるがぼくの倍以上食べて満足したことを報告した。先生は優しげな笑みを浮かべて、そうですか、よかった、と呟いた。私の母が送って来たのだよ、子供の頃家には蜜柑と柿の木があってね、とても楽しみだった、今の下宿にはないので残念だ、と言った。ぼくは下宿という言葉に引っかかった。先生は単身赴任ですか?そう訊いて、ぼくはしまったと思った。先生は悲しげに頭を振って、私には家族はいないのだよ、好きな女性もいない、と言った。ぼくは何も言えず、急に静まり返った部屋の中でエアコンがたてる微かな低音を聴いていた。先生の方を見るのが、気恥ずかしかった。


 少しして、先生が沈黙を破った。君は、絶対に幸せになる方法があればどうしますか。そう訊ねる先生は、いつもと同じ表情をしていた。ぼくは、幸せの定義によります、と言った。先生は頷くと、こんな話をした。


 よく知られているように、量子力学的な観測を行う前には、観測したい量の期待値しか分からない。ところが観測を実際に行なうと、ある値が得られて他の可能性は消える。これを別の見方から見て、他の可能性は消えるのではなく、未確定だった値が確定する際に生まれた並行宇宙に逃げるのだという人がいる。もしそうならば、不幸な事実が起きるたびに宇宙を破壊することで、生き残った宇宙はあらゆる意味で幸せな宇宙になる。不幸な宇宙の自死、アポトーシスのおかげで、生き残った可能性は必ず幸福になるのだ。


 先生は、でも、これはただの言葉遊びだけどね、と言って微笑んだ。もしそうなら、先生は宇宙を破壊したいですか、とぼくは訊いた。宇宙を壊すのは無理だからそうしたいとは思わないけれど、自分を消したいと思うことはあるね。先生はそう言って悲しげに笑った。

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