第6話 初心

 ぼくが栗原と付き合っていたのはたった四ヶ月だったが、ぼくにとって初めての女だった。栗原は豊満な体をした今風の女で、ぼくはすぐにそのカールした薄茶色の長い髪や露出の多い服装に夢中になった。ぼくと同じ大学の女性はほとんどが地味で、おとなしいか中性的かのどちらかだったから、目白の女子大に通う彼女は新鮮で、眩しかった。栗原は万事割り切った恋多き女で、地味なぼくには興味などない様子だった。この時点でぼくの頭の中には赤信号が灯った。自分の平穏な生活や観想的な性格にそぐわない危険な女だと、ぼくの理性は告げていた。これは実際正しかったのだが…。ぼくは彼女に告白して、あっさり了解を得た。ぼくはそこでおかしいと気づくべきだったのに、初めてできた恋人に舞い上がって、理性を失っていた。ぼくは数日もしないうちに自分の初めてを彼女に捧げ…数週間以内には財布の中身をあらかた捧げていた。ぼくは自分が破滅への道を歩んでいることを知っていた。でも、きっといつかは栗原も改心するだろう、わかってくれるだろう、だってこんなに美しい女性が悪人である訳がない、ぼくはそう思って愚かにも自分をそのくびきにつないだまま、苦しみ続けた。


 そんな時、ぼくはひかるに出会った。彼女はいとこの栗原とは正反対で、地味で不器用なほどに親切だった。ぼくたちはぼくが当時住んでいた大学の寮のパーティで初めて顔を合わせた。栗原は自分に寄ってくる男子学生たちを適当にいなしながら、女友達と笑い合っていた。その目には、自分の容姿に対する自信があふれていた。ぼくは栗原が自分を恋人として紹介しないことに苛立ちながら、パーティの隅でお茶を飲んでいた。本当なら、自分はこの場で一番の美女を手に入れた男として賞賛を浴びているはずなのに。栗原に馴致されたぼくは、もはや愛を見失ってそんなことを考えていた。


 そこへ、ひかるがやって来て話しかけた。こんにちは、小川くんですよね、私一条です、栗原さんのいとこなの。ぼくは栗原を見つめたまま、適当にそれらしい返事をした。一人になりたかった訳ではない。ただ、自分が栗原に男としての誠意を示すことで、栗原から等量の誠意を引き出せると信じていたのだ。ひかるは少しためらって、ぼくに尋ねた。栗原さんとは、うまくいってますか?ぼくはそれに答えようとして初めてひかるをまっすぐ見た。長い黒髪にはカールもかけず、高校生のように肩に垂らしている。優しい目鼻立ちは少し緊張したようにこわばっていた。白い膝までのスカートに、桃色の薄いセーターを着ていて、襟元からは白い襟付きのシャツが見える。胸は大きい方で、不思議な安心感があった。顔、脚、胸、と見てまた顔に目を戻したぼくは、その目がとても優しいことに気がついた。少し潤んだ大きな目は、何か問いかけるようにぼくを見上げている。ぼくは、大丈夫、うまくいってるよ、と言おうとして声が出ないことに気づいた。涙がふたすじ目から溢れて、ぼくは不意に自分に戻った。


 ぼくはひかるの助けを借りて栗原に立ち向かった。いや、栗原に依存してきた自分の闇に立ち向かったと言うべきだろう。ぼくは二週間かけて栗原と別れた。その戦いが終わる頃には、ぼくはひかるが好きになりはじめていた。


 四ヶ月後、ぼくはひかるに告白した。

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