第5話 裏切り
八重洲崎先生は、私はコーヒーは飲まないのだが、君は飲むかね、と訊いた。私も飲みません、というぼくに、そうだよなあ、と言いながら先生はコーヒーを淹れて、自分の分もカップを持ってきて、机に置いた。飲まなくていいよ、という先生に、頂きます、と言って形だけ口をつける。先生はぼくのレポートを持って来て、赤字で書いたコメントをいちいち見せながら、ここはこう、これはこれでいい、などと声だけ聞いても意味の通じないことを言った。合間合間に、筆談で要所を聞いてくる。それはレポートに書いた、社会の不正を糾弾する内容についてだった。
「君は、こんなことを書くべきではない」
ぼくも筆談で返す。
「なぜですか?」
「君の恋人のためだ」
ぼくは唸った。先生が畳み掛ける。
「彼女は病気なんだろう?君がいなくなったらどうするのかね」
「先生は、でも、戦っているじゃないですか」
「私が?」
先生は意外そうにぼくを見つめた。その目には一点の皮肉もなかった。
「私には、君のような勇気はない。私は臆病だ。君にもいつかわかるだろう」
そう書きながら、先生は悲しげに窓の外を見やった。ぼくもつられて外を見る。銀杏並木が色づいて、落ち葉が数枚舞っている。
先生は、君の恋人にあげなさい、と言って蜜柑を出して包んでくれた。ぼくは礼を言って、先生の部屋を出た。
ひかるのアパートに帰ると、様子がおかしかった。電気が消えたまま、スマホも机の上に置いたままだ。ひかるは大学を休学していたから、行くあてもないはずなのに。ぼくは家の中を探し回った。ぼくが今のアパートを引き払ったら二人で住むために借りたアパートとは言え、そんなに広くはない。ぼくは途方にくれた。そのとき、彼女の行きそうな場所が二ヶ所だけ頭に浮かんだ。ひかるの親友の千賀子の所か、栗原のところだ。ぼくは千賀子に電話した。はじめ電話は留守電になった。ぼくは即座に切って、もう一度かけた。今度は通じてほっとしたぼくは、もしもしも言わずに、千賀子…真栄さん、小川です、清顕です、ひかるを見ていない?と尋ねた。千賀子が息を飲むのが聞こえた。小川くん?ひかるは見てないわよ。どうしたの?もう一ヶ月も学校に来てないし、休学したって一昨日言ってたから、心配してたのよ…ぼくは気落ちして、ひかるは病気で休んでいる、今目を離したら書き置きも無しでいなくなった、もし連絡があったら教えてほしい、と言った。
ぼくは気が沈んで、栗原に電話する気になかなかなれなかった。やっと気力を振り絞ってかけた電話は、手の中で小刻みに震えた。電話はすぐに通じた。栗原さん?ぼくの問いかけに、栗原は思わせぶりな間をおいて、小川くん、久しぶりね、と言った。別れてもう三年なのね。寂しかったわ。ぼくは息苦しい思い出に喉がからからになった。栗原さん、すまない、君のいとこが行方不明なんだ。いとこ、ね。栗原はゆっくり間をおいた。一条さんなら居るわよ、ここに。ぼくは驚きのあまり声を上げた。ひかると替わってくれ、元気なのか、なぜそこに?矢継ぎ早にいうぼくに、栗原はのんびり言った。話したくないって。小川くんがここへ来なさいよ。ぼくは、ここで争っても意味がないと思って、今から行く、と言うと電話を切った。
栗原は豊島区に親と住んでいる。ぼくは三年ぶりにその門をくぐって、チャイムを鳴らした。栗原はすぐに出て来て、さぁどうぞ、親はいないわ、と言った。ひかるを探してきょろきょろするぼくをじっと見つめる栗原は、どこか怒っているように見えた。ひかるはどこ?ぼくがそう聞くと、栗原はふんと鼻を鳴らした。いるわけないでしょ、小川くん、あなたは振られたのよ、相変わらず馬鹿なんだから。ぼくは呆然と立ち尽くした。騙したのか、そう問うぼくに、栗原の怒気を含んだ目が迫って来て…栗原はぼくにキスをした。ぼくは呆然としたまま、三年ぶりに交わすキスに無意識に応えていた。ねえ、小川くん、私ともう一回やり直さない?そう言いながら、栗原はぼくの手を取って自分の胸に当てた。ぼくはなすすべもなく、されるがままだった。最後に一条さんと寝たのはいつ?そう聞きながら、栗原は熱っぽい目でぼくを見た。ぼくは何も言えずに、栗原を見つめ返した。その目には熱い欲情がたぎっている。その欲情が栗原の両目に映るぼくのものだと気づいた時、ぼくの中で何かが弾けた。ぼくは栗原をソファに押し倒して、その唇を貪った。その時、部屋のドアが開いて…
傷ついた顔のひかるがそこにいた。
***
待ってくれ、そう叫ぶぼくを睨んで、ひかるは部屋を飛び出した。追いかけようとするぼくを栗原が掴んで離さない。裕美、何をする、離せ、ぼくは喚いた。栗原は薄く笑って、やっと名前で呼んでくれた、と言った。呆然として見つめるぼくの前で、栗原は勝ち誇った笑みを浮かべた。私を振ってあんな女と付き合うからよ、罰だわ。何よ、理想のカップルみたいな振りして、反吐がでる。でもいいわ、せいせいした。一条の顔見た?もうあんたたちも終りね…
ぼくは床に膝をついて手で顔を覆った。惨めだった。
***
大塚駅へ向かう道すがら、ぼくはひかるは今どこで泣いているだろう、とぼんやり思った。自分には彼女の横にいてなぐさめる資格も権利もない。そう思うと、涙で目が霞んだ。ぼくは妙に冷めた頭で千賀子に、ひかるは見つかった、詳しい話は後で、と送って天を仰いだ。
駅に着いて北口からコンコースに入ると、地図の前に手持ちぶたさな様子のひかるがいた。ぼくは我が目を疑った。ひかるはぼくに気づくと、ちょっとためらった後、ちょこちょこと走って寄ってきて、ぼくを見上げた。言いにくそうにしている彼女を見ていると、資格とか権利とか、どうでもよく思えた。ぼくは、やっぱり君がいいんだ。そう言ってぼくは彼女をおずおずと抱き寄せた。ばか。彼女はそう言って、ぼくの背中を拳でぽかぽか叩いた。あたしのばか。彼女はそう言うと、ぼくから身を離して、じっとぼくの目を覗き込んだ。ごめんなさい、私のせいなの。彼女は驚くぼくの目の前で、訥々と話しはじめた。私ね、ずっと不安だったの、清顕が私のこと好きでいてくれるか。それで、栗原さんに頼んだの、あなたを誘惑してほしい、って。それでも清顕が私を選んでくれたら、そしたら、きっと清顕は本当に私のこと好きだって分かるから。でも私怖くなって、途中でドアを開けちゃった。いつのまにか涙に濡れた目を必死に見開いて、彼女は、あなたを裏切ったのは私なの、と言った。
さめざめと泣く彼女を抱きしめてその頭を撫でながら、ぼくは、君は悪くない、怖い思いをさせてごめんね、と繰り返した。そうやってぼくは、ひかるが目に見えない何かと必死に戦っている間、ずっとその小さな震える体に自分の体温を与え続けた。
愛とは不思議なものだ。肌を重ねるのはきっと、愛にとってほんの些細なことで、相手のために傷つき悩むことが愛なのだと、ぼくはその時ようやく気づいた。蜜柑。え?と言う彼女に、手に持ったままの蜜柑の袋を差し出す。帰って食べよ。
彼女はこの日一番の笑顔で、にっこり笑った。
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