第3話 暗い影

 ぼくたちはすぐに大きな壁にぶつかった。軍事政権下で、精神病患者への医療行為は30年分近く後退していた。それだけではない。この時代、精神病と診断されることは直ちに社会的地位の喪失を意味した。幸い医師は理解のある人で、ひかるの診断結果をぼくたちだけに伝えて、焼却処分にしてくれた。問題は薬だった。裏ルートで出回っている抗精神病薬は危険すぎたし、だいいち高すぎた。ぼくは医師の紹介で革命前からの在庫がある三鷹の薬局に行き、身分を偽って抗精神病薬を購入した。レキサルティというその錠剤は、革命前の価格で一ミリグラム二百円以上したが、今はその五倍の価格だった。当然ながら公的保険は効かない。ぼくは在庫がなくなるのを怖れたが、とりあえず四週間分だけ買った。


 三鷹からの帰り道、ぼくは彼女と一緒に中央線の特別快速に乗って窓の外を眺めていた。暮れかけの空は西の方が紅く染まって、まるで大気が燃えているように見えた。ひかるの方を見ると、彼女は子供のように座席に正座して窓に額をつけ、夕日の方をじっと目で追っている。あの日からひかるは子供っぽい仕草や話し方を頻繁にするようになった。錠剤の値段は、彼女には言っていない。この様子だと、言っても危機感を共有できたかどうか。そのことに思い至ってぼくは急に心細くなった。彼女の幼い表情を見つめる。その澄んだ瞳に夕日が映っているのを見たとき、何故だろう、ぼくは自分が今までいかにひかるに頼りっきりだったかに、やっと気がついた。夜の営みや朝ごはんを作ること、金銭的に彼女を支えていることに驕って、彼女に依存している現状から目を背けていた自分が、急に恥ずかしくなった。大丈夫だよ、ぼくがいるから。口を突いて出たその言葉に、ひかるは不思議そうな顔をして、少し笑った。


 幸いひかるの症状にレキサルティはよく適合したので、ぼくは一年分買う決意をした。在庫は取り決め通り、秘密の合言葉を書いた手紙で予約した。三日後、予約の準備ができた旨電話が入ると、ぼくは札束を持って三鷹へ向かった。今度は一人で行った。ひかるは家で待ってるわ、大丈夫よ、と言った。連れていけない理由は札束を見せたくない以外にもいくつかあったが、言わないでおいた。家を出て銀行で預金をありったけ下ろしたあたりから、ぼくはすでに不安になっていた。三鷹に着いて、約束通りひかるにメッセージを送る。返事はすぐに返ってきた。ひとまず安心だ。ぼくは薬局に行って、レキサルティ一ミリグラム八百錠を百万円以上で買った。軽くなった財布と重くなった鞄を抱えて三鷹駅まで帰るバスの車内で、ぼくは二回目のメッセージを送った。返事は返ってこなかった。


 ぼくは焦って、三鷹駅に着くとすぐ電話をした。着信音が鳴るばかりで、何も起きない。ぼくは何度も電話をかけたが、結果は同じだった。特別快速に乗ってひかるのもとに急ぎながらも、ぼくは不安で胸がつぶれそうだった。新宿を過ぎると電車はとても混み始めた。ぼくはスマホを取り出そうとポケットに手をやり…隣にいた軍属の脇を肘で突きそうになった。軍属がぼくの腕を捻りあげるのと、ぼくがしまったと思うのは同時だった。


 その後のことはあまり覚えていない。駅員が来てホームに連れ出されたこと、まだ二十才くらいに見えるその軍属が何か言ってぼくを指さした動作、警察官が来るまでの耳がじんじんいうほど長い時間。ぼくは鞄の中身を待ちわびるひかるのことを考えて、自分の絶体絶命に思い至った。こんな大量の抗精神病薬を持っているのがばれれば、もう家には帰れないだろう。幸い、身分証の類は持っていなかったから、スマホを処分すればひかるに累が及ぶことはない。でも、薬もぼくの助けもなしに彼女が生きていけるだろうか。そんなことを考えていると、ぼくの目の前に別の中年の軍属が現れた。この人、何もしていないよ。その男はぶっきらぼうに警察官に言った。


 ぼくははじめ、何が起きたのか理解できなかった。そして、天佑のようなその言葉が、ぼくを自由にして初めて、ぼくはその意味を知った。ぼくはぶつぶつ言っている若い軍属と、それをなだめる警察官たちに背を向ける気になれず、そっちを横目で伺ったまま中年の軍属に礼を言った。その男は気をつけて帰りなよ、と言ってぼくの背中を叩いた。


 御茶ノ水の彼女のアパートについた時には日は沈んでいた。ぼくは走ってアパートの前まで来て、息を飲んだ。ひかるが、心配顔でアパートの前に立っている。その時ぼくは自分がスマホを確認していなかったことに気づいた。ごめんなさい、私うとうとしちゃって。そう言って涙目になる彼女を抱きしめながら、ぼくは精一杯の笑顔を作ると、こっちこそごめん、駅で事故があってね、でも大丈夫、と言った。


 冬の大気がひかるを押し包んで凍えさせる前に、ぼくたちはひかるのアパートに入った。そこだけは平和で、暖かくて、ひかるの準備した夕食を食べながら、二人で幸せな気分に浸った。あたりにひしひしと押し寄せる暗い現実の影を、見ないように気をつけながら。


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