第2話 秋の変転

 平穏な日々はそのまま数週間続き、ぼくとひかるは逢瀬を重ねながらそれぞれの大学に通って勉学に励んだ。いや、ぼくはそう思っていた。そして、ひかるの異変に気づけなかった。ベッドでぼくを求めるその激しさに、いつも眠そうなくせにこだわりが増えたところに。彼女はぼくにはいつも通りに見えたのだ。


 だから、十月のある日、病院から電話がかかってきたときには心底驚いた。ひかるが川で溺れて搬送された、という医師の言葉にぼくは危うく電話を落としかけた。病院へ駆けつけるぼくの脳裏に、自殺未遂ではないか、という考えが浮かんだのは、後から考えればある意味不幸中の幸いだった。


 江東区にあるその病院で、ひかるはベッドに寝かされたまま弱々しく微笑んでぼくを迎えた。ぼくは努めて平静を装おって、いやあ、びっくりしたよ、ドジだなあ、と快活に言った。その言葉が白々しく聞こえるくらい静かな病室で、彼女がうふふと笑う。少し時間が流れて…ぼくはどう切り出したものか途方にくれた。この相互欺瞞を抜け出して、彼女の魂に語りかけるべきだった。ぼくは手汗をズボンで拭いながら、しかし、暑いね、とありきたりの言葉しか言えなかった。


 ごめんね、私、自分で飛び込んだの。そう言って二人を隔てる殻を破ったのはひかるだった。ぼくは自分の顔から表情が消えていくのを感じた。うん、そうだと思った。ぼくはそう言って、布団の上でいつのまにか組み合わされた彼女の手を取った。とても冷たい。ぼくはそのとき初めて部屋が初秋の寒さに包まれていることを知った。言葉の海がピタリと凪いで、言うべきことを失ったぼくはただただ彼女の手を握って泣いた。


 彼女は、統合失調症だった。


 ***


 がらんとした病院の総合受付で、ぼくはひかるの手を握ったまま、泣き続けた。そんなぼくを見かねたのだろう、ひかるが何か言うのが聞こえた。はじめその言葉は焦点を結ばず、ぼくの前頭葉を無意味に漂っていた。ワタシタチワカレマショウ…ぼくの脳がそれを適切に変換するのと、ぼくが叫ぶのは同時だった。嫌だ、と。あたりにいる人がこっちを見て眉をひそめている。ぼくは彼女を睨んだ。君がどうなってしまったのか、なぜ自分を傷つけるのか、ぼくは知らない。でも、ぼくは君を守る。それが厄介でも、嫌でも、ぼくはあの世の果てまで追いかけてでも君を守る。それを聞いて彼女は曖昧に微笑んだまま、向こうを向いた。ぼくはそのまま彼女が消えてしまいそうに思えて、必死に手を握った。彼女は振り向かなかった。ぼくの口から、歔欷の声が漏れた。許してくれ、すまない、ぼくが悪かった、そう繰り返しながら、ぼくは自分より小さい、傷ついた彼女に泣きすがった。


 気がつくと、彼女がぼくの頭に手を置いてそっと撫でている。ぼくは目を上げ…彼女の目から溢れる涙を目の当たりにした。初夜にも見せなかったその涙は、彼女が耐えてきたすべてを物語っていた。ぼくはそのすらりとした体をかき抱き、その流れるような長い髪を、何度も何度も撫でた。病院でシャワーを使ってきた彼女は、いつもと違う香りがした。その香りが突きつける不穏な現実の中に、常変わらぬものを見出そうとしてぼくは彼女を強く抱いた。離さないから。もう離さないから。そう繰り返しながら、ぼくは冷え切った彼女に自分の体温を与え続けた。本当は自分がその小さな消えかけの温もりに依存していることを、誰よりも知っていたから。

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