永遠

旅人

第1話 日常と瞬間

 私たち、馬鹿みたいね。埃っぽい廊下の奥で肩を並べて座ったまま、彼女はぼくにそう囁いた。ひびの入った窓ガラスからは、色あせた太陽の光が幸せだった頃の名残を振りまいている。廊下の床に窓枠が落とす影をなぞって埃の上に線を描きながら、彼女は長い髪のかげで、寂しげにそっと微笑んだ。君は、とぼくは言いかけて、少しためらった。彼女が髪をかきあげて不思議そうにぼくを見つめる。君は、怖くはないのかい?


 ***


 二〇二〇年のクーデターで軍事政権に変わってもう四年か。そう思いながらぼくはさっきから軍歌を流しているテレビの方を見やった。食堂の天井近くに据えられた画面の中では中嶋国防大臣がフィールドに整列した無数の兵士たちを直立不動で睨んでいるところだ。黒い軍服の将校たちがその周りにずらりと立ち並び、巨大な旭日旗が彼らの後ろではためいている。日本共和国国防軍創立記念日、とテロップが流れるNHKの番組は、勇ましいだけで鼻につくアナウンサーの口調が嫌いでいつも苦手だ。あいにく食堂には他にも客がいる。その中に画面を熱心に眺める準軍服の内務警察官を見つけて、ぼくは軽くため息をついた。もっとも、このご時世では私服の警官があちこちに潜んでいるだろうし、密告も日常茶飯事だったから特に意味はない。ただ象徴としての、陰鬱な現実のシンボルとしての制服にため息をついただけだ。

 突然テレビが静まり返った。食堂にいる全員に緊張が走る。次の瞬間、全員が電気ショックを受けたかのように一斉に立ち上がり、胸に手を当ててテレビに正対した。独特の陰気なメロディーが流れ始め、新国立競技場の演台に西村首相が姿を現した。戦闘機が上空を滑空して煙幕で青空を切り裂く中、首相は胸に手を当てて国歌を歌い出した。満場の兵士がそれに唱和し、観客席でも忠良なる国民がその鬱屈したメロディーに参加している。短い時間だった。共和国国歌の標準演奏時間が三分半であると定められていることなど、四歳の幼児でも知っている。

 演奏が終わって皆が着席すると、首相がマイクに歩み寄って演説を始めた。首相の後ろには軍服姿の陸海空軍将校がずらりと並んでいる。既視感のあるその光景は、とても二十一世紀のものとは思えなかった…


 ***


 食堂で軍創立記念日の中継を見た次の日、ぼくはひかると会うために神保町まで三田線に乗って出かけた。このところの首都改造計画で、駅は大規模工事の最中だった。ぼくは西片の交差点に近いいつもの出口から春日駅に入った。その出口の辺りからは文京区役所が少し見える。巨大な旭日旗が掛かったその建物が鼻について、ぼくはいつもそっちを見ないようにしている。階段を何続きか降りて、工事中の札がついた通路を抜け、改札に着いた時、ぼくは何かが変だと思った。ホームの方から怒鳴り声が聞こえる。改札の窓口にいるはずの駅員が見当たらない。全体的に空気がぴりぴりしていて、ぼくの頭の中で赤信号が灯った。改札機の少し手前で素知らぬふりをして、ズボンのポケットをまさぐる。この動作に意味はない。ただ、そうやって自然に時間を稼ぎながら、ぼくは横目で状況を把握しようとした。五年前なら、こんなことはせずにすぐに改札を通って見に行っただろう。だが、四年間の圧政は人々を用心深い野生動物のようにしてしまった。ぼくはぎりぎりまでズボンを探って、内務警察の制服を着た男がいないこと、騒いでいるのはサラリーマン一人で、普通の警察官と駅員が取り囲んでいるだけであることを見て取った。行っても大丈夫そうだ。


 ホームを足早に歩きながら、最小限の注意だけを彼らに払う。手提げ鞄を持ったサラリーマンは、駅員に向かって何かまくしたてている。その横には、裕福な身なりの若い男が立って腕組みをしている。瞬間、ぼくは何が起きたのか悟った。不敬罪の現行犯逮捕だ。ぼくは耳を塞ぎたくなった。でも、どんなに無視しても、サラリーマンの切実な訴えが耳に入ってくる。自分には臨月の妻がいて、娘はまだ九歳だ、自分は何もやっていない、証拠もないだろう、家族のところへ帰してくれ。そう繰り返すサラリーマンに、若い男が近づいて、居丈高な言葉を浴びせる。私は軍属だ、二流市民の証言など信用できるか、私は被害者なのだよ、私に不敬を働く方が悪いとは思わんのかね、そもそも証拠がないだって、反証もできないくせに。


 ぼくは急いでやってきた電車に乗り込んだ。今見た風景を記憶から消そうと、荒い息をしながら目を瞑ってドアのガラス窓に額をつける。あのサラリーマンは、きっとこのまま連行され、勾留期限まで警察署に置かれ、家族にも会えず、家族も彼の助けを得られずに、最悪彼の懲役刑が確定して…。考えるな、ぼくはそう自分に言い聞かせた。不幸にあふれたこの街が辛かった。いつ自分がやられるかという恐怖と、今までに捕まった人々への同情。それは悪意ある警察、無能な為政者に対するやり場のない怒りになって、ぼくの体を震わせた。軍人や軍属に不敬な言動があれば、現行犯で逮捕できるこの罪名は、刑法にすでに明記されている。なぜ、こんな立法を止められなかったのか。議会はまだあるのに。国民は、何故怒らないのか。声をまだ失っていないのに。


 神保町に着くまで、ぼくの拳は怒りに震えて、止まらなかった。


 ***


 ねぇ、聞いてる?学士会館のカフェで、ひかるがやや不満そうにこっちを見つめている。ごめん、とぼくは謝って、少しためらった後、さっき駅で見た事件の話をした。ひかるはショックを受けたように目を潤ませてぼくの話をじっと聞いていた。ぼくが話終わると、優しい顔立ちに似合わない痛切なため息がその口から漏れた。どうしてそんなことができるのかしら…?証拠もないのに、いいえ、あったところでなんでもないわ。軍属だからって、どうして…?そう呟いて、彼女はテーブルの上でぼくの手を求めた。ぼくたちは手をしっかり繋いで、この不条理に黙って耐えた。彼女の小さな手は、小刻みに震えている。ご家族は、どうなるのかしら?そう訊ねるひかるの目には、涙の粒があった。


 ***


 ぼくたちは御茶ノ水の彼女のアパートにいた。学士会館でのお茶から二日後の夕方のことだった。彼女はいつになく落ち込んで見えた。外は雨であったが、小さなアパートはオレンジ色の照明のおかげでとても暖かい感じがした。食事の後、まだ就寝には早いのに歯を磨いた彼女を見て、ぼくも黙って歯を磨いた。この暗黙の符丁に興奮したぼくがその形のいい顔にそっと手を添えてキスを求めると、彼女は伏し目をつと上げて、ぼくを覗き込んだ。眠れないの。そう呟く彼女の唇を奪い、ベッドに押し倒す。ぼくもだよ。そう言って、彼女の頬を撫でる。長い黒髪が白いシーツの上で妖艶に光っている。その生え際のたっぷりした光沢がオレンジ色の蛍光灯を照り返しているのを見て、ぼくの心は予感に打ち震えた。それは何の予感だったろうか?欲望への渇望。愛欲への愛。あるいは、人生への、システムの全体性への抗議?襟付きシャツとスカートに包まれた華奢な肢体をベッドに委ねて、なすすべもなくぼくを見つめて放心するひかるを愛撫しながら、ぼくは自分に言い聞かせるように言った。人生はきっと、いつか終わりの来ることを知っていても生きて、前を向くしかない場所なんだ。ぼくたちは死ぬだろう。内務警察に逮捕されるだろう…他ならぬ自由が、人間性が、高貴が、不自由に、非人間性に、卑属に、その可能性において侵食されている。そういった可能性があることそのものが、その大きさに関係なく、人生を台無しにしているのだ。そう言いながらぼくは彼女のシャツのボタンに手をかけた。これから何が行われるか知悉している男女の対として、ぼくたちはその拭いがたい背徳感のうちに、死との対比による新しい快感を覚えた。男女の営みは、自分がいつか死ぬこと、死んで一度きりの人生を終え、非存在に帰ることへの抗議である。この自己意識が、この半透明なドームが、この世界全体と対峙し、その重みを支えるアトラスが、水辺の葦のように無残に死んでいくことへの異議申し立てである。それ故にその行為の至高の快感は、死の将来的な存在から引き出される。


 生の若さにあふれたひかるの身体をその薄い下着越しに見つめながら、程遠く思える死を担保に、この女体の美を借り受けること、ぼくは熱した頭でその罪と贖罪を思った。彼女の豊かな胸が苦しそうに上下してぼくを呼ぶ。その熱した目がぼくを見つめて揺れている。きっと仕方ないんだ。思わず声に出たその言葉に彼女は不思議そうな目をした。きっと、侵された現実のまどろみこそが現実で、いつか訪れる不条理な終わりを、別れを、冷厳なのに理性を欠いた裁きに自由を奪われることを、知っていながら今を生きるしかないんだ。あのサラリーマンのように、ぼくらもきっといつかは。そうやって幸せから切り離されるんだね。そんな不吉な言葉の残酷さに身震いして、ぼくは彼女の唇を求めた。溶け合う口を離した時、ひかるが口を開いた。いつか離れ離れになるとしても、将来の別れを気に病んで今の幸せをを無にするのは、きっとよくないわ。そう言って彼女はベッドから身を起こすとぼくの唇を求めた。そうして口づけたまま、彼女はぼくの背中をぎこちなくさすった。長いキスを終え、唇を離して彼女を見つめた時、ぼくは彼女の白い下着の肩紐が外れて、胸の優しい膨らみが覗いているのを見た。その柔らかな曲線を、その白い肌を、煌々とした明かりのもとで目の当たりにした。ぼくはひかるの何か訴えるような目を見た。その目は、このまま続けることを欲する熱に潤んでいる。


 ひかるは事の最中にも明かりを消さない女だ。ぼくは今まで気にもとめなかったその事実が、実は世にも稀な僥倖なのではないかと思った。彼女を横抱きにしながらその震える胸に触れ…ぼくは理性の矩を越えた。


 外では雨がしとしと降っていた。


 ***


 翌朝目が覚めると、ひかるはぼくの傍ですやすやと眠っていた。事が済んだ後の物憂い満足の中で、ぼくの腕に頭を預けて微笑む彼女の髪を撫でながら、ぼくは頭の中でエルガーの交響曲第一番第三楽章がそっと流れるのを感じた。それは誰にも愛でられることがないと知りながらも精一杯に天空を目指す草花の芽吹きのように、ぼくの心を満たしていった。幸せとはこういうものなのだろう。心地よい布団の重み。隣で寝息を立てるひかる。昨日の雨が嘘のように、窓からカーテン越しに満面の笑顔を見せる太陽…


 ぼくが朝食を作っていると、いつのまにかピンクの薄い部屋着に着替えたひかるが寝ぼけ眼のままキッチンへやって来た。あくび混じりの声でおはようと言うのは、彼女なりの照れ隠しだ。そんな彼女が愛おしくて、ぼくはわざと気づかないふりをする。眠そうだね。ぼくはそう言いながらフライパンのベーコンをかき混ぜた。清顕が寝かせてくれないんだもん。そう言って少し口を尖らせる彼女に、五回目は君がねだったんだよ、とリマインドしてあげると、彼女は首筋まで赤くなってぼくの背中をぽかぽか叩いた。いいじゃないか、一晩に五回もできる男なんて、この歳ではそうそういないよ。そう言ってさらに煽ると、彼女はばか、もう知らない、と言って向こうを向いてしまった。ぼくは素知らぬふりをして食事をよそうと、赤い顔をして下を向いているひかるに、早く座らないと全部食べちゃうぞ、声をかけて宥めた。彼女はいつものようにすぐ機嫌を直して、美味しい美味しいと言いながらぼくの作った朝食を食べた。

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