7
バスはサービスエリアを出た後、再び西に向かって走り始めた。
ユリの見る限り、乗客の中に共犯者がいた様子はなかった。天川テルはユリを窓際最前列の席に移動させ、自分はその反対側の席から運転手とユリに交互に睨みを利かせていた。ヤンキースのキャップはもうかぶっていない。あらわになった顔は、彼女がもう魔法を使えない年齢であることをはっきりと示していた。
「まったく、まさか魔法学校の後輩が乗り合わせてるなんて思いもしなかったわ」
「ごめんなさい」
「何で謝るのよ」
「それでも……ずっと憧れでしたから。あの星型のヘアピンを探したりして……」
「ああ、あれね。広報課にやかましく言われてつけたやつ。名前が天川だからってね」
天川はポッキーを一気に二本引き抜きバリバリとかじり始めた。他の乗客を降ろすとき、おばあちゃんから「がんばって」と手渡されたものだが、ユリが一本も口につけないのを見かねた天川に取り上げられてしまった。
「夢を壊してごめんなさいね」
天川が心のこもらない声で言った。この人は一体何を考えているのだろう。自分の憧れの天川テルがどうして「委員会」なんかに手を貸し、バスジャックなんてしているのだろう。
「なんで、こんなことするんですか」
「なんで? なんでと来たか」女は自嘲するように笑った。「ねえ、あんた。魔法使いの扱いってどう思う?」
「それは……まだまだ是正されるべき問題があるとは思いますが」
「教科書どおりの回答ね。まあ、学校を出たばかりならしょうがないか。でも、あんた自身の言葉はないの」
「友達は刑務所を出た後になって冤罪の証拠が見つかったって言われたような気分だって言ってました」
「なるほど。それは言いえて妙かもね」天川は低い声で笑った。
「天川さんはどうだったんですか。その……捜査官を引退してから」ユリは訊いた。それはかねてからの疑問だった。天川が引退したことは知っていたけれど、彼女のその後を追った報道を目にすることはなかった。
「別に。あらゆる魔法使いが通る道よ。まあ、ちょっと長話になるけど聞きなさい」
天川は述べた。
捜査官時代、周りの同僚たちの多くは魔法を失った後のことを考えていた。
魔法捜査官の中でも組織犯罪の摘発に従事するエリートたちはそのまま一般の警官として採用されるか天下り先が用意されるが、自分のような末端の人間は自力で再就職先を探さなければならない。
資格を勉強する奴、大学に通うため勉強する奴、在職中に警察関係者と結婚してそのまま主婦になる奴。いろんな奴がいたけれど、自分は何も考えていなかった。二十代の半ばを迎え、いつ魔法を失ってもおかしくない時期にさしかかっても、目の前のホシを追うことばかり優先してきた。
魔法が使えなくなるのは思ったより早かった。二十七のとき、魔法の力を完全に失った。警察の試験を受けて採用されたが、いざ配属されてみるとノウハウがまるで違った。上司からはお荷物扱いされ、婦警たちともなじめなかった。ついでに言えば婚約者も見つからなかった。退職届を書くまでに時間はかからなかった。
「魔法使いへの処遇に不満があった。だから委員会の一員になったと?」
「まあ、そんなものと思いなさい。あ、パーキングエリアに入ったわね。運転手さん、ご苦労様。もうここで降りていいわよ」
ユリはそこで不意に運転手の存在を思い出した。彼は乗客を降ろすときに彼らと軽い言葉を交わして以来、沈黙を通していた。
運転手はバスを減速させながら言った。「ちょっとかっこつけてもいいかね」
「どうぞ」
「わたしとその子で、人質を交代するわけにはいかないかい?」
「ダメ」天川はノータイムで返した。
「正直言って、その子よりあんたの役に立てると思うんだけどねえ。なんと言ったってバスを動かせる」
「いまさら逃げようって気もないの。どうせ、そろそろ警察が動いてる頃でしょ。包囲されるのも時間の問題だわ。だったら逃げ隠れせずここでがっしり構えて迎えてやろうじゃない。運転手さんは見栄なんて張らず、さっさとご降車なさい。それであなたを咎める人はいないわ」
「そうは言ってもね。こんな若い子が体を張って女の子を助けたって言うのに、大人が何もしないわけにもいかないだろう」
「それはまご立派な考えですこと。テロリストとしちゃあ耳が痛いわ」
「本当に降ろすつもりかい? わたしゃ、あんたの考えてることが分からんよ」
「分からなくていいの。これは魔法使いの問題だから」
「魔法使い、魔法使いねえ。でも、あんたたちだってただの人間じゃないか」
運転手はそうつぶやくように言い残すと、何度も車内を伺いながらこわごわとドアの外に足を踏み出していった。
ドアが閉まると、天川はユリに命じて、窓ガラスにカーテンを引かせ、ドアのすぐ手前に車内に残された荷物で軽いバリケードを築かせた。
まだ日が高い。動き回ると背筋に汗が伝うのが分かった。一方の天川はどこかぼーっとした表情で座席に座っている。相変わらずポッキーを口に運んでいるが、その動作もどこか機械的だった。まるで退勤後、電車の座席でぐったりしているOLのようだ。運転手を降ろした時点で彼女の中ですべてが終わってしまったようだった。
「これからどうするんですか」
ユリは訊いた。自分の身よりも、天川の身の振り方が気になった。
「これから? これからって?」
気の抜けた答え。ユリは思わず面食らってしまう。
「ですから……委員会としては何かしら計画があるんですよね? 国への要求とか社会へのアピールとか……だったらいろいろやることがあるんじゃないですか? たとえば、マスコミとか仲間に電話したりとか……」
「ああ、それか。あんなの方便よ。方便。委員会の名前を出した方がみんな素直に従ってくれるかなって思っただけ」
あんまりあっけらかんと言うものだから、すぐには飲み込めなかった。
「え、委員会の一員っていうのは嘘だったんですか……? じゃあ共犯者もなし? 最初に男の人を倒したのは?」
「あんなのスタンガンに決まってるでしょ。あたしはねえ、別に社会を変えたいとかそういうご立派な目的を持ってこんなことをしてるんじゃないの」
「じゃあ、なんで……」
「そうね、人に理解してもらえるような理由なんて何もないのかもしれない。ストッキングが伝線した。ファミレスの接客が悪かった。たまたま鞄に拳銃が入ってて、だから何かに使いたかった。むしゃくしゃしながら駅前を歩いてたら、このバスが目に留まった」
「それだけですか」
「ええ、それだけ」
なるほど。理由なき犯行というわけだ。ユリも、テレビ越しにその手の動機を聞けば納得したかもしれない。けれど、いまはそうじゃない。犯人が目の前にいて、しかも相手は自分が長年憧れた魔法使いだ。理由なき犯行? 冗談じゃない。天川テルがそんな短絡的な理由で犯罪に走るわけがない。
「どうしてたまたま鞄に拳銃が入ってるんです」
「だって、いつバスを乗っ取りたくなるか分からないでしょ。ほら、備えあれば憂いなしってやつよ」
「嘘はやめてください」ユリは言った。「わたしが知ってる天川テルはそんなことしません」
「あなたがあたしの何を知ってるわけ?」
「それは……」
「あなたが知ってる天川テルはね、作られたものなの。この世のどこにも存在しない虚像。偶像。あたしの実像は警察の広報活動につき合わされただけのしがない魔法使いにすぎないわ」
「嘘だ。嘘……」
ユリはつぶやくように言った。天川テルは確かにどこか危うげな印象を漂わせる魔法使いではあった。メディアであまり取り上げられなかったのもおそらくそのせいだろう。
ユリだって警察の広報課が望む魔法使いのイメージくらい知っている。強く、勇敢で、清廉潔白。天川テルはそういう虚像を演じるのに向いていなかった。
けれど、ユリにはそれだけ嘘がないように思えた。自分の弱さと戦える強い人なのだと思った。だからこそ、自分もそうなりたいと願ったのだ。けれど、それさえも嘘だったのだろうか。だとしたら、自分は一体何に憧れ続けてきたのだろう。
ユリは何も言えない。ただうつむくだけ。うつむいて、散り散りになった心を必死でかき集めようとしていた。そんなユリの努力を邪魔するようにして甲高いサイレンの音が聞こえてきた。
うるさい、サイレンなんて消えちゃえ。
ユリは思った。
待って、サイレン?
「どうやら来たようね」
パトカーだ。
それも複数。
パトカーはパーキングエリアに入ってくると、バスの周囲に展開しあっという間に包囲網を完成させてしまった。ドアが開き、そこから飛び出してくる無数の足音が聞こえる。
「あーあ、とうとう袋のねずみか」天川はフロントガラスから外をうかがいながら言った。「けっきょくのところ死に場所を探してたのかもね」それから低い声でくくと笑い、「ねえ、あんた。あたしと心中しない」
「どうして……」
「別に。若い後輩を道連れに逝くのも悪くないかなってだけ」
そうかもしれないとユリは思った。田舎に帰ったところで将来はない。いつか縄に首を通す日が来ないとどうして言える? そして、遠のく意識の中でこの誘いを断ったことを後悔するのだ。こんな寂しい死に方をするくらいなら、憧れの魔法使いと心中した方がどれだけよかっただろう、と。
「そうですね……魅力的なシチュエーションだと思います」
ユリにはこの出会いがほとんど運命のように思えてくる。夢破れて故郷に帰る自分。やけっぱちになった元魔法使い。引き合わせてくれた神様に感謝したくなる。ああ、確かに最高だと思う。尤も、あの小うるさいもう一人の自分が邪魔しなければの話だけれど。
ねえ、ユリ。もう一人のユリが囁く。それで本当に後悔しないの。もう一度訊くけど、あなたは何のために東京に出てきたの? 憧れの天川テルと心中するため?
いいじゃない、とユリはつぶやく。あの女の子は助けたでしょ。それで満足じゃないの?
一人を助けたらもう一人は見捨てていいの?
もう一人のユリが意地悪な問いかけをする。
いいえ、あなたも含めて二人か。それじゃあやっぱり採算が合わないんじゃない? ねえ、ユリ。あなたの夢はなんだった? あなたの憧れた天川テルはどんな魔法使いだった? 覚えてないなら思い出させてあげる。崖から落っこちようとしている人の手をしっかり握って、こちら側に引き戻す魔法使い。それがあなたの憧れであり夢だった。なのに、いまあなたがしようとしていることは何? 死人に足を引っ張られて地獄に落っこちようとしているようにしか見えないけど。
みっともないことは自分でも分かってる。でも、どうしろっていうの。
憧れの人が目の前で谷底に落っこちかけてるのよ? やることなんて決まってるじゃない。足を踏ん張って、しっかり手を握ってやるの。それがあなたが憧れた魔法使いのあるべき姿ってやつでしょ。夢をかなえなさい、ユリ。
「その顔だと」黙っているユリを見て、天川が笑った。「死にたいっていう風じゃないわね」
ユリは顔を上げながら思った。自分はそんなに分かりやすい顔をしているだろうか。
「ごめんなさい。せっかくのお誘いですけど、わたしは自分にこんな死に方を許したくはありません」
「そう、だったら孤独に死ぬしかないか。寂しい、なんて言ったらわがままよね、きっと」
バスの外から、メガホンで増幅された女の声が聞こえてきた。いますぐ抵抗はやめて人質を解放しなさいとかなんとかそんなことを言っている。おそらく魔法捜査官だろう。「木星委員会」というブラフに釣られて来た訳だ。ブラフを張った張本人はそれに応答せず、自分のこめかみに拳銃を押し付けた。
「考え直しませんか」ユリは言った。「拳銃自殺が必ずしも成功するわけじゃないことは知ってるでしょう。意識が目覚めないままベッドの上で何十年と生き続けるなんてちょっとぞっとしませんよ」
「死ねるかどうかなんてやってみないと分からないわ」
「そういう言葉をどうしてもっと前向きな意味で使えないんです」
「しょうがないでしょ。あたしはもう後ろ向きに走り出しちゃったの。いまさら前を向いたってパトカーが待ち構えてるだけじゃない」
「でも……」
「もう説得しないで。せっかく、ここまでお膳立てを整えたのよ。こんなチャンスは二度とないの」女は遮るように言った。そして不意に泣き笑いのような顔になって、「あたし、やっぱりファンだって言われてちょっと嬉しかった。こんなかたちで夢を壊してごめんなさい」
「じゃあ、生きてください。こんな形でファンを悲しませないでください!」
ユリは叫んだ。こんなとき魔法が使えたら――そんな仮定が頭をよぎる。拳銃を跳ね飛ばすことも、火薬をしけらせることも可能だっただろう。でも、自分にはただ願うことしかできない。その無力さが呪わしくてならない。
天川はじっとユリを見ていた。銃はこめかみに当てられたまま。
ダメか――そう思ったとき、バスの周囲がざわめき始めた。
逃げろ!
そんな声が聞こえた気がする。
ユリは、あわただしく散っていく足音に紛れてヒュルヒュルという音が聞こえることに気づいた。
「何?」
天川はユリから目線を外してフロントガラスの外をうかがった。次いで天井を。 音は上空から近づいてくるようだった。
その音はどんどんどんどん大きくなっていった。
何かが落ちてくる?
なんだろう。
やがて、何か重い物体がバスの屋根を貫いて落下した。
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