第27話 Boy's Side(13)

 ぼくら3人は放課後に集まって勉強をしていた。試験が迫ってきて、全ての部活動は中止されていた。

「こんなところ、よく知っていたな」

 ナゴに感心されたけど、今ぼくらがいるのは、この前サラと来たファミレスだ。この時期になると、駅前の店はみんなうちの学校の生徒に占領されてしまうから、少し外れたところに行ったほうが都合がよかった。

「ああっ。わけわかんねえ。頭がおかしくなる」

 トシもいつになく熱心に勉強していた。騒ぎを起こして、そのうえ赤点でも取ろうものならどうなるかわかってるだろうな、と父親から相当脅されたらしい。

「でもよ、俺、馬鹿だからさ。いくら頑張ったって無駄だと思うんだけどな」

「おまえは馬鹿じゃないよ、トシ」

 ノートにペンを走らせながらナゴがそう言ったので、ぼくもトシも驚いてナゴの顔を見てしまう。まさか、ナゴがトシを褒めるなんて。ナゴもそれに気づいたのかあわてて付け足した。

「俺が言ってるのは学力の話だ。もちろん、人間としては馬鹿に決まってる。馬鹿じゃなくて大馬鹿だな」

「なんだよ、“人間としては馬鹿”って。最悪じゃねえか」

「だって、おまえは一応うちの学校に入ってるだろ? 結構な難関に受かってる時点で、学力だけは問題ないって、証明されてるんだよ」

 そう言われてみれば確かにその通りだった。ぼくも中学受験にあたっては、かなり頑張らなければならなかった。トシは決して馬鹿ではないのだ。

「俺が言いたいのは、文句を言う前にできる限りの努力をしろ、ってことだよ。トシ、おまえはまだ全然頑張ってないぞ。それでぶつくさ言うのは、かなりださくないか?」

 トシは変な顔をしてナゴの方をちらちら見ていたけど、「おう」と小さく呟いて、また教科書に目を落とした。ぼくも頑張らなきゃな。ナゴに負けるのはしょうがないけど、トシに負けるのは嫌だった。

「ただなあ。俺、一人になると勉強できねえんだわ。気が散っちまって。家でもちっともはかどらなくてよ」

「休みに集まればいいじゃないか。あと、試験期間中も3人でやればいい」

「いいのか? それだったらすげえ助かる」

「オトも別に構わないだろ?」

 もちろん、と頷こうとして、

「あ、ごめん。今度の日曜はダメだ」

「なんだ? 先約があるのか?」

 ナゴに意外そうな目で見られる。

「ああ、うん。ちょっと出かけることになってる」

「んだよ。試験前にずいぶんと余裕じゃねえか」

「そうじゃなくて、出かけた先で一緒に勉強することになってるんだ」

 トシが恨めしそうな目をしていたので、つい弁解してしまう。

「じゃあ、うちの学校のやつと出るのか?」

「うん。まあね」

「そうか。まあ、おまえも俺ら以外のやつとたまには付き合ったほうがいいしな。いいぞ、行ってこいよ」

 ナゴは完全に保護者目線で話をしていた。何様だよ。

「あ、でも、他の日は大丈夫だから」

「それはいいけどよ。っつーか、オトがいねえんだったら、日曜はこいつと2人で勉強しなきゃいけねえのかよ。マジできついわ」

「俺の方がずっときついけどな」

 そこで無駄話は終わって、3人ともまた勉強に集中し出した。ただ、集中してはいながらも、ナゴに訊かれたときに多少ごまかしてしまったのが、心のどこかに引っかかっていた。嘘をついたわけではない。ぼくが日曜にうちの学校の生徒と出かけるというのは本当だった。ただ、その生徒というのは、サラだった。女子部の子と一緒に出かける、というのが、ナゴのキャパシティをオーバーしないかどうかは、きわめて怪しいところだった。


「渋谷? ずいぶん遠くまで行くんだな」

 父さんが肉にごまだれをつけながらぼくを見た。今日の晩ごはんは豚しゃぶだった。

「ぼくもそう思ったけど、電車で乗り換えしないで行けるから、行き帰りはそれほど大変じゃないよ」

「まあ、そう言えばそうだ。しかし、渋谷にそんな勉強できるような場所があるとは知らなかったな。ちょっとした貸し会議室みたいなやつなのかね」

「あなた、渋谷なんてここ何年か行ってないでしょ?」

 母さんが鍋に野菜を入れながら笑う。

「若者の街だからな。おじさんには用のない場所さ。でも、友達と勉強するのはいいことだ。頑張ってきなさい」

「うん」

 ポン酢をつけた肉を頬張っているので、うまく返事ができない。

「明日は名越くんと西村くんと一緒なの?」

 母さんに見られて少し焦ってしまう。

「う、いや、別のクラスのやつと一緒。そいつに渋谷にいい場所があるって教えてもらったんだ」

「へえ。そうなの」

 まさかサラと一緒に行く、とも言えずに嘘をついてしまった。あの夜、サラに「次の日曜に渋谷で一緒に試験勉強をしよう」と言われて、特に断る理由もなかったので約束してしまったけど、父さんも言っていたように、どうしてわざわざ渋谷なんだろう、という疑問は消えなかった。県境を越えてまで出かける意味があるのだろうか。とはいえ、サラはぼくよりも成績がいいから、一緒に勉強するのは楽しみだった。それにナゴとトシと一緒にするよりは、女の子と一緒のほうが精神的にはずっといい。

「そういえば、渋谷といえば、ヒカルちゃんの学校もそこにあるよな」

 母さんの持っていた小さなおたまが鍋に当たって、かん、と音が鳴った。任せきりにしないで、ぼくも灰汁あくを取った方がよさそうだ。

「うん。でも、明日は休みだから学校には来ないだろうけどね」

 サラと一緒にいるところをヒカルちゃんに見られたらどうなるのだろう、とふと思った。

「間宮に聞いたんだけどな、あの子に家庭教師をつけるつもりなんだそうだ。あれだけかわいければ、勉強できなくてもいいと思うんだがなあ」

「いいんじゃないの? 頭がからっぽなお人形さんになるよりはずっとマシでしょ」

 投げやりに答えてから、母さんがぼくの方を見る。

「リョウマ、あなたはあの子とは違うのよ。あなたはうんと頑張らなければだめよ。今度のテストもいい点を取ってね」

 黙って頷いたものの、母さんが一番言いたかったのは「テストでいい点」よりは「あの子とは違う」のような気がした。なぜそう感じたかはわからなかった。


 日曜の朝、駅の前で待ち合わせしていると、サラがバスから降りて、こっちに向かってきた。

「ごめん、待った?」

 15分前に先に着いていた。女の子を待たせてはいけない気がしたのだ。

「じゃあ、行こうか」

 改札を通って、エスカレーターでホームへと上がる。ぼくの下の段に立っているサラを見て、あれ? と思った。黒いベレー帽に気を取られていたけど、今日の彼女の服装は、薄いピンクのジャケット、白黒ボーダーのシャツ、そして黒のミニスカート。つまり、この前家に来たときと同じだった。まさかそれ以外に服を持っていないはずもないから、何か意味があるのか、と思ったけど、たぶんお気に入りの服なのだろう。あまり深く考えたくなかった。

「2人で出かけるなんて初めてだね」

「そうかな?」

 小学生の頃に出かけたことがあったような気もする。でも、それは出かけたうちに入らないのかもしれない。あの頃とはぼくもサラも違う人間になってしまったような気がしていた。

 3分ほどで電車が着いた。休日の午前中ということもあってか、中は空いていた。2人並んで座る。特に話すこともなかったけど、別に気まずくはならなかった。どうせ後でたくさん話すのだ。急ぐ必要はなかった。車窓から見える街並みに目をやっていると、急に左肩が重くなった。見ると、サラが頭を乗せていた。目を閉じてはいるけど、口は笑みを浮かべていて、眠ってはいないとわかる。あの夜のヒカルちゃんもそうだったけど、ぼくの左肩はよほど頭を乗せやすいらしい。人目が気になったし、前にも嗅いだ甘い香りが漂ってきて気が気じゃなかったけど、振り払うのもかわいそうなので、こらえることにした。それにぼくも別に悪い気はしなかった。そのうちにサラは本当に眠ってしまったようで、すー、すー、と寝息が小さく聞こえてきた。ああ、こういうのってなんだかいいな。そのとき、ぼくは確かに幸せを感じていた。


「こっちだよ」

 電車の中で眠っていたおかげなのか、サラは元気そのもので、亡くなった主人を待ち続けたかわいそうな犬の像を横に見ながら、坂の上へとぼくを連れて行こうとする。ヒカルちゃんの学校とは逆の方向だ。スクランブル交差点を渡る。街を行く人が皆とても大人に見えて、自分がとても場違いな存在に思えた。この街はぼくにはまだ早いような気がして、やっぱり来ない方がよかった、と後悔の気持ちが芽生えた。坂を上がっていくと、だんだんと怖い雰囲気になってきた。ふだん、家と学校との間を往復している限り、絶対に味わうことのない空気だ。狭い路地。外国料理の店。水ではない何かで濡れたアスファルト。だぼだぼの服を着た身体の大きな人たち。ここで何か問題が起きたとしても、ぼくにはとても対応できる気がしなかった。逃げられる気もしない。でも、ぼくはともかくサラだけは守らなければいけない。そう思い詰めていたのに、サラは楽しげな顔で軽やかに渋谷の街を歩いている。どこへ行くつもりなのか、とついに我慢できなくなって訊こうとしたまさにそのとき、

「ここだよ」

 サラは立ち止まって、ぼくを見てにっこり笑った。そこは7階建てのビルで、比較的新しいもののように見えた。見たところどこにでもあるオフィスビルだ。中に入るとロビーがあって、小さな明かりがついているだけで、誰もいなかった。

「これで部屋を選ぶんだって」

 サラの指さした先の壁にパネルが掛けられていた。そこには部屋の写真が何枚も貼られていて、明るいランプがつけられた部屋と消えている部屋があった。使用中の部屋はランプが消えるらしい。

「どれにする?」

 サラに聞かれたけど、どれも同じもののようにしかぼくには見えないので、まかせることにした。

「じゃあこれ」

 サラが403号室の写真を押すと、ごとっ、と音が鳴って、パネルの下の方にある取り出し口から鍵が出てきた。不思議な感じもするけど、都内だとこんな風にセルフサービスが行き届いたビルもあるのかもしれない。うちの近所のスーパーにも無人レジが最近できていた。

 エレベーターで4階まで行って、狭い廊下を歩いて3つ目の部屋に入る。知らない街を歩いた緊張で、この時点でぼくはエネルギーを完全に使い切ってしまっていた。とりあえず一休みしないと勉強に取り掛かれそうもない。ちょっと休もう、とサラに断ろうとしたそのとき、

「やっと2人きりになれたね」

 そう言ってサラがぼくの背中に抱きついてきた。あわてて身体を離して、少し距離を取る。

「サラ、今日は勉強するために来たんだから」

 そう言いながら部屋の中を見渡して妙なことに気づいた。窓がない。いや、それよりも、部屋の真ん中をベッドが占領しているのが何よりも妙だった。机もなかった。これではどこで勉強すればいいのか。

「こんなところで勉強する人なんていないよ」

 サラがおかしそうに笑う。それで、ぼくとサラの目的が違っていたことに気づいた。少なくとも、ぼくのように勉強する気はなかったのだ。そして、サラが何を考えてここまで来たのかも、なんとなくわかりはじめていた。

「こんなところ、って?」

「リョウマくんも、もうわかってるんじゃないの? ここはラブホテルだよ」

「ら?」

 ここが? こんなところが?

「学校の友達に教えてもらったんだけどね。わたしも来るのは初めて」

 うちの女子部すごいな。トシが知ったら気絶しそうだ。

「なに? 本気でわからなかったの? それはちょっと、どうかと思うよ。男の子ってこういう知識はもっとあるものだって思ってたけど」

 恥ずかしくて死にそうになる。ヒカルちゃんに突き落とされてからそれなりに勉強したつもりでいたけど、いくら頑張ってものままらしい。

「でも、そこがリョウマくんのいいところなのかな。本当にかわいいよね、リョウマくん」

「あのさ、サラ。ぼくは今日勉強するつもりで来たんだ。冗談はやめてほしい」

「わたしは本気だよ。冗談なんかじゃない」

 サラが叫んでいた。彼女が本気なのはぼくも本当はわかっていた。悪ふざけをするような子じゃない。でも、それを受け止める気持ちになれないでいた。

「今日、リョウマくんとあのときの続きをするつもりで来たんだよ。ここでなら誰にも邪魔されない」

「どうして。どうしてだよ。どうしてそんなに焦るんだよ」

 彼女がゆっくりとぼくを見る。

「こないだ、わかったんだよ。リョウマくんがヒカルちゃんを本当に好きなこと。そして、ヒカルちゃんもリョウマくんを好きなこと」

「え?」

 ぼくが撮った動画を見てサラがショックを受けたのは知っている。でも、ヒカルちゃんがぼくを好き、ってどういうことなんだ。

「え? どうしてそう思ったんだ? ぼくにはさっぱりわからないよ」

 サラが溜息をついた。ぼくとは違う意味で疲れているように見えた。

「そうだね。リョウマくんにはわからないよね。それに、ヒカルちゃんもたぶんわかってない。わたしだけが気づいたのかもね。そんなこと、別に知りたくもなかったのに」 

 ヒカルちゃんに「あなたたちの関係にわたしを巻き込まないで」とあのテニスクラブで言われていた。でも、本当はサラがぼくとヒカルちゃんの関係に巻き込まれてしまったのではないか、そんな気がしていた。そして、巻き込んでしまったのは、間違いなくぼくのせいだった。

「でも、それならそれでいいんだよ」

 サラが帽子をベッドの上に投げた。そして、ジャケットを脱ぐ。

「ちょっと。サラ、ちょっと」

「それなら、わたしにもまだチャンスはあると思うんだ。二人が本当の気持ちに気づく前なら。わたしだけが知っている今なら。わたしには今しかないの」

 スカートが床に落ちる。まずい。このままだと。

「ストップ。ダメだって、サラ」

 止めようとして、目の前の細い肩に手を置いたのと同時に、サラは身をひるがえしてぼくに抱きついてきた。

「う。あ」

 突然熱い身体を押し付けられて言葉が出ない。しかも、ぼくのあばらの上で彼女の柔らかな胸が押しつぶされていて、頭が真っ白になる。こいつ、自分の武器を最大限に利用してやがる。それでもなんとか離れようとしたそのとき、首を抱えられたまま下へと引かれて、唇を奪われた。その瞬間に、サラを止めなければいけない、という気持ちは完全に消えてしまっていた。肉体に意思がいかに簡単に屈するか、まさに身をもって教えられていた。舌が入りこんできても逆らえなかった。逆らわなかった。長い時間が経ち、ようやくキスが終わった。2つの唇の間に銀色の糸が張られ、一瞬だけ光ってすぐに消えた。

「こうするしかなかった」

 サラの顔が興奮と恥ずかしさで赤くなっていた。

「わたしが勝てるとしたら、これしかなかったから。こうすればうまくいくって、なんとなくわかってたから、もう一度できれば、必ずわたしのものにできるって、そう信じてた」

 そしてそれは当たっていたようだ。ぼくの気持ちはもう決まっていた。

「わかった」

 一度言葉を切ってから、

「続きをしよう。ぼくの裸も見たいんだよね?」

 ジョーク混じりに頷いてみせても、サラは嬉しそうな顔をしなかった。願いがかなったはずなのに、あてが外れたような表情をしていた。

「ずるいよね、わたし」

「サラ?」

「ずるいのは自分でもわかってるよ。リョウマくんの気持ちはわかってるのに、こんなやりかたしかできないのは、卑怯だと思う。でも、リョウマくんがヒカルちゃんのことが好きだとしても、わたしは」

「そうじゃないよ」

 サラが目を丸くしてぼくを見る。

「そうじゃないんだ。今ので、よくわかったんだよ。サラがぼくを好きだって。その気持ちがとても嬉しかったんだ」

 決して欲望に負けたわけではない、と言い訳したい気持ちがあったのは確かだった。だけど、今言った言葉に嘘がないのも確かだった。1回のキスには100回の言葉よりはるかに説得力があるのかもしれなかった。サラがぼくを好きでいてくれる、その気持ちがぼくの無防備な心を激しく打ってきて、もう我慢することはできなかった。これまでどうやって生きてきたのか、これからどうしていくのか。そんなことは関係なく、今はただその気持ちに応えたかった。

「ありがとう。嬉しい」

 サラの目に涙が浮かぶ。それを見て、そうか、と心の中に閃くものがあった。いつか、サラが「全然負ける気がしない」と言ったのは、あれはもう一人の女の子と勝負しているわけではなくて、ぼくと勝負しているつもりだったのだ。なるほど。ぼくみたいな弱い心の持ち主が相手なら、やる前から勝ちを確信してもまったく不思議ではない。現に彼女はこうして勝利をおさめている。サラがぼくの胸の中に飛び込んできた。

「ごめんね。ごめんね」

 彼女が何を謝っているのかはなんとなくわかっていた。ただ、謝らなければならないのはぼくの方で、これから起こることについてもぼくは全てを背負って行こうと思っていた。でも、今はそれよりも、ただサラと愛し合いたい。それだけを考えながら、今度はぼくからキスをした。


 ぼくの下にサラがいる。ぼくらはともにベッドの上にいる。2人とも服を着てはいない。

 お互いの身体がこすれあうたびに脳がしびれるような感じがする。ぼくらがこうして過ごした時間はごくわずかなのに、2人の身体がすっかりなじんでいるのがとても不思議だった。サラの身体のどこもかしこも自分のものにしたかった。あの夏の夜と同じように、と一瞬思ったものの、そのときのこともそう思った彼女のことも今は考えたくはなかった。罪の意識にまみれるのは今夜からでも遅くはない。こういうときの身体の使い方を少しずつ学んでいくうちに、準備ができたような気がした。いったんサラから身を離して脱ぎっぱなしのジーンズのポケットから財布を取り出すと、ナゴから貰った銀色の小さな包みを取り出した。

「用意してたんだ」

 サラが寝たままでからかうように言った。友達の好意が当たったわけだけど、素直には喜べない。ともあれ、馬鹿げた行為のために馬鹿げた道具を馬鹿げたものにつけてから、またベッドへと戻り、白い身体に覆いかぶさる。

「いくよ」

 そう言うと、明るい瞳が緊張で揺れるのが見えた。優しくしてあげなきゃな、と思いながら2つの膝に手をかけたそのとき、じりりりりりり、とベルが鳴り響いた。え、と顔を上げても、部屋の中に変わった様子はない。火事なのか?

「大丈夫だよ。平気だよ」

 動揺するぼくを見上げたサラが怒ったように呟く。

「でも」

「誰かがいたずらして非常ベルを鳴らすの、うちのマンションでもよくあるよ。なんでもないから。大丈夫だから」

 ぼくはマンションに住んだことがないのだけど、そういうものなのだろうか。

「さあ、早く」

「うん」

 もちろんぼくも続きをしたかった。なんとか気を取り直してまた膝に手をかけるのと同時に、大音量でアナウンスが流れ出した。

「ただいま館内で火災が発生しました。館内にいらっしゃるみなさんはすみやかに避難をお願いします」

 廊下をどたどた走る音も聞こえてきた。本当だ。本当に火事なんだ。

「サラ、ぼくらも逃げなきゃ」

「でも、ここまで来てそんな」

 寝たままのサラの手を引いて起き上がらせる。

「今はそんなことを言ってる場合じゃないよ。この続きはいつでもできるから」

 本当にそうだろうか。自分の言葉なのにまるで信用できない。それでも今は逃げなければならなかった。

 急いで服を身につけてから、サラと手をつないで部屋を出る。廊下の奥から何人か走ってきて、僕らの前を通り過ぎていく。くたびれたサラリーマン、ホスト風の若い男、金髪の太った女の人。たぶん、今ここにいる人間で一番若いのはぼくとサラのはずだったけど、誰もぼくらに気を止める様子はない。

「ええっ。どうしよう」

 サラもやっと事態を飲みこめたようで言葉を失っている。ぼくはどうなってもいいから、この子だけは守らないと。エレベーターは使えないから、非常階段で行くしかない。エレベーターの横にある重い扉を開けると目の前が白くかすんだ。上から下へと煙が流れてきていて、一瞬パニックになりかけて、火元が上の階ならまだなんとかなるかもしれない、とすぐに気づいた。サラと一緒にいなければぼくも泣いていたかもしれない。階段は逃げまどう人であふれかえり、とても入れそうになかったけど、遠慮している場合ではない。サラの肩を強く抱いてから人の波に飛びこんだ。前から後ろから左右から押されて息苦しくて、しかも階段から足を踏み外さないように気をつけなければならなかった。上にいる誰かが転べば、逃げ場のないぼくらも一緒に倒れてしまうだろう。そう思いながらようやく3階まで下りた。

「こわい。こわい」

 サラが泣いている。でも、ぼくも別の意味で泣きたかった。またかよ。またなのかよ。女の子と寸前まで行って、結局最後までできなかったのはこれで3度目だ。3度目でもまだ自分に正直になれていない。こんな命に係わる状況なのに、ぼくの頭はそのことでいっぱいだった。この状況でも邪魔が入るって、そんなことが有り得るだろうか。あるいはヒカルちゃんを裏切った、自分の心を裏切った罰なのだろうか。頭の中で彼女のあっかんべーが再生される。理由はどうあれ、たとえ、ここから無事に帰れたとしても、ぼくは一生女の子とセックスできないのかもしれない。そう思うと誰かに文句を言いたくて仕方がなかった。もしも神様というものがどこかにいるとするのなら、その人に文句を言いたくて仕方がなかった。


(Boy's Side 終)

(小さなおとなたち 終)

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小さなおとなたち ケンジ @kenjicm

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