第18話 Boy's Side(4)

 ナゴに丸めた網を渡された。いつものように太い黒縁の眼鏡の奥で2つの目が冷たく光っている。

「おまえはこれを持てよ。俺はポストを持つから」

 うん、と頷くと、ナゴは地面に置いてあったポストを両手に1本ずつ持った。網はかさばって両手で抱えなくてはならなかったけど、ポストは重くてぼくには1本持つのがやっとだったので、ナゴに任せるのは妥当だった。そして、2人並んで歩き出す。

 軟式テニス部には専用のコートがないので、練習のたびにグラウンドの一角にネットを張らなくてはならなかった。そして、ネットを作るのは持ち回りになっていて、下級生だけにやらせるということはなかった。むしろ、上級生が率先して準備や後片付けをすべきだ、というのがうちの部の伝統らしかった。いいことだと思う。

「オト。練習のときからちゃんと頭を使わないと、いつまで経っても上手くならないぞ」

 ナゴが何故かぼくの心配をしている。別に頼んだわけでもないので、あまり真剣には聞いていない。この学校でぼくを名前で呼ぶ人は誰もいなかった。入学したての頃に、「おまえ、全然リョウマって感じしないな」と部活の先輩たちにからかわれて、「自分でもそう思います」と答えたら、「マジレスすんじゃねえよ」とか「もっと自分に誇りを持てよ」とか怒られたことがあって、なんだか理不尽な気がしたのを覚えている。ただ、自分でも似合わない名前だというのは常々感じている。せっかく父さんがスケールの大きな人間になってほしいと願いを込めて「竜馬」という名前をつけてくれたのに、今のぼくは見事なまでにスケールの小さな人間になりつつあった。はっきり言って名前負けしている。坂本さんにも謝りたい。だから、学校で先生やそれほど親しくない同級生から「乙訓おとくに」と苗字で呼ばれるのも、友達や部活の先輩から「オト」と呼ばれるのも、ぼくには気楽に感じられて悪い気はしなかった。

「ちゃんと考えてやっているつもりなんだけどな」

 ぼくの弁解もナゴには通用しなかった。

「考えているのは自分のことだけなんだよ、おまえの場合」

「でも、自分のことを考えた方が、いいサーブやショットが打てる気がするんだ」

「だからそれは程度の問題なんだって。おまえは自分に全振りしているから、まわりが見えてないんだ」

 その言葉は効いた。ただ、ナゴには悪いと思ったけど、テニスのことでなく、女の子のことで効いた。そうなのだ、ぼくは自分のことばかり考えていたのだ。昨日のサラのときもそうだし、夏休みのヒカルちゃんのときはそれ以上に自分しか頭になかった。

 今考えても、彼女とああなったことが信じられなかった。怖いのを我慢して外の壁からなんとか入り込んだ真っ暗な彼女の部屋で、そっと手を握ったのは涙に濡れたあの子の顔を見ているうちに、慰めてあげたい、と思ったからだった。やましい気持ちがあったのは否定しないけど、どうせすぐに振り払われるだろうと思っていたし、そうなったらそうなったで別に構わなかった。彼女が元気になってくれればそれでよかったのだ。でも、彼女の行動はぼくの想像を超えていた。手を振り払うどころか、何故かぼくの肩に頭を乗せてきたのだ。それで完全に頭に血が上ってしまい、抱きしめてから何度もキスをしてしまった。それでも彼女は何も抵抗しなかった。それは夢のようなひとときで、今でも思い返すと、あのとき味わった感覚が蘇ってきて、とてもじっとしてはいられなくなる。

 そして、服を脱いでベッドに横たわった彼女の上に乗って、闇の中でもかすかに白く光る身体を眺めて触って舐めた。鼻血を噴かないのが不思議なくらいのぼせあがっていた。そこまではよかった。だけど、彼女の膝に手を掛けたときに、突然そこからどうしていいのかわからなくなってしまったのだ。ぼくは彼女とそうなりたかったけど、それはもっとずっと先のことだとばかり思っていて、準備はまるでしていなかったし、知識もあまりなかった。どうしたらいいのか。そのときのぼくの中では、選択肢はふたつあった。ひとつは、わからないなりになんとなく続けて、そのうち正しい方法にたどりつくやりかた。もうひとつは、いったんストップして部屋に戻ってからスマホで調べてから、再度チャレンジするやりかた。少し迷ってから、ぼくは後の方のやりかたを取ることにした。その方が何より確実に思えたし、わからないままやろうとするととんでもない失敗をしてしまいそうで、それも怖かったのだ。

 彼女を説得してから、来たときと同じように外壁をつたっていったん自分の部屋へと戻った。スマホはそこに置きっぱなしだった。壁から行くために少しでも身軽になりたかったこともあるし、もしも持って行っていたとしても、あの場で調べることはできなかっただろう。急いで検索して、頭の中でざっとシミュレーションをしてから、もう一度彼女の部屋へと外から戻った。これで大丈夫。そう思って、部屋の窓を開けるなり、「ちゃんと調べたから安心して」とスマホを見せるやいなや、彼女の細い腕に突き飛ばされて、真っ逆様に落ちてしまった。背中を強く打ってしばらく息ができなかったけど、それ以上にわけがわからなかった。どうして彼女が怒ったのか、その理由がさっぱりわからない。ぼくは何かミスをしてしまったのだろうか。それはいまだにわからないままだ。ただ、彼女がすごく怒っているのだけはよくわかっていて、あれから2か月が過ぎても、ぼくはちゃんと謝れないままでいる。

 ナゴの言葉にはっとさせられたのは、あのとき、ヒカルちゃんを怒らせたのも、たぶんぼくが自分のことばかり考えていたせいで、まわりのことを考えていなかったせいだ、と思い当たったからだ。まわり、というか、彼女のことを第一に考えてあげなければいけなかったのに、ぼくは全然それができていなかった。怒らせて当たり前だ。好きな女の子にそんなことをしてはいけなかったのに。ぼくが馬鹿だった。

「うん。ぼくが馬鹿だったんだよ」

 思わず口に出してしまって、それを聞いたナゴがあわてた。

「おい。あんまりマジに取るなよ。別に説教しているんじゃないんだからさ」

「ああ、いや」

 そうじゃなくて別のことを考えていたんだ、と正直に言ってもナゴが気を悪くするだけなので黙っていた。用具室に網を置いてから出てくると、太い声がぼくらを呼んでいた。

「おーい。おせーよ、おまえら。さっさと帰ろうぜ」

 トシがグラウンドから校舎へと向かう階段の上でこっちに向かって手を振っていた。バレー部は早めに終わったらしく、もう制服に着替えている。

「こっちは待っててくれなんて頼んでないんだけどな」

「だよね」

 2人で苦笑いをする。でも逆にぼくらがトシを待つこともよくあった。とりあえず教室に戻ることにした。


 学校の最寄り駅まで一緒に歩いてから、そこで2人と別れて電車に乗った。各駅停車で1駅、そこで急行に乗り換えてまた1駅。そこで下りて、駅前からバスに15分ほど乗って、ようやく家までたどりついた。ぼくの感覚では通学の道のりがどうも遠すぎるような気がするのだけど、ナゴは鎌倉から、トシは日野から、それぞれ毎日通ってきていて、学校と同じ横浜市内に住んでいるだけまだましと思うしかないのかもしれなかった。ただ、実際に住めばわかるはずだけど、横浜という土地はとても広くて、みなとみらいとか中華街のイメージだけで考えてはいけなかった。

 ただいま、と言いながら家に入ると、居間で母さんがテレビを観ていた。今朝もいなかったから、会うのはあのとき以来になる。顔は見えなかったけど、サイドテーブルに赤いワインの入ったグラスがあるのを見て、疲れているんだな、とわかってしまった。母さんはストレスを感じると早い時間からお酒を飲むことがよくあった。そんなことをして大丈夫なの、と心配すると、外国ではよくあることよ、と笑われた。でも、ここは日本だよ、と食い下がると、頑固な子ね、とまた笑われた。そして、今回のストレスは疑いようもなくぼくが原因だった。申し訳ない気持ちになって、居間の方へ近づいて頭を下げた。工事現場の看板に描かれた人よりも深く頭を下げた。

「ごめんなさい」

 何も返事はなかった。でも許してくれるまで謝り続けようと思った。もう一度、「ごめんなさい」と言った。まだ返事はない。3度目にごめ、と言いかけたそのとき、

「もういいから。怒ってないからやめなさい」

 と言われた。顔を上げると母さんがこっちをじっと見ていた。とても悲しそうな目をしていて、まっすぐ見返すことができない。もう一度頭を下げようかな、と迷っていると、母さんが大きく溜息をついた。

「うっかりしていたのよね。お母さん、あなたが男の子だって忘れてたのよ。そうでなくても、お父さんの子だしね。可能性として十分にありえることだって思っていなきゃいけなかったのよ」

 怒っているというよりは、どちらかといえば何かをあきらめているような感じがした。そして、それは母さんが深く傷ついたことを意味しているような気がした。だんだん泣きそうになってくる。

「だから、気をつけていなきゃいけなかったのに、それを忘れてカーッとなっちゃった。あなたを蹴飛ばして、“死んじゃえ”とか“地獄に落ちろ”とかひどいことを言っちゃって、ゆうべからずっと自己嫌悪しっぱなし」

 あのときは全然聞き取れなかったけど、そんなことを言われていたのか。

「でも、それはぼくのせいなんだから。母さんは何も悪くないんだよ」

 母さんは少しだけ空中に視線をさまよわせてから、こっちに来て、と手招きしてきた。近づいてみると、右手を大きく振り上げてきたので、叩かれる、と思って身体を固くしていると、そうではなくて、その手はぼくの左の頬に優しく置かれただけだった。

「もう少しだけ。お願いだから、もう少しだけ。お母さんの子供でいてちょうだい。だめね。お母さん、まだ全然子離れできる気がしないのよ」

 胸から熱いものがこみあげてきて、涙をこらえるのに必死だった。ぼくのほうこそ、まだ全然親離れできる気がしない。母さんがグラスを手に取る間に右の手のひらで急いで両目をこすった。ここで泣いたら、母さんをまた傷つけるような気がしたので、ここは我慢しようと決めていた。ワインを飲んでから母さんが静かに呟く。

「そういうわけだから。お母さん、もう怒っていないから、もう謝らなくていいから。でも、女の子とまたああいうことをしたいなら、よく考えなさい。あれはそんなに簡単なことじゃないのよ」

 はい、と真剣に返事をすると、恐縮しているのがおかしいのか、母さんは少し笑ってからぼくを見た。

「でも、お母さん、わからなかったんだけど、あなた、サラちゃんのことが好きだったの?」

 父さんと同じことを聞いてきた。母さんもぼくがヒカルちゃんを好きだとわかっていたのだろう。

「そりゃあ、好きだよ。好きじゃなきゃあんなことしないよ」

 その返事を聞いて母さんは一瞬驚いたように目を大きくしてからかすかに頷いた。

「そうね。それは大事ね。好き、というのは何よりも大事なことよ」

「母さんは父さんのこと、好きなの?」

「何よいきなり」

 迷惑そうな顔をされた。父さんが母さんを好きなのは、日頃の態度を見ていればすぐにわかった。でも、母さんはいつも父さんを怒ったり雑に扱ったりしていて、本当に好きなのかどうか、子供から見てもわかりかねるところがあった。

「いや、少し気になったから」

 母さんはわずかな間考えてから、

「まあね」

 とだけ答えた。そっけない言い方だったけど、1+1=2であるとか、太陽は東から昇って西へ沈むとか、そんな誰でも知っている自然の法則について聞かれて答えるときのような、確かな響きがそこにはあった。ただ、それを父さんに向けてはっきりと示すことはないような気がした。でも、わざわざそうしなくても父さんはそれをわかっているのかもしれない。

「父さんは?」

 そういえば姿が見当たらない。いつもならもう帰っている時間だ。

「あとちょっとで帰るって。お父さんが帰ったらすぐにご飯にするから、それまでに着替えておきなさい」

 頷いてから階段を上がって自分の部屋に入る。母さんは許してくれたみたいだけど、あれでよかったのだろうか、と少し考えた。お前は自分のことしか考えていない、というナゴの言葉がまた聞こえてくる。そのせいで、母さんを悲しませてしまった。もう誰かを悲しませるのは嫌だ。でも、今のぼくが自分のことだけで精一杯なのも事実だった。テニスも生き方も、どうしたら上手くなれるのだろう。

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