第17話 Boy's Side(3)

「おまえは何を考えてるんだ」

 腕を組んだ父さんに睨まれてぼくはちぢこまっていた。今、父さんが昼間にサラを押し倒したソファーに座っているのが、ひどく悪い冗談のような気がしていた。そういえば、母さんの姿がない。もう夜なのに。どこに行ったんだろう。

「今日はよそで泊まると言っていた。おまえと家にいたくないんだろう」

「本当ならぼくが出て行かなきゃいけないのに」

「どうしてそうならないかわかるか?」

 答えられずにいると、

「こんな馬鹿でも母さんには大事な一人息子だからだ。母さんが戻ってきたら、そうしたらちゃんと謝っておけ」

 返す言葉がない。本当に悪いことをした、という気持ちになっていた。父さんが、やれやれ、と言いたげに溜息をついた。

「父さんがな、一番気になっているのはな」

 そこでいったん黙った。今日の様子から考えると本気で怒っているようで、何を言われるか真剣に怖い。

「どうしてサラちゃんが相手なのか、ってことだ」

「え?」

 家でセックスしようとしていたことじゃなくて?

「だって、おまえはヒカルちゃんが好きだろ?」

「な、な、な」

 驚きのあまり口がきけない。何故父さんがそんなことを知っているのか。

「わかるよ。わかりきってるだろ、そんなもん。なんだ、おまえ、あれで隠してるつもりだったのか?」

 今夜初めて父さんが笑った。それはともかく、すごく恥ずかしい。

「小さな頃から、ヒカルちゃん、ヒカルちゃん、ってあの子の名前しか言わなかったんだぞ、おまえ。おまえがあんまりそんな風にやりすぎるから、母さんが“あの子を追いかけるのはやめて”って怒ったこともあるくらいなんだぞ」

「そうなの?」

 全然覚えていない。母さんとヒカルちゃん、今は普通に仲がいいように見えるけど。

「で、どうして、そんなヒカルちゃんよりもサラちゃんとあんなことをしたんだ?」

 言われてみると、確かにそれは大事な問題のような気がした。少し考えてから答える。

「サラもかわいいんだよ」

「ん? どういうことだ?」

 父さんが興味を惹かれたように身を乗り出した。

「ヒカルちゃんはかわいくてきれいでぼくは大好きだよ。でも、サラもかわいくて、好きなんだ。それに、ぼくが、そういうことをしようとしても、嫌がらなかったし」

「そこだ」

 父さんがぱちっと指を鳴らした。いつもの癖だ。ぼくも時々真似をするけど、ああ上手くは行かない。どうもコツがあるらしい。

「ああ、やっぱりそういうことなのか、って感じだな。心配してた通りの話になってきた」

「どういうこと?」

 話が見えない。

「いいか? まず最初に言っておくと、父さんはおまえが女の子とそういうことをしたのを怒ってるんじゃない。はっきり言っちまうと、父さんが学生の頃はおまえよりもっとひどかった。女の子の尻ばかり追いかけ回してた。その点で言えば、とてもおまえに説教できる資格なんてない」

 いきなり父親にそんなことをぶっちゃけられても困る。

「父さんが怒っているのは、母さんにばれるようなへまをしたからだ。休日に自分の家でそんなことをしたら、そりゃ見つけてくれ、って言ってるのと同じだ。女の子と遊ぶのは構わない。おまえの年頃ならそういうことをしたがるのが、むしろ自然なことかも知れんしな。ただ、ばれないように隠れてやれ。そうすれば父さんも母さんも何も言わん。あと、避妊もちゃんとしろ。赤ん坊ができてもどうせ今のおまえには責任なんてとれないんだ」

 叱られながら、教育としてそれはどうなのか、という気もしたけど、父さんは元々あまりきれいごとを言う人ではなかったし、それに話の内容はいちいち納得できることばかりだった。

「うん。わかった」

「今言ったことは母さんには内緒にしろよ。怒られるのはかなわん」

 あわててそう付け足した。母さんは父さんのこういう身も蓋も無さを嫌がってよく怒っていた。

「それで、あの、サラとヒカルちゃんの話って」

「そうだった。それが一番言いたかったんだ」

 何かに気づいたように、姿勢を改めてから話を始める。

「おまえは、さっきサラちゃんが嫌がらなかったから、そういうことをした、と言ったな」

「うん」

「でも、もし同じことをヒカルちゃんにしようとしたら、あの子はどうすると思う?」

 すぐに拒否されるのはわかりきっていたから、そもそもそういうことをしようとすら思いもしないだろう。あの夏の出来事があったとしても、その考えは変わらなかった。

「だろう? つまり、おまえは安易な道を行ったんだ。本当に欲しいものよりも、そうじゃない手に入りやすいものを選んだんだ」

 そういう言い方だとサラがかわいそうな気がして、反発する心が少しだけ動いた。

「父さんはそういうのはよくないと思う。たとえつらくても厳しくても本当に欲しいものを取りに行かないと、後悔することになると思う。おまえにはそういう生き方をしてほしくない」

「父さんもそうだったの?」

「何のことだ?」

「母さんと付き合うのは大変だったの?」

「ああ。そりゃあな」

 遠くを見るような眼をして父さんが笑った。

「というよりも、母さんと結婚するのが人生で一番きつかった。それに比べれば受験とか就職とか会社の経営なんてどうってことはない」

「そんなに?」

「おまえは知らなくて当たり前だけどな。若いときの母さんはそれはそれはきれいでな。とても父さんみたいなむさくるしい男が手を出せるような存在じゃなかったんだ。かなり無理をしないと、とてもじゃないけど近づけなかった」

 立ち上がって、テーブルからミネラルウォーターの入ったコップを持ってきて、ソファーに戻って飲み干してから話を続けた。

「もちろん、母さんは今でもとてもきれいだし、こんなことを息子のおまえに言うのもなんだが、父さんは母さんと釣り合う存在でいられるように、今でも結構無理をしてるんだ」

「そんな風には見えないけど。父さんと母さんはとてもお似合いだよ」

「まあ、おまえみたいなぼうっとしている子にまで無理してるってばれちまったら、そうしたら父さんはおしまいだから、気づいてくれなくてありがとう、ってなものさ」

 褒められているのか馬鹿にされているのかよくわからない。

「今の話も母さんには黙っておけよ。母さんは父さんが無理をするのを一番嫌がるんだ」

 でも、父さんは無理をしないと母さんと釣り合えないと思い込んでいるのだ。何かがおかしな気がするけど、父さんが頑張っているのはまぎれもない事実だから何も言えなかった。

「だから、おまえも多少、いやかなり無理してでも、ヒカルちゃんに行っておいた方がいいと父さんは思ってる。当たって砕けても一網打尽にされても、それはそれでいい経験さ。決して無駄にはならない」

 どうも失敗するのが前提の話になっているみたいで気分が良くない。

「もっと前向きなアドバイスとかないの?」

「アドバイスって、なんだ?」

「だから、こうしたらヒカルちゃんと付き合えるんじゃないか、とか、そういう具体的な方法だよ」

「あるわけないだろ、そんなもん」

 声に出して笑われた。そんな無責任な話があるだろうか。

「おまえが自分でなんとかするしかないんだよ。父さんも他の誰も助けてはやれない。あの子を本当に心の底から好きなら自然といい方法が見つかるはずだ。どうだ? あの子を自分だけのものにしたいとは思わないか?」

 その言葉はとても魅力的な響きを持っていた。今までぼくは、全ての人は対等な存在で、お互いを尊重し合わなければならない、となんとなく思っていた。だけど、もしも、あのとてもきれいな女の子を、ぼくのそばにいてもぼくを見てくれない、ぼくよりもずっと高い空だけをずっと遠い彼方だけを見つめている女の子を、身も心も自分だけのものにできればそれはどんなに素晴らしいことだろう。そう思ってしまった。

「まあ、今話したことが正解とは限らないから、本当はおまえにあったやりかたを自分で探すのが一番なんだけどな。どうしてもヒカルちゃんでなくサラちゃんがいい、というならそれならそれでいいさ。もしそうなったとしても文句は言わん。父さんは自分のやってきたこと、考えてきたことしかお前には教えてやれない、それだけなんだ」

 一息ついてから、ぼくの顔をじっと見た。

「そして、さっきも言ったがな。明日、母さんにちゃんと謝っておけよ。母さんはこの世界の何よりもおまえを大事にしてるんだ。そんな人を悲しませちゃダメだ」

 その言葉を聞くと、本当に悪いことをした、という気持ちにもういちどなっていた。涙があふれてきてしまった。

「ごめんなさい」

「なんだ。泣く奴があるか。おまえはサラちゃんが好きでそういうことをしたんだろ? 悪気はなかったんだろ? やりかたがまずかっただけなんだから、あまりくよくよするなよ。今日の失敗を次に生かせばいいんだよ。まあ、次があればの話だけどな」

 頭を力まかせに撫でられた。どうして最後は皮肉っぽいのだろう、と思いながら、パーカーの袖で涙と鼻水を拭った。青い布の色が濃く変わる。

「さあ、飯にするぞ。腹が減って死にそうだ。」

「うん」

 2人でキッチンに向かった。母さんが留守のときは、いつも父さんと一緒にご飯を作っていた。といっても、ぼくら2人にできるのは肉や米を焼いたり煮たりすることくらいで、そうやってなんとか作ったのを食べ終わってからいつも、

「母さんは料理が上手なんだなあ」

 と2人でしみじみと言うのがきまりのようになっていた。たぶん今夜もそうなるはずだった。

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