第9話 Girl's Side(9)
階段を降りてきたリョウマくんが目を丸くしていた。
「おはよう」
機械的に朝のあいさつをすると、わたしは食べかけのトーストにもう一度かじりついた。もう9時になるのに、1階の部屋の広いテーブルで中2にしては背の小さい女の子が1人だけで食事をしている姿しか見えないのだから、彼が驚くのも無理はなかった。
「あ、おはよう。え、あれ、みんなは?」
「さあ。まだ寝てるんじゃないの?」
大人たちは夜中までお酒を飲んで騒いで疲れてしまったのかもしれない。わたしのほうといえば、逆に早く寝すぎて6時には目が覚めてしまい、何をすることがなくて退屈すぎて死にそうになっていた。なにしろこのコテージにはテレビも何もないのだ。まさか夏休みの課題を持ってこなかったのを後悔するとは思わなかった。
「突っ立ってないで、何か食べたら?」
テーブルの上に置かれた袋に入ったバターロールとクロワッサンを指さした。うちのママが口淋しくなったときのために前もって用意してくれていたものだ。それから、わたしのように備え付けのトースターでトーストを作る手もある。
「あ、うん。そうするよ」
彼はわたしの前に座ると、袋からバターロールを取り出して無表情でもしゃもしゃ食べ出した。食事というよりは、必要なエネルギー源を得るための作業のようだった。見ているだけでもひどく味気ない感じがする。ここにはキッチンもあるし、小さな冷蔵庫には卵やベーコンもあるはずだから、簡単な朝食くらいはわたしでも作れそうだったけれど、彼のためにそこまで親切になる理由もないように思った。でも、気が変わったら作ってあげてもいいかもしれない。
「もしかして、雨降ってる?」
目の前の男の子が首をかしげて外で響く音に耳をすませている。
「うん。降ってるよ」
わたしが早く起きてしまったのも雨音のせいだ。もし晴れていれば散歩をして気を紛らわすこともできたかもしれないのに、よくよくついていなかった。
「今日さあ、山に登るはずだったよね?」
確かに彼の言う通り、今日は山登りをするはずだった。といっても、本格的に登るわけではなくて、みんなで
リョウマくんは食器棚からマグカップを出してから、隅にある冷蔵庫から大きなガラスのボトルに入った牛乳を取り出した。そのまま歩きながらカップに牛乳を注ぎ出したので、わたしも家でよく同じようなことをしてママに叱られるなあ、とぼんやり考えていた。席に戻って、あっという間に1杯飲み切ると、すぐにまた注いで、もう1杯飲み出した。わたしなら、お腹を壊すのが怖くて、あんなことはとてもできない。
「わざわざ出かける意味ないと思うんだけどなあ。雨が降ってたら景色も何も見えないよ」
言っていることは真面目だけれど、口の周りを白く濡らしたままだから、まるで説得力がなかった。この人、5歳くらいから何も変わってないんじゃないかなあ。身体はだいぶ大きくなったけれど、癖っ毛も茶色い眼もあの頃と何も変わらない。そう思っていると、いつの間にか彼にまじまじと見つめられているのに気がついて、一気に不愉快になった。
「ちょっと、なに? じろじろ見ないで」
「え、いや、ヒカルちゃんがぼくをじっと見てるからさ、なんだろうと思って」
「見てないよ」
「でも、本当に見てたんだけど」
まだぶつぶつ言っていたけれど、面倒なので無視することにする。たぶんわたしは本当に見てしまっていたのだろう。でも、それを認めるのも嫌だったし、たとえ無意識でもそんなことをしてしまった自分に腹が立った。変な勘違いをされるじゃないか。
入口のドアが開いたのはそのときだった。パパが透明なビニール傘をたたみながら先頭で入ってきた。
「やあ、ひどい降りだな。お、ヒカルもリョウマくんも、もう起きてたのか」
「もう、って、そっちが遅いんじゃない」
娘に嫌味を言われてもパパは、ははは、とかすれた笑い声を出すだけだった。それから、ママもリョウマくんのお父さんとお母さんも西方さんと智世さんも、それにルリとマリもみんなやってきた。傘を差しても防ぎ切れなかったらしく、みんなどこかしら濡れてしまっている。部屋が一気ににぎやかになって、リョウマくんがどうしているか、少し気になったけれど、さっきのこともあったから、彼のほうを見るのもどうかと思い、視線を向けるのはやめておいた。
「今日は晴耕雨読で行こうと思う」
パパにそう言われたときは、またわけのわからないことを言い出した、と思ったけれど、続けて話を聞いてみると、雨がひどいのでやっぱり山登りは取りやめることにして、その代わり町までドライブして美術館まで行ってみよう、と決まったらしい。
「うん? どうした? ヒカルは芸術とか好きだろう?」
それを聞いたとき、たぶんわたしはとても嫌そうな顔をしてしまったのだろう。パパは意外そうな表情をした。
「あ、うん。好きだよ。ただ、いきなりだったから驚いただけ」
「だろう? ならいいんだ」
弁解するとパパはあっさり納得してくれた。わたしが嫌な顔をしたのは、美術館という場所でつい最近よくない出来事があったからだ。その記憶も消えないうちにまた出かけるというのは、あまり、いや、だいぶ気持ちの良くない話だった。その原因となった男の子もそう感じたらしく、パパが美術館に行くと言ったときに横のほうから「ひえっ」と小さな呻き声が聞こえてきた。顔を見ると怒りが爆発しそうなのであえて見ないようにした。どうしよう、美術館でまた何かあったらあいつを蹴ってしまいそうだ。そんな心配はあったものの、美術館の後で新しくできたレストランで食事をするのは楽しみなので、そっちに期待することにした。まさに花より団子だ、と自分でおかしくなる。
いったん部屋に戻って出かける準備をしていると、ドアがノックされた。
「ヒカルちゃん、ちょっといい?」
ママはわたしが返事をする前に入ってきた。これだとノックする意味がない気もするけれど、いつものことだから別に驚いたり怒ったりはしない。
「あなた、今日その格好で出かけるつもり?」
そのときのわたしの格好は、上は胸元に赤い花のマークのついた白い襟のネイビーブルーの半袖のポロシャツで、下はジーンズを履いていた。
「うん。そのつもりだけど」
別におかしな格好ではないはずだけれど、ママは深く溜息をついてから、右手に持っていたバッグを開けて中から何かを取り出そうとしている。
「いい? 今日はこれを着なさい」
そう言うと、ベッドの上に白いワンピースを広げた。ややふくらんだ袖とところどころにフリルがあしらわれているのが目につく。とてもかわいい服だ。あまりにかわいすぎて絶句してしまう。
「こんなのいつ買ったの?」
「この前ママがすすめたのに、あなたは全然聞いてくれないから、後でまた出かけて買っておいたのよ」
そういえば、先月だったか、有楽町まで出かけたときにデパートで少し言い合いになったことがあった。
「それで家からわざわざ持ってきたの?」
「そうよ。あなたに着せようと思って」
うわあ、と言いたくなるのをなんとかこらえた。これは困った。確かにこのワンピースはかわいい。とてもかわいい。でも、残念ながらわたしの趣味ではない。ママは今でも少女漫画とかヨーロッパの王侯貴族とかが大好きな人で、娘のわたしにはママの趣味は濃すぎて胃がもたれそうな感じになってしまう。特にわたしに女の子女の子した服を着せようとするのにはいつも困っていたのだけれど、よりによって今日ここで史上最高にガーリーな服を持ち出してくるとは予想していなかった。これはまずい。なんとか回避しなくては。
「あー、でもね、今日の天気だとこの服じゃちょっと寒いんじゃないかなあって」
「大丈夫よ。もし寒かったら智世さんがカーディガンを貸してくれるって」
智世さん! と叫びそうになってしまった。どうしてわたしを困らせるようなことをするの。
「あと、それとね、この服だと中が透けちゃうかもしれないなあって」
ワンピースの生地は薄めで、今日のわたしの下着は薄いブルーだから、間違いなく透けてしまう。
「それも大丈夫」
ママは両手に持っていた新品のアンダーウェアをわたしに向かって掲げてきた。上下ともに雪のように白い。うわあ、とまた言いそうになってしまった。まずい。この人、完全にわたしに着せるための作戦を練ってきているよ。いつもはアバウトなのに、どうしてこんなときだけ計画性が高いんだ。
「ねえ、ヒカルちゃん」
言い訳が思いつかずに困っているわたしをママが真剣な目で見つめてきた。
「ヒカルちゃん、あなた、自分がかわいいってわかってるでしょ?」
責めるような口調で褒められるのも妙な気分だ。
「いきなりそんなこと言われても」
「あなたはかわいいのよ。ママがかわいく産んでかわいく育てたから、間違いなくかわいいの。だからね、ヒカルちゃん」
両手で左右の肩をしっかりとつかまれた。
「あなたにはかわいい服を着る義務があるのよ。あんな男の子みたいな服ばかり着てたらダメなの。ママの言いたいこと、わかるでしょ?」
さっぱりわかりません。でも、これ以上断り切れないのはよくわかった。観念するしかなさそうだ。
「もういいよ。着るから。着ればいいんでしょ」
「そう。着ればいいのよ」
皮肉も通じなくて本当にがっかりする。こんな思いをするくらいひどいことをしていないはずなのだけれど。それとも前世で何かしたのだろうか。
「あ、そうだ」
わたしと正反対にうきうきしているママがカーペットの上に置いていたバッグを拾い上げた。
「これを忘れちゃいけないのよね」
その中から出てきたものを見て、わたしは、絶望ってこういうことなんだ、と思うくらいダークな気持ちになってしまった。
「わあ、ヒカルちゃん、かわいい」
踊り場にさしかかったとき、智世さんの声が聞こえてきた。そういえば、この人も共犯だった。それで気づいた他のみんなもわたしを見て、おう、と一斉に声をあげた。どうしよう。死にたい。
そうなのだ。ママとわたしの趣味は合わないのだけれど、ママの見る目は確かで、ママが選んだ服は必ずわたしに似合うのだ。そして、今日のワンピースもくやしいことにかなり似合ってしまっていた。部屋の姿見で確認したときに「結構いけてる」と自分でも思ってしまったのは残念ながら事実だ。履物も白いサンダルに代えさせられたけれど、この格好でスニーカーを履くのもおかしいから、それは別にいい。問題なのは、今わたしがかぶっている帽子だ。青いリボンのついたつばの広い麦わら帽子。メルヘンの世界じゃないんだから、こんなものをかぶりたくない。おまけに、わたしが好きでこの格好をしていると知らない人に思われるのも嫌だった。いや、ここにいるメンバーでもそう誤解しているのではないか。
「なんだ。天使かと思ったらうちの娘じゃないか」
お願い。パパ、少しだけ黙っておいて。
「本当、素敵ねえ。清純派じゃない」
リョウマくんのお母さんの言葉にいつもよりもトゲを感じてしまうのは気のせいだろうか。
「いや、絵から抜け出してきたみたいだね。もう美術館まで行かなくてもいいんじゃないか」
お父さんまでこんなことを言っている。乙訓家って全員嫌な人なのかもしれない。その息子が何を言ってくるかと思っていたら、ただ黙ってわたしを見つめているだけだった。顔が少し赤くて目が潤んでいる。あの目をどこかで見たことがある、と思って、脳の中を検索したら、あの子だ、と気がついた。ごんのすけだ。ごんのすけは、わたしがまだ小さいときにママの実家からもらわれてきたラブラドール・レトリバーで、少しばかなところもあったけれど、黒い毛がとてもきれいな子だった。家族みんなになついていて、特にわたしのことが大好きで毎日のように一緒に散歩に出かけていた。でも、小6の冬に風邪をひいて元気がないな、と心配していたら、1週間くらい経ってあっさり死んでしまった。
「ごんはみんなにかわいがられてしあわせだったんだよ」
パパはそう言って慰めてくれたけれど、わたしにはとてもそうは思えなくて、助けてあげられなくて、ただかわいそうで、わあわあ泣きっぱなしだった。それから1年くらいは、何かにつけてごんのことを思い出して泣いてしまっていたし、実は今でも時々泣きそうになってしまう。そして、今、リョウマくんがごんと同じ目をしてわたしを見ていた。わたしを好きでたまらないという目。ただ、ごんは犬だから許されていたけれど、人間があんな曇りのない目で他の誰かを見つめることはあってはならない、と思ってしまう。わたしには、そんな風に見られていることに気づいていないふりしかできなかった。
「さあ、それじゃあ出かけようか」
パパはそう言うとコテージの外へと出て行って、みんなも後に続いた。どうもわたしの着替えをみんな待っていてくれたらしい。置き去りにしてくれてもよかったのに。わたしが最後に表に出ると、雨は小やみになっていて、重たげな灰色の雲の切れ間から光が差し込んでいるのが見えた。肌寒くないのは有難かったけれど、朝からこの天気なら予定通りドライブに出かけられて、わたしもこんな格好をしなくてもよかったのではないか、と恨めしい気持ちになった。でも、ママの執念深さを考えると、山へ行っていたとしてもどのみちこの服を着させられていたのかもしれない。ぽん、と横で音がしたので見てみると、リョウマくんが傘を開いていて、わたしのほうに差し掛けてくれていた。相合傘じゃないか、と一瞬嫌になったけれど、いろいろありすぎて疲れ切っていたわたしにはこれ以上抵抗する気力もなくて、ただ黙って彼と一緒に下の駐車場まで降りて行った。もうどうにでもしてほしい。
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