第10話 Girl's Side(10)

 広い美術館は閑散としていて、人もまばらだった。夏休みとはいえ平日はそんなものかもしれない。でも、そのおかげで自分のペースで見て回れたから、不満どころか逆に嬉しかった。小ホールの中央に展示された奇妙にねじれた細長い人体をかたどった3mほどのオブジェの周りを何度か回ってみる。わたし以外に人もいないホールで大きな声をあげたらどれくらい響くのか、試してみたかったけれど、美術館で大声を出すのはこの前でこりていた。

 たまに人とすれ違うと、必ず見られているような気がした。友達と一緒に休みに出かけたときにわたしがそう言うと「自意識過剰じゃん」とナギに笑われるけれど、今日に限っては確実に見られていた。やはりこの服は目立つのだ。白いワンピースと麦わら帽子。コスプレか何かと勘違いしている人もいたかもしれない。とはいうものの、最初は嫌で嫌でしかたなかったこの格好も、だんだんと好きになりつつあった。慣れというものは本当に恐ろしい。サイズもぴったりで、何より軽くて着ていると少し自由になれた気がする。でも、そう言うと、「ほら見なさい」とママが腰に手を当てていばってくるのは間違いなかったし、それにまた何かものすごい服を着させられそうなので、絶対に言うわけにはいかなった。他のみんなとは完全に別行動をとっていたけれど、何かあればママから連絡があるはずだから気にしなくてもよかった。わたしもひとりのほうが気を使わなくていい。学校ではなくなっていた、ひとりになりたがる癖が再発しそうになっていた。あまり喜べることではない。

 いつの間にか常設展をやっているスペースまで来ていた。地元出身の画家が寄贈した作品が飾られている、と壁にかけられたパネルで説明されている。聞いたこともない人の絵を熱心に見ることもないから、しっかり鑑賞するまでもなく流し見していく。そろそろ別のコーナーに行くかな、と少し足を速めようとしたそのとき、目の前に知っている人がいた。西方のおじさんが水車小屋のスケッチをまじまじで見ている。鉛筆描きでもちゃんと見るんだな、と思うのと一緒に、適当に見てしまったことをなんとなく悪いように感じていた。それを誰に謝ればいいのかはわからないけれど。そのまま声をかけようか、黙って通り過ぎようか、迷っているうちに向こうが私に気がついた。細められた目が優しい。いつもこんな風に受け持っている生徒たちを見ているのだろうか。

「感心だね。こんなところまでちゃんと見て」

「いえ、たまたまです」

 褒められて顔が熱くなってしまったのは、今の自分の格好を思い出したからだ。知り合いに見られるのはやっぱり恥ずかしい。

「智世さんたちと一緒じゃないんですか?」

「彼女らはねえ、休み休み来るはずだよ。この場所は子供にはまだ早いみたいだしね」

 でも、ルリとマリが騒いでいる様子も聞こえないから、周りの迷惑にならないようにお利口におとなしくしているようだった。

「どっちかが疲れて寝ちゃったら連絡してくれ、と頼んで来たけど、今のところは何事もなさそうだ」

「あ、そうしたらわたしも手伝いたいです」

「ありがとう」

 親切ではなく、眠っているルリとマリを抱きしめたい、という欲にかられてそう言ったのだけれど、おじさんはそんなわたしの邪心も知らずに感謝している。そこで会話が途切れてしまい、おじさんの眼鏡の縁が銀色に光るのをなんとなく見上げてしまったけれど、別に無理して会話を続ける必要もないとすぐに気づいて、「じゃあこれで」と軽く頭を下げて立ち去ろうとしたそのとき、

「お腹空かない?」

 温かい声に呼び止められた。


 正面玄関から出ると、建物の中より外の方が温かいことにすぐに気がついた。空調の効かせすぎだ。でも、それはこの美術館に限った話ではなくて、この前も学校の帰りにみんなで原宿のショッピングモールまで出かけたら、そこのエアコンの設定温度が低すぎて、ガッキーとエノが凍えて倒れそうになっているのを助けようとしているうちに全員身体が動かなくなって必死で外まで出なくてはならなかった。夏の東京で遭難しかけるのはばかみたいだし、むやみに冷やすのはエネルギーの無駄づかいであまりよくないように思った。わたしもクーラーは苦手なほうだから、なるべく使わずに過ごしたいと思っているけれど、部屋の窓を開け放しにしていると虫が好き放題に飛び込んでくるので、そうするわけにもいかなかった。いつだったか、セミが大音量で鳴きながら部屋に入ってきたことがあって、わたしが半泣きで逃げ回っているうちに勝手に飛び去っていったのは、今思い出しても頭に来る。なんとか復讐したいけれど、向こうの寿命はとっくに尽きてしまっている。網戸をつけてほしいとパパとママに何度頼んでもスルーされているので、仕方なく今でもクーラーに頼る生活を送っていた。

「さっき見つけたんだよ」

 西方のおじさんに連れられて来たのは、入口から少し外れたところにある売店だ。名画が描かれた絵ハガキやマスコットキャラのものなのか小さなぬいぐるみに見とれていると、

「ほら」

 とおじさんがレジの横を指さした。「本場ジャージー牛乳使用」と書かれたソフトクリームののぼりが斜めに立てかけられている。

「きみが好きなんじゃないかな、と思って」

 はい、大好きです。

「おごってあげるよ」

「いえ、そんな」

 一応は遠慮しておく。でも、遠慮しすぎるとかえって失礼になるから、その加減が難しい。中学生でもそれくらいはわかる。おじさんはわたしの返事を聞かずに注文を取りに行ってしまった。9割の期待と1割の申し訳なさが入り混じった気持ちでその後ろ姿を見てから、中庭のほうへ視線を移す。相変わらず分厚い雲に覆われてはいたけれど、もう雨は降っていない。はるか遠くの黒い山並みのてっぺんをかすめるように稲妻が閃く。でも、いくら待ってみても雷鳴は聞こえなかった。あの山はわたしが思っているよりもずっとずっと離れているのだろう。

「はい、どうぞ」

 だしぬけに顔の前にソフトクリームを出されて驚いてしまう。わずかに甘い香りを含んだ冷たい空気を感じながら受け取る。

「わあ。ありがとうございます」

「あっちに座ろうか」

 すぐそばにある木製のベンチまで移動する。背もたれがないのが少し気に入らなかったけれど、それよりもワンピースを汚してしまわないように気をつけたほうがよさそうだった。裾に手をやりながら座ると、おじさんもわたしの隣に静かに腰掛けた。さっそく乳色にとがったクリームの先端を舐め取る。濃い。それしか考えられなかった。舌先から脳まで濃さと甘さに支配される。本場のジャージー牛乳ってすごい。エノに会いたい、と不意に思った。あの子もスイーツに目がないから、このソフトクリームを食べればきっと喜ぶはずだった。帰り道で2人だけで買い食いをすることもある。本当は校則違反だけれど、そんなきまりは誰も守っていなかったし、先生たちも真剣に守らせるつもりはなさそうだった。あんなにいつも一緒だったのに、つまらないことで距離ができてしまうなんて怖い。そして、それ以上に寂しい。

「その服、本当によく似合ってるね」

 西方のおじさんに褒められてもリアクションがとれなかったのは、そんなことを考えていて落ちこみかけていたせいだし、たとえそうでなくてもソフトクリームを舐めながら会話をするのは難しかった。

「まるで君のために作られた服みたいだ」

 そう言うとおじさんはホットコーヒーの入った紙コップに口をつけた。なんとか少しだけ頭を下げてみたけれど、わたしとしてはもうこれ以上その話はやめてほしかった。似合っているのは十分わかってますから。

「“風立ちぬ”を思い出したよ」

「あの映画ですか?」

 この前、テレビで放送したのを家族で観ていた。話はよくわからなかったけれど、絵がとてもきれいなのはよくわかった。横に座っていたママが泣きじゃくっていたせいで、あまり集中できなかったから、できればもう一度見直したい。

「そうだね。映画にもなってるけど、あれは本が元になっているんだ」

 あ、この人、本当に先生なんだ、という感じがした。いつもこういう風に生徒の間違いを直しているのだろう。声を荒げたりすることもあるのだろうか。あまり想像がつかない。

「50年以上前に書かれた小説でね。君みたいな美少女も出てくる。だから、思い出したんだ」

 美少女って。わたしはそんないいものじゃないですよ、とも言えずに顔を少しそむけることしかできなかった。それからしばらくは2人とも黙ったままだった。風の音が時々高く響く。早く食べ終わって、どこか別の場所に行ってまたひとりになろう、と決めてコーンをかじり始めたのと同時に、隣の男の人が口を開いた。

「ヒカルちゃんは、今いくつ?」

 そう言いながら、わたしを見てはいなかった。まっすぐ前を、遠い山のほうを見ていた。

「14歳です」

 そんなの西方のおじさんも知っているはずなのに、と不思議に思いながら答える。

「そう」

 さっきまでとは違って、声に感情がこもっていない。わたしが何かして怒らせてしまったのかな、と心配になる。

「じゃあ、もう大人だね」

 コーヒーをすする音が聞こえる。

「いえ、まだ高校生にもなってませんから」

「ううん」

 言い切らないうちに返された。

「君はもう十分大人だよ」

 おかしい。何か変だ。そう感じてはいたけれど、どうしてそうなっているのかわからないままうつむいていると、おい、と男の人がそう遠くない場所で大きな声をあげたのが聞こえて、驚いて座ったまま飛び上がりそうになってしまった。顔を上げて見てみると、乙訓のおじさんが入口のほうからこちらへずかずか歩いてくるのが見えた。そして、西方のおじさんがわたしのほうへと伸ばしかけていた右手をさっと戻したのもしっかり見えた。

「おまえ、何考えてんだ」

 ベンチの横までやってくると、リョウマくんのお父さんは西方のおじさんをいきなり怒鳴りつけた。男の人に近くでそんな大声を出されたことがないので、怖くて動けなくなってしまう。

「誤解だよ。何を怒ってるんだよ、やっちゃん」

 西方のおじさんはふわふわした声でへらへらと答える。あまり好きではない笑い方だった。

「ヒカルちゃんならわかってくれると思ったんだよ。ちゃんと説明すれば大丈夫だって」

「だからそれが」

 そう言いかけて乙訓のおじさんは、わたしがそばにいるのを思い出したらしく、表情を少し緩めた。一瞬視線を上に向けてから、わたしに向かってこわばった笑みを浮かべた。

「悪いね、ヒカルちゃん。騒がしくして。ちょっと、こいつに話があるからさ。なんだったらリョウマを探して、つきあってあげてくれないか」

「はあ」

 何が起きているのか、事態がさっぱり理解できていないから生返事しかできないし、リョウマくんを探したくもなかった。むしろあっちがわたしを探してきそうだ。立ち上がっていた西方のおじさんが肩をつかまれて、そのまま入口の方へと歩かされていく。おじさんが2人身体をくっつけて連れ立っていくのも妙な眺めだった。ガッキーは映画やテレビで男の子同士が仲良くしているのを見てよくきゃあきゃあ言っているけれど、あの2人を見てもさすがに喜ばないだろう。またうつむいてコーンをかじるのを再開する。

 今のはいったいなんだったのか、と思う。乙訓のおじさんがなぜ怒っていたのか、西方のおじさんはわたしが何を「わかってくれる」と思っていたのか、それも気になったけれど、一番気になるのは、西方のおじさんが右手をどうしようとしていたのか、だった。

 白い手のひらから伸びる細長い指先が鉤のように曲がってわたしのほうへと伸びていた。リョウマくんのお父さんが来なければ、あの手はどこに届いていたのだろう。

 コーンをしっぽまでかじりつくすと、人差し指にクリームが垂れているのに気づいて、右手を口元に近づけてそのまましゃぶってしまう。はしたない、とママが見ていたら叱られるところだけれど、だからなんなの? とちょっとだけ逆ぎれしたい気持ちになっていた。でも、想像だけで腹を立てるのもばかげている。

「さてと」

 独り言を呟いてから立ち上がる。服をざっと見たところ、どこも汚れていなさそうで安心する。ふと思い立って、屋根の下から出てみた。サンダルから芝生と土の柔らかい感触が伝わってきた。雨は降っていなかったけれど、時々吹いてくる風は水分を含んでいて、ミストのような感じだ。今さっきの騒ぎがなければ、もうちょっといい気分になれていたのかもしれなかった。

 あたりを見渡してみると人の姿はなかった。頭のてっぺんを左手で押さえつけて、帽子を深くかぶり直す。もう一度、周囲に人がいないのを確認してから、右足を軸にくるっとターンしてみた。なぜいきなりそんなことをしたのか、と訊かれても、そうしたかったから、と答えるしかない。要は思いつきでやったことでしかないのだけれど、いざやってみるとなかなか気持ちよかった。脳が揺れているような感じもする。調子に乗って、もう一度、さらにもう一度やってみる。3度目に回り切る直前に勢いがつきすぎて裾がめくれそうになって、慌てて両手で押さえつけた。完璧にめくれあがる前に押さえたはずだし、人の姿もまだ見えなかったからたぶん誰にも見られてはいないはずだった。それよりも、めくれそうになったときに

「や」

 と自分でもびっくりするくらいかわいい声を出してしまったのが結構ショックだった。女の子かよ、と思ったけれど、実際わたしは女の子なのだからしかたなかった。

 ばかなことをしちゃったな、と反省しながら建物のほうへと戻る。でも、考えようによっては転んで泥だらけになるよりはずっとましだった。と、そこでサンダルに泥がついているのに気づいた。くるぶしのあたりにもはねていて、特に不快ではなかったけれど、ママに見つかって怒られると面倒だった。確か駐車場に車を停めたときに水飲み場を見たような気がしたので、そこまで行くことにした。緑色のホースが蛇口についていたのを見た覚えもあるから、それで足を洗おう。せっかく美術館まで来ても、やっていることはちっとも芸術的じゃないな、と自分に呆れながら入り口の前を通り過ぎる。こんなにいろいろなことがあったのにまだ15時にもなっていなくて、わたしには人生は長すぎる、などとわけのわからないことを考えながら駐車場へと向かった。

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