第5話 Girl's Side(5)

 窓の向こうはもやでかすんでいた。8月の朝といっても山の中は寒い。グレーのスウェットを持ってきてよかった。パパとお揃いのやつで、休みの日の朝にソファーに2人で並んで座ってテレビを観ていると、ママに「ネズミの親子みたい」とよく笑われる。でもそれは別に不愉快ではなかった。

 スマホが鳴ったので画面を見ると、ママから「ごはんができた」とメッセージが来ていた。昨日の夜、花火が終わってからいつものようにママにスマホを預けようとすると、「それじゃ連絡できないから持ってなさい」と言われて、ここは家とは違うんだ、と気づいた。われながら融通がきかない。

 スウェットを脱いで、白と緑のボーダーのポロシャツをデイバッグから取り出す。長袖だけれど、予報では今日もそんなに暑くならないから大丈夫なはずだ。見下ろした見慣れた裸の胸はいつも通り自分でもびっくりするほど薄かった。第二次性徴っていったいなんなんだろう。「ヒカルはそこがいいんだから、気にするなって」とチーちゃんは言ってくれたけれど、そう言う彼女は背が高くてスタイルもいいのだから、あなたにそう言われましても、とひがみっぽい気持ちになってしまう。かと言って、わたしと同じように胸がないエノに「大丈夫。マニアはいるから」と励まされたのも複雑だった。いや、普通の人に受け入れられたいのですけれど。さっき、「わたしと同じように胸がない」と見栄を張ってしまったので、本当は「わたしより少しは胸がある」と訂正しておくことにして、そんなエノもあんな写真を撮るくらい自分の身体を気にしていたんだな、と思ってしまう。

 着替え終わって部屋を出ようとすると、ドアが開かない。壊れた、大変、弁償しないと、と慌てたけれど、すぐに昨夜ゆうべ寝る前に鍵をかけたのを思い出した。セルフでなにやってんだか、と笑ってしまったけれど、ふだん家では鍵なんてかけないのだから、しょうがないといえばしょうがない。2年前にここに泊まりに来たときだったか、ママに「部屋に入ったら鍵をかけなさい」と言われて、泥棒も来るのに苦労するはずの山奥でそんなことをする必要もないと思ったので、どうして、としつこく聞き返して、いいからそうしなさい、と怒らせてしまったことがあった。そのときはわからなかったけれど、後になってママは別のことを気にしているのだと気づいた。泥棒ではなくてリョウマくんだ。コテージの2階にはわたしだけでなくリョウマくんも泊まっている。彼が夜中に来はしないか、とママは心配したのだろう。すぐ気づかなくてごめんなさい、と謝りたかったし、そんなことを思いつきすらしなかった自分の子供っぽさが嫌になった。そんなに心配ならママも一緒に泊まればいいのに、と思ったけれど、ここに泊まるときはいつも大人と子供に分かれることになっていて、大人たちは少し離れた別のコテージに泊まっていた。ルリとマリは小さすぎてお母さんと同じ部屋で寝ているようだったけれど、いつかはこのコテージで泊まれるようになるのだろうか。そうなったら一緒に夜更かししていろいろ話をしてみたい。ただ、ママの言ったことは、普通の年頃の男の子と女の子が泊まる場合には正しい配慮なのだろうけれど、わたしとリョウマくんの場合にもあてはまるか、というと違う気がした。あのびびりがそんなことをするだろうか。でも、やらない保証はなにもないし、そこまで彼を信じてもいなかったから、ママの言いつけ通りに鍵をかけるようにしている。2階にはシャワールームもあって、そこを使うときも鍵はかけている。もちろんリョウマくんの部屋に行ったりもしない。今度はちゃんと鍵を開けてから廊下へと出た。


 わたしたちは森の中を歩いている。頭の上をおおった樹々をすりぬけた陽の光がアスファルトの上をところどころ照らしているのが見える。後ろでは智世さんがルリとマリと手をつないで歌いながら歩いていた。メロディには聞き覚えがあったけれど、歌詞は舌足らずなせいでにゃんにゃんにゃんとしか聞こえなくて、何の歌だったかまでは思い出せなかった。小さな子とはいえ2人に両手を取られて智世さんは少し歩きにくそうだ。コテージを出てすぐにルリと手をつなごうとするとすぐに、「やー」と逃げられてしまった。お母さんといっしょのほうがいいのはよくわかるけれど、もう少し気を許してくれているものと思っていたので結構がっかりしてしまった。でも、あの子たちになにをされても怒る気にはなれない。たぶん、わたしはあの子たちを愛しているのだろう。

 今日はサイクリングをしよう、と乙訓のおじさんが言ったのは朝ごはんのとき、ちょうどりんごのデニッシュの甘さにうちふるえていたときだった。サクサクした生地に包まれた粗漉しのジャムのおいしさにパンという食べ物の概念までも変えられている最中にスケジュールを説明されても頭にろくに入るはずもなかったけれど、つまり、このコテージから少し離れたところにある湖までみんなでレンタルした自転車に乗っていこうというのだ。どうも自転車で湖のまわりを一周してみよう、という話になっているらしく、パパも西方のおじさんもすっかり乗り気になっていた。結構広い湖なのに、みんな無駄に元気だな、と今朝の空気と同じくらい冷ややかな気持ちになっていると、テーブルの向こうでリョウマくんがわたしを見てにやにやしているのが目に入った。なに、気持ち悪い、と思ったけれど、考えてみるとわたしのほうが先ににやにやしていたのだ。でもそれはパンがおいしすぎて思わず笑ってしまったのであって、別にリョウマくんのために笑ったわけではない。そこを勘違いしてほしくなかったけれど、勘違いさせてしまったわたしが悪いのかもしれない。ここにいる間はなるべく笑わないようにしよう。

 そして、今は湖に向かっている途中なのだけれど、なぜ自転車に乗らずに歩いているのかといえば、ルリとマリの面倒を見なければいけない智世さんを手伝いたいから、というのが一応のたてまえである。あの子たちは当然自転車には乗れないので、智世さんは徒歩で行くと言ったのに乗っかって、何かあったら困るから、と同行を申し出たら、大人たちは「若いのにいい心がけだ」と言いたげな表情であっさり許してくれたのでわたしとしては助かった。それで、本音を言うと、自転車に乗りたくなかった、という身も蓋もない理由である。出発する間際にリョウマくんが「ヒカルちゃんって自転車に乗れたっけ?」と聞いてきたのでにらみつけてやったけれど、もちろん乗れるに決まっている。ただ、乗れはするものの安定性に著しく欠けていて、我ながらきわめて危なっかしい走りであることは認めざるを得なかった。一人で乗るならともかくみんなに迷惑をかけてもいけないので、仕方なくあきらめた、というのが本当のところである。決して乗れないわけではないので、そこは誤解してほしくない。

「よかったの? みんなと一緒じゃなくて?」

 智世さんは何度もそう聞いてくる。かえって気を使わせてしまったみたいだ。

「いえ、そんなことは全然。それより、湖まで歩きで大丈夫ですか?」

「ああ、それはもう。この子たちと毎日一時間くらいお散歩してるから」

 母親の手につかまった少女たちが大きな笑い声をあげる。心なし自慢げに見える。

「すごい。わたしより全然歩いてる。2人ともえらいね」

「それに、この子たちは運動させないと、夜全然寝ないから、これくらいでちょうどいいの」

 ゆるく波を打つ長い髪が森を抜ける風に揺れている。若草色のカーディガンと白のロングスカートを身にまとった姿は10代にしか見えなくて、とても2人の子供を産んだ人とは、わたしよりひとまわりも年が離れているようには見えなかった。ルリとマリのような女の子を産んでみたいのと同じくらい、智世さんのようなお母さんになりたかった。おだやかでいつもやさしく微笑んでいるお母さん。ママのことは好きだけれど、ああなりたいかと言われると少し違ったし、なりたくてもああなれるとも思えなかった。その点はママにすごく悪いとは思っているけれど、どうしようもない。

「智世さんは楽しんでますか?」

「え? なに?」

「ここに来てよかったと思ってますか?」

「ああ、それはもちろん。まあ、本当はいろいろと大変なんだけど、基本的には楽しんでるから、大丈夫」

 うちのパパとママ、それにリョウマくんのご両親、それに智世さんのご主人の西方のおじさんは、みんな学生のときからの付き合いでずっと仲良くしていたようだったけれど、智世さんだけはみんなと10歳以上年齢が離れていて、小さな子供を連れている以外にも、いろいろと気を使わなくてはいけないのかもしれなかった。高校の先生だった西方のおじさんが受け持っていたクラスの生徒の智世さんを好きになって―逆だったかもしれない―ひそかに付き合いだして、いくつもの障害を乗り越えて結婚に至ったのだそうだ。パパとママから聞かされた2人のなれそめに、わたしはとても感動したので、いつかの昼休みに友達にも話してみたのだが、あまりいい反応は得られなかった。

「その話、なんかきもい」

 チーちゃんがストローを噛み潰しながら呟いた。癖なのだと思うが、彼女はいつもパックのジュースを飲みながら歯をかみしめるので、飲み終わるころには、ストローの飲み口はすっかりボロボロになってしまう。

「そう? いい話だと思うけど」

 わたしが多少むっとしていたのに気づいたらしく、チーちゃんはなだめるように笑顔になって、それで思わずごまかされそうになる。

「いや、ヒカルには悪いんだけどさ。考えてもみてよ。あたしらがオジーやニッキとつきあって、卒業してすぐ結婚するなんて、きもくない?」

 うえー、とか、むりむり、とかナギとエノが首を横に振っているのを見ると、どう反論しようとわたしの話が「きもい」事実をひっくりかえせそうもないので、あきらめて黙ってデラウェアを食べることにした。ママがデザートに持たせてくれたのだけれど、あいにく種なしではなくて、食べるのが面倒でますます落ちこんでしまった。一般論としてはチーちゃんの言う通りで、男性教師が女子生徒と交際するのがあまりほめられたことではないのも、それはその通りなのだろう。それにやはりチーちゃんが言っていたように、うちの学校の男の先生の誰かと付き合えるか、というとそれはとても無理な話だ。でも、西方のおじさんと智世さんに限っては違う、と言いたかった。2人ともとても素敵な人なのだ。

 思いのほか、歩くのに時間がかかっていた。2人の小さな子を連れていたからわかっていたつもりではいたけれど、ルリとマリには目に映るすべてが興味深く見えるようで、花や蝶々を見つけるたびに足を止めたり草むらに入り込みそうになったりして、なかなか前へ進めなかった。その相手をするのは嫌ではなかったけれど、身体はまだ元気でも精神的に疲れてきているのが自分でもわかった。サラがいてくれればな、となんとなく思った。同い年の女の子がいっしょにいてくれたら多少気が楽だったかもしれない。サラの家、須崎すざきさんたちも以前は毎年夏になるとわたしたちといっしょにこのリゾートに泊まりに来ていたのだが、3年前からは何故か来なくなってしまっていた。詳しい理由は知らなかったけれど、それ以外ではサラの家と変わらずに仲良く付き合っていて、誰かとケンカをしたわけでもなさそうなので、別に大したことでもないのだろう。山より海のほうに行きたいとかそんなことなのかもしれないし、わたしもどちらかと言えば夏は海に行きたかった。

「あー、うみー」

 ルリが甲高い声で叫んでいた。小さな指の先には湖が広がっている。風もなく波の立たない水面は青いガラスのようにきらきら輝いていて、今ここで拳を振り下ろせば叩き割れるかも、と思ってしまうのは遠近法のせいだ。ここまで来れば後はなだらかな坂を下っていけばいい。そう一安心していると、とたたたた、と音を立てて走り出したルリの後をマリも追いかけだしていた。わーいわーい、と2人で声をあげている。

「ちょっと。危ないから止まりなさい」

 智世さんがあわてているので、わたしも小さな追いかけっこを微笑ましく思っている場合ではなかった。すぐに追いつくと2人の手を取って「お母さんの言うことを聞こうね」と言い含めた。はーい、と元気よく返事をされたけれど、たぶん意味はわかっていないと思う。でも可愛いから許してしまう。2人に嫌がられることなく手をつないだまま湖のほとりまで行けたので、このうえなく幸せな気分になれた。今ならわたしがこの世でもっとも憎悪するホビロンもなんとか食べられるかもしれない。

 いや、やっぱり無理だ。

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