第6話 Girl's Side(6)
「ずいぶん時間がかかったな」
パパは見るからに心配そうにしていた。部活が長引いて帰るのが少し遅れるとスマホがパパからの不在着信の通知であふれかえるのをどうにかしてもらいたかったけれど、思っていたよりも着くのが遅れたのは確かで、わたしたちが着いたころにはバーベキューが既に始まっていた。みんな待ちきれなかったみたいだ。
「はい。どうぞ。めしあがれ」
紙の皿とわりばしを持って、さてどうしようか、と思う間もなく、リョウマくんのお母さんにソーセージとステーキを渡された。皿の上にずっしりとした重さを感じるのと同時に何も食べていないのに満腹感が押し寄せてきて、この昼食を乗り切れる気がとてもしなくなってしまった。冷たいミルクのかかったコーンフレークなら食べられたかもしれないけれど、もちろんそんなものは魔法でも使わない限りここにはない。いただきます、となんとか笑顔を取り繕いながら、ソーセージをちまちま食べるくらいしかできることはなかった。ふと横を見るとリョウマくんががつがつと音を立てて肉にかぶりついている。ひとつ食べ切るとさらにもうひとつにとりかかって、ノンストップで食べ続けているのを見ると、これだけ食欲があれば背も伸びるのも当然だ、と納得するしかなかった。実にいまいましい、と思っていると、わたしが気にしているのを向こうも感じたらしく話しかけてきた。
「このへん、Wi-Fiがないからネットしづらくってさ。月末になるといつも通信制限がかかるから嫌なんだよなあ」
こいつ、本当にどうでもいい話しかしないな。あまりにも頭に来すぎると怒るより無関心になってしまうようで、「気をつけなよ」とあたりさわりのない相槌を打つことができた。「うん。気をつけるよ」とにこにこしている彼を見ていると、荷馬車に乗せられてどこかへと連れ去られる子牛を思い浮かべてしまった。こんなにばかでちゃんと大人になれるのだろうか。
「ヒカルちゃんはアイドルにならないの?」
リョウマくんのお父さんがいきなり変なことを聞いてきた。なに? どうでもいい話しかしないのって、もしかして遺伝?
「はい?」
「いや、家でテレビで歌番組とか観ていて、アイドルのグループが出てくると、“これならヒカルちゃんのほうがずっとかわいいよな”ってリョウマといつも話をしているんだよ」
この人たちは一体なにを話してるのか。よくも勝手なことを。頭に来てリョウマくんをにらんでやろうとしたら、さすがに気まずかったらしく知らん顔をして反対側の森のほうを向いて肉をばくばく食べ続けていた。湖を見ろよ、湖を。
「いえ、わたしなんかじゃとても無理です」
「そうかなあ? ぼくも向いていると思うけどなあ」
西方のおじさんまで乗ってきた。銀色のフレームの奥の眼は優しく細められていて、決してからかってはいないとわかる。でも、今の状況では本気の言葉よりも冗談のほうがずっとありがたかった。恥ずかしくて何かの樹脂のかたまりに押し込められたみたいに動けなくなってしまう。
「みんなやめてよ。うちの娘には向いてないんだから」
鉄板の上の野菜の焼き加減を確かめながらママが軽い調子でそう言ったのに、なぜか結構ショックを受けてしまった。わたし自身が向いていないと思っていても、他の誰かから、それも親から同じように言われるのとでは意味が違っているような気がした。
「そうそう。ヒカルにはパパだけのアイドルでいてくれなけりゃ困る」
もしかして、うちのパパってばかなのかも、と時々思ってしまう。でも、世の中にはたぶん、いいばかと悪いばかがいて、パパはいいほうのばかで、わたしはそんなパパが嫌いではなかった。いくらいいほうでもばかはばかだろう、と言われれば、そうだね、その通りだね、と認めるしかないけれど、別に悪く言いたいわけでもなかった。
頼みもしないのに人の進路を勝手にあれこれ言っている人たちに疲れて、少し離れたところにある黄色いベンチまで歩いて腰を下ろした。背もたれにスポーツ飲料のロゴが書かれているので、近くに自動販売機があるかも、と思って見まわしてみたものの、あたりに人の手が入ったものはなにもなく、湖の青と森の緑だけがただただ目に飛び込んでくるだけだった。これでは宣伝した意味がない。
わたしが自分をアイドルに向いていない、と思うのは単純にメンタルが理由だった。あの世界でやっていくとすれば、人一倍のやる気が要求されるはずなのだけれど、それがわたしにはまったくなかった。行列に並んでいるときに割り込まれても文句も言えないし、そもそも並ぶのが大嫌いで、せっかく出かけてもお目当ての店の前に列ができているとすぐにあきらめて帰ってしまうような人間なのだ。向いているわけがない。外見のほうはどうなのか、自分では判断できない。いや、テレビでアイドルの女の子を見て、「勝った」と思ったことがないと言えばそれは嘘になってしまう。
「ちゃんと食べてる?」
知らないうちにリョウマくんのお母さんが後ろに来ていた。赤いサンバイザーをかぶって薄い黄色のサングラスをつけても、華やかな顔立ちがよくわかる。どうもリョウマくんはお母さん似らしい。
「あ、はい。大丈夫です」
「飲み物もほしいんじゃないの?」
紙コップを手渡された。かすかに泡立った透明な液体が入っていて、サイダーかな、と思いながら飲んでみるとやっぱりサイダーだった。冷たいものが急に入ってきて身体がびっくりしたらしく、うぐ、と呻きそうになってしまう。わたし一人なら呻いても別に構わないのだけれど、リョウマくんのお母さんがまだ側にいるので外面を取り繕わなければならない。なんだろう、まだ何か用があるのだろうか。若干気まずくなりかけていると、
「わたしもそう思うのよね」
いきなり話しかけてきた。でも、そう言われても何をどう思っているのかさっぱりわからないので何も言えずにいると、
「ヒカルちゃん、あなたアイドルになれると思うのよ」
ええっ、まだその話をするんですか? そう言いたかったけれど、もちろんそんなことはできないし、向こうはわたしに構わずに話を続けてしまっていた。
「だって、あなた、小さいときにバレエとピアノを習ってたでしょ? 向いてると思うのよね」
習い事をしていたのは小学校低学年の頃までで、おばさんにたった今言われるまで忘れていたくらい、わたしの中ではどうでもいい昔の話だった。
「いえ、とっくにやめちゃってますから」
「残念ねえ。やめなければよかったのにねえ」
声は優しいけれど、どこかにトゲがあって、わたしの心を刺そうとしているように感じてしまうのは気にしすぎだろうか。バレエとピアノをやめたのは、ママが稽古の準備や送り迎えをするのが億劫になって、いつの間にか自然にやめてしまっただけで、別にわたしが嫌がったり怠けたからやめたわけではない。元々ママがひとり娘の才能―そんなものがあると自分では思えないけれど―を伸ばそうと習い事をいくつかやらせてみたので、わたしがやりたいと言ったわけではないから、やめたところで誰からも文句を言われる筋合いはないはずなのだけれど、理由はどうあれ一度始めたことをやめてしまうのは非難に値するようで、現にわたしはおばさんの言葉に罪悪感を覚えてしまっている。
「そうですね。続けておけばよかったかも」
「今からでも遅くないと思うわよ。とにかく何かに一生懸命にならなきゃ。あなたみたいに引っ込み思案じゃ損するだけよ」
悪く言われているわけではないけれど、この言葉もちくちくしている。いつもそうだ。乙訓のおばさんと話しているとどうしても気持ちが暗くなってしまう。はっきりとひどいことを言われるわけではないけれど、どうしても素直に受け取れない嫌な暗いものが言葉の裏に潜んでいて、それが心を冷たくさせるのだ。おばさんはみんなに優しい人なのにそんな風に思ってしまうのはわたし自身によくないところがあるからだ、と思っていたしずっとそう思い込もうとしていたけれど、そうではなくて、おばさんはわたしを嫌っているのだ、と気づいたのは、去年の夏休みにやはりこのリゾートに一緒に泊まったときのことだ。といっても、別に決定的な瞬間があったわけではなくて、いつの間にか「あ、嫌われてる」と悟っていた、というのが一番正確な言い方だと思う。もしも学校の同級生に同じ態度を取られていたらすぐに気づけていたはずだけれど、それまでわたしの中にあった「大人が子供を嫌ったりするはずがない」という思い込みが事実を見えなくさせていたような気がする。でも、実に大人げないことに、大人も子供を平気で嫌ったりするのだ。おばさんになぜ嫌われているのかはわからなかった。かといって、好かれたいとも思わなかった。好かれようとすれば余計に嫌われるような気がしたし、逆に距離を置こうとしてもやっぱり余計に嫌われる気がしたので、結局どうすることもできないみたいだった。
後ろが騒がしくなったので、少しだけ振り返ってみると、男の人たちが缶ビールを片手に笑い声をあげていた。お酒なんて何が楽しくて飲むのだろう。この前も朝起きたらテーブルに置かれていたワインをジュースと間違えて飲んでしまって、その日はずっと気持ちが悪いまま過ごす羽目になってしまった。グラスにグレープジュースが入っているわけがないのに、うっかりしていたわたしが悪かったのだけれど。
「リョウマはどうしてる?」
いつの間にかおばさんが横に座っていた。スキニージーンズに収まった長い脚をきれいに組んでいるのが羨ましい。そう言われてもう一度見てみると、リョウマくんは鉄板から焦げかけた肉を自分の皿の上に盛っているところだった。あれなら一人で抛っておいても大丈夫そうだ。
「元気そうですよ」
「いや、元気は元気なんだけど」
わたしの答え方がおかしかったのか、笑い声をあげたあと、湖を見詰めながらふっと呟いた。
「あなた、最近うちに来ないわね」
「え? そうですか?」
「ずいぶんご無沙汰よ。サラちゃんはたまに来るけど」
何故か責められている感じになっているが、特にリョウマくんの家に用事があるわけではなかったし、横浜まで気軽に行けはしない。
「ああ、そうなのかな。何かタイミングが合わなくて」
「うちのお父さんもリョウマもあなたのファンだから、“ヒカルちゃんどうしてるかな”ってよく言うのよ。だから、たまには来てあげて。それとも、リョウマに何かされた?」
この前上野の美術館でしかとされて、などと正直に言えはしないし、ゆうべリョウマくんに謝られた時点でその件はもう終わっている。家に行かない理由があるとすれば、むしろ今目の前にいる人の方がわたしには大きかった。というか、ファンってなんなんだ。
「いえいえ。そんなことは。リョウマくんとはいつも仲良くさせてもらってます」
「そう? ならいいんだけど」
あ、とそのとき不意に閃くものがあった。もしかして、おばさんはリョウマくんがわたしに好意を持っているのをよく思ってはいないのではないか。お母さんが息子の好きな女の子を嫌うというのはよくある話らしいし、嫁姑問題があるというのも、ママがよく見ているテレビ番組のおかげで知っていた。うちのおばあちゃん、パパのママはパパとママが結婚する前に亡くなっているので、ママはそういった苦労はしていないはずなのにそんな話をわざわざ見たがるのが不思議だったし、わたしとしてはおばあちゃんに一度でいいから会いたかった気がする。それはさておき、もしもおばさんがそんな風に思っているのだとしたら、それは大変な誤解だ。リョウマくんはともかく、こっちは向こうにまるで好意を持っていない。わたしとリョウマくんがどうにかなるなんて、この青い空が落ちてくるのと同じくらいありえない話だとわかってほしかった。どうにかして説明しなければ。
「ファンになられるのは、ちょっとどうかと思うんですよね」
「え? いったい何のこと?」
ウーロン茶のペットボトルから口を放しておばさんが興味深そうにこっちを見る。
「あのですね、リョウマくんといい友達ではあるんですけど、はっきり言ってわたしとしては好みのタイプじゃないので、あまり期待されても困るというか」
突然後ろのほうで気配がした。横目で見てみるとリョウマくんが立っていた。
「お母さん。はい」
そう言って、白い桃の入ったタッパーをおばさんに手渡してさっさと戻って行ってしまった。まずいなあ、絶対聞かれたよ。でも、いつかは伝えなければいけないことだったのかもしれない。
「そうねえ」
おばさんは桃をつまようじで刺しながら静かに言った。
「確かにうちのリョウマはあなたにはもったいないのかもねえ」
サングラスをかけてるせいもあって、視線がますます冷たい。考えてみればあたりまえだった。息子を悪く言われたのと同じことだ。お母さんがよく思うはずがない。良かれと思って最悪の行動をとってしまった。
「いや、もったいないとかそういうことではなくてですね」
「はい、どうぞ」
話している途中なのにタッパーを差し出された。やっぱり怒っているのだろうか。仕方なくなんとか冷静さを装おうとして桃を食べてはみたけれど、冷たいと分かるだけでさっぱり味はしなかった。おばさんが黙って前のほうを見ているだけなので、わたしとしても何もしようがなく、やっぱり黙って座ったまま湖を見るしかなかった。これからまだあと2日あるのにどうしたらいいんだろう、と思うわたしの目にも昼下がりの光のもとで青くきらめく湖はとても美しく見えた。
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