第3話 Girl's Side(3)
5月の終わりに、わたしたちは校外学習で上野の美術館に来ていた。ヨーロッパの絵画の歴史をたどる展覧会を見て、芸術のセンスを磨きなさい、と前日に先生から言われていたけれど、そう言われても、自分にその手のセンスがないことはよくわかっていた。一番好きな画家がモネだと言って、「ベタだねえ」とナギに笑われたけれど、あまり腹も立たなかったのも、そう思っていたからなのだろう。わたしを笑ったナギはピカソやダリが好きだったけれど、あれを好きになるくらいならベタで結構だとつくづく思う。
「ほら、“睡蓮”だよ」
印象派のコーナーにさしかかったところで、ガッキーが指をさして教えてくれた。青い水面に赤みがかった蓮の葉っぱが何枚も浮いている。「すごい色だね」とつぶやくガッキーに、悪いな、と思ったのは、実はわたしは『睡蓮』があまり好きでなかったからだ。一連のシリーズを見るたびにぬめぬめした感触をおぼえて背中がぞわぞわするのだ。好きな画家の代表作が苦手、というのもおかしな気がするので誰にも話せないでいる。わたしがモネで一番好きなのは、白い教会が太陽の光の中でかすんで見える絵だ。見るたびになぜか、こんな光景をどこかで見た、となつかしい思いにさせられる。まだ14年しか生きていなくて、フランスにも行ったことがないのに、どうしてそう思うのかはよくわからない。
印象派のコーナーが終わって、「あとはもういいや」と20世紀の画家の皆さんが怒りそうなことを考えながら順路の先を見ると、あれ、と妙な気持ちになった。わたしたちのクラスがひとかたまりになったすぐ先に、わたしと同年代の男の子たちが20名ほど固まっていた。やはり校外学習なのだろう。みんな深緑のブレザーを着ていて、いかにも重たげに見える。もう暑くなっているし、来週の衣替えまできついだろうな、となんとなく同情してしまったけれど、それ以上に気になったのは、その制服に見覚えがあったからだ。どこで見たのか、と記憶を探ろうとした瞬間に、集団の最後尾近くに見知った顔を見つけた。睫毛の長い白い横顔。リョウマくんだ。そうか、去年の春に銀座のレストランで入学祝いをしてもらったときにわたしもリョウマくんも制服で来ていたから、それで覚えていたのか。
「リョウマくん」
思わず呼んでしまっていた。美術館の中だからもちろん小声でだ。でも、そのせいで声が届かなかったらしくて、リョウマくんは反応しない。
「リョウマくん」
少し焦れてしまって、声のボリュームがあがった。それでも彼は気づかない。瞬間的にかっとなってしまう。
「リョウマくん」
結構な大声が出てしまった。わたしのクラスメートの何人かに振り返って見られた。そして、リョウマくんと一緒にいた男の子たちも気づいてわたしの顔を見てにやにや嫌な笑いを浮かべている。だから、声はちゃんと届いていたはずなのに、リョウマくんはわたしのほうをまったく見ないまま、次の部屋へと消えていってしまった。うそ、無視された。こんなことは今までなかったのに。ショックを受けながら視線を元の方向に戻すと、壁際で背筋を伸ばして立っていた係員のお姉さんが、口元に右の人差し指をそっと当てて微笑みながらわたしを見ていた。うるさくしてごめんなさい、と謝りたかったけれど、足元がフラフラしてしまって上手く口に出せそうにない。おまけにちょっとだけ泣きたくなってきた。ばかみたいだ、ばかみたいだ、とそれしか考えられなかった。
そして今、5月にわたしを泣かせかけた男の子が真向かいに座って、逆に泣きそうな顔をしていた。今わたしは両隣をパパとママに挟まれていたから、謝ることもできないのだろう。いい気味だ、と思ったけれど、それで彼に泣かされそうになった事実がなくなるわけではないし、彼のせいで傷ついたことを認めるのも嫌だった。わたしにとって彼がそんなに大きな存在であるはずがないのだから。
すっかり日が暮れて、今は3組の家族がコテージの1階で食卓を囲んでいた。1日目の晩ごはんはいつもそれぞれの家で作ってきた料理を持ち寄ってみんなで食べることになっていた。うちのママが作ったスペアリブをかじってから、リョウマくんのお母さんが作ってくれたちらし寿司を箸でかきこむ。息子はあんなだけれど、お母さんはとても料理が上手だった。こっそり彼の方をうかがうと、
だいたい「竜馬」という名前からして似合っていない。うちのパパもそうだけれど、男の人はどうしてああいう歴史上の人物とかが好きなのだろう。「日本の夜明けは近いぜよ!」などと毎朝海に向かって叫ぶような人の名前を付けられて少し気の毒だと思う。もっとふにゃっとした名前がよかったような気がする。フミマロとかリチャードとか。でも、部活動が軟式テニス、というのは合っていると思った。性格が軟式なあいつにはちょうどいいのではないか。
「ほら、もっと食べなさい。あなた、ちびっこいんだから」
勝手なことを考えていたら、リョウマくんのお母さんにちらし寿司のおかわりを渡されて、びくっとしてしまった。華やかな顔つきと真っ赤なポロシャツがよく似合っている。この人の子供なら、もうちょっとハキハキしていてもよかったんじゃないかな、とまた勝手なことを考える。
「そうだな。ヒカルはもうちょっと大きくならないとな」
パパに言われるまでもなく、それは当のわたしが一番気にしていた。牛乳も毎日飲んでいるし、バスケ部にも入ったのに、一向に効果が表れないどころか、たまにお腹を壊してしまうし、部活の方も補欠にすらなれず試合に出たことが一度もない。先輩には可愛がられていて、居心地はそんなに悪くなかったから、入ったのを後悔したことはなかったけれど。
「ヒカルちゃん」
「あー、ヒカルちゃんだ」
ルリとマリがわたしの座っている椅子のすぐ後ろまで来ていた。お揃いのワンピースを着ていて、本当は年子だけれど双子のように見える。くりくりとカールした髪型もそっくりだ。ああ、それにしても2人とも本当にかわいい。この子たちを見るといつも熱い鉄板の上に落とされたバターのようになってしまう。「わたしもあんな子を産みたい」といつかママに言ったら、「子供が子供を産むの?」と笑われてしまった。別に今すぐ産みたいと言ったわけじゃないのに。こんな風にママとはたまに話が通じなくなる。
「ごはんちゃんと食べてるー?」
「食べてるー?」
ルリはきれいな顔をしていたけれど、マリはカルボナーラのソースで口元がベタベタになっていた。なぜかせつない気持ちが胸からこぼれそうになるのを感じながら、うん、食べてるよ、と答えていると、智世さんが駆け寄ってきた。
「ごめんなさい。この子たち、迷惑じゃなかった?」
もちろん迷惑なんかしていなかったし、2人ともう少し話したかったけれど、智世さんが申し訳なさそうにしているので、何も言えない。手を引かれて去っていく2人に小さく手を振ると、ルリが空いている手で振り返してくれたので踊り出したくなるほど嬉しくなってしまった。なんなんだ、あのかわいすぎる生き物は。
奥のほうで大きな笑い声がしたので何かと思ったら、
「大丈夫?」
ママに肩に手を置かれるまでまたぼうっとしてしまっていたようだった。顔を上げると部屋にはわたしとママのほかは誰もいなくなっていた。
「うん、大丈夫」
そうは言ったものの、自分でもあまり自信はない。
「みんな外で待っているから、早く来なさい」
ママはわたしの返事を聞かずに外へと出て行ってしまった。コテージの外は明かりもなくて真っ暗で、正直あまり出たくはない。何をするのか知らないけれど、みんな初日の夜からなにをはしゃいじゃっているのか、と少し嫌気がさした。でも、旅行に行けば思い切りはしゃぐのが正しいやりかたかもしれなくて、たぶんわたしのほうが間違っているのだろう。きっとそうだ。そう思おうとしながら席を立つと、ルリとマリが遊んでいたらしい青い風船がテーブルの向こうでふわふわと浮かんでから下へと沈むと、もう一度浮かび上がってそれからまた沈んでいき、今度は浮かぶこともなくそのまま見えなくなってしまった。エアコンも動いていない閉めきった部屋でなぜそんな風に動くのか不思議に思ったけれど、誰かがわたしの気を紛らわせようとしてくれたのかな、と特に理由もなく感じた。
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