第2話 Girl's Side(2)

 いつの間にか眠ってしまったようだ。自動車くるまは滑るように走り続け、窓の外が暗くなっていた。森の中にさしかかっているらしく、ここまで来たら目的地までそう時間はかからないはずだった。そう思うと、トイレの不安もなくなったので、目の前のボトルを手に取ってミネラルウォーターをぐびぐび飲んでしまう。

「うちのお姫さまがお目覚めのようだ」

 わたしが何も言わないのに、わたしが見えないはずなのに、パパはすぐに気づいたみたいで、何故か恥ずかしくなる。家で言う分には構わないけれど、外に出かけたときでもパパはわたしを「お姫さま」とたまに呼ぶので、それはやめてほしかった。大切に思ってくれているのはわかるけれど、わたしがわがままをしているみたいに思われてしまいそうだ。これでもそれなりに周りに気を使って生きているつもりなのに。

 道端に黄色い菱形の標識が立っていて、ムササビのイラストが大きく描かれていた。もちろん東京にはない標識で、ここでしか見られないものだから、毎年これを見ると「夏休みだなあ」という気分になる。「ムササビ注意」という意味らしいけれど、ムササビが飛んできたくらいで慌てて事故るのはよほどうっかりした運転手なんじゃないか、注意を呼び掛ける意味はあるのか、と毎年疑問に感じている。それよりもなによりも、注意するよりもムササビを見たくなってしまうので、標識を立てるとむしろ逆効果なんじゃないか、という気もしている。いつも見たい見たいと思っているのにわたしの前にムササビが飛んできてくれたことは一度もなかった。そういえば今年のお正月に沖縄まで行ったときに家族3人で海沿いの国道をドライブしていたら、やっぱり黄色い菱形の標識にカニのイラストが描かれているのを見つけて、「別パターンがあったんだ!」と結構感動してしまったのを思い出した。でも、「カニ注意」って「ムササビ注意」よりも意味不明だ。カニがどう運転の邪魔をするというのか。沖縄だから5メートルくらいのやつがいて、自動車くるまをハサミで挟んで海にポイッと捨ててもおかしくないかも、と冬休み明けに学校で話したら、「そんなのいるわけない」とガッキーに真面目に否定されて、こっちは冗談のつもりだったので困ってしまった。エノとナギには受けたからよかったけれど。

「ねえ。ムササビとモモンガってどう違うの?」

 ママも標識を見たらしくて、パパに質問していた。ママは毎年この質問をするので、これを聞くとやっぱり「夏休みだなあ」という気分になる。去年か一昨年おととし、「その質問毎回してない?」と聞いたら、「してないわよ」と怒られたので、もう余計なことは言わないつもりだった。

「どっちも同じ生き物なんだけど、地方によって呼び方が違うんだよ」

 パパの答えもいつもと同じだった。毎回同じ質問をされて同じ答えをしているのにパパも気づいているはずだけれど、わたしみたいに突っ込んだり怒ったりしないので、えらいなあ、と心から思う。当たり前だけれど、わたしよりずっと大人だ。ママが同じ話を何度もしたり大事なことを忘れたりするのは珍しくないので、将来確実にボケてしまう、となんとか覚悟しようとしているけれど、子供一人だけで面倒を見られるのかどうか、考えると不安になってしまう。老人ホームはママには合わなさそうだし。でも、最近は高級ホテルみたいなところもあるらしいから、そこならママも気に入るかもしれない。そういうところはお金がかかるに決まっているけれど、わたしが自分ですごく稼ぐか、すごく稼ぐ人と結婚すればきっと大丈夫だろう。でも、すごく稼ぐ方法も、「すごく稼ぐ人」がどんな人かも今のわたしにはさっぱりわかりはしなかった。

 右に曲がると、毎年泊まっているリゾートの入り口が見えてきた。不確かな将来を思い悩むより、とりあえず今はコテージに着いてどうするのかを考えた方がよさそうだった。おじさんおばさんたちに挨拶しなければいけないし、それにトイレに少し行きたくなっていた。我慢できないほどではなかったけれど、わたしはいつも早めにトイレを済ませるようにしているので、精神的には結構きつい状況だった。ゲートをくぐって、ゆるやかな坂道をゆっくりと上っていく間、わたしは平気な顔をしながら焦らないように心の中だけで必死になっていた。

「うちが最後だな」

 駐車場に入りながらパパはそう言って、バックに切り替えて白線の中に自動車くるまを駐めようとしていた。フロントガラスの向こうには、確かに見覚えのある車が2台既に駐まっている。別に遅刻のペナルティがあるわけではないけれど、なんとなく気まずい。でも、それはどうでもよくて、パパがエンジンを止めたらすぐに降りてから、わたしの部屋がある二階建てのコテージまで急いで行って、トイレにたどりつかなければならなかった。ゲートから駐車場まで遠かったけれど、駐車場からコテージまでも結構遠いのだ。もしもこのリゾートが人間だったら、さんざんもったいぶった後でつまらないダジャレを言うような嫌なやつなんじゃないか、となんとなく思った。

 3日分の着替えだけを入れたデイバッグを背負って駆け出す。気をつけなさい、と後ろでママの声がした。コンクリートの階段はとても固そうで転んだら血が噴き出すのは間違いなくて、ママが心配するのも無理はなかったけれど、だからといってぼんやりもしていられない。長い踊り場の真ん中でふと見上げるとコテージを守るように大きな樹が枝をいっぱいに伸ばしていた。濃い緑の葉っぱはとても苦そうに見えて、あれでは毛虫も寄りつかないような気がする。虫がダメなわたしとしてはありがたいことだけれど。階段を上りきるころには、ふうふうと息をしていた。部活もまじめにやっているのに、いつまでたっても体力がつかなくて嫌になる。

 やっとコテージにたどりついた。クリーム色の壁と樫の木でできた分厚いドア。鍵は掛かっていない。中に入るとすぐそこにリョウマくんが立っていて、えっ、と驚いて声を上げてしまった。あっちも驚いたようで両手でいじっていたスマホから顔を上げてわたしの方を見ていたけれど、やがてその顔が嬉しそうに変化していく。なんだか面倒くさくなる。

「ヒカルちゃん。久しぶり」

 声からも嬉しさが伝わってきたけれど、それにはとりあわずに、左横に伸びた廊下をずんずん進んで突き当たりのトイレに駆け込んだ。間に合って良かった。ほっとしながらも最後まで油断しないように気をつける。用を足しながら、いきなりリョウマくんと会ってしまったので、少しずつ気が重くなるのを感じていた。そうだった、あいつも来るんだった。今の今までそれを忘れていた自分に苛立ってしまう。

 トイレから出ると、リョウマくんがこちらを見ていた。待つなよ、とイラッとした後に、さっきの立ち位置より2、3歩トイレ寄りに近づいていたのに気づいて、とうとう本格的に頭に来てしまった。彼に悪気がないのはわかるし、ちょっとしたことで腹を立ててしまうのは悪い癖だというのもわかっているけれど、怒っている最中にはどうしようもない。火のついた紙きれと同じで、自分自身を焼き尽くすまでは止められない。リョウマくんを無視して、横をすりぬけていく。

「トイレ? 大丈夫?」

 うるさいなあ。女の子にそんなこと聞くな。さっさと背中の荷物を下ろしてくることにした。2階にはわたしたちの部屋があった。階段を上がってすぐ手前がわたしで、奥がリョウマくん。大人たちは別のコテージに泊まっていて、このコテージの1階の大広間はみんなで集まって食事や話ができる空間ということになっていた。

「ヒカルちゃん、ねえ、大丈夫?」

 まだ騒いでいるので、折り返しで立ち止まって下のほうを振り返った。不安げな表情。白いポロシャツと長いジーンズ。清潔感がある格好をしているのはよかったけれど、さっきすれ違ったときに彼だけがまた背が伸びたように感じられたので、ますます腹が立ってきた。

「ねえ、ぼく、何か悪いことした?」

「した」

 自分でも驚くくらい感情のない声が出た。リョウマくんは、え、え、え、と明らかに困っている。それはそうだろう。出会ってまだ3分くらいしか経っていないのだ。いやだってぼくは、とかなんとか、色白の細い男の子がわたしの3メートル下で何かもごもご言っている。一応理由を教えておこうか。

「この前上野で会ったよね」

 えあ、とリョウマくんが声を上げた。どうやら気づいたようだけれど、「え」か「あ」、どちらかに統一できないのか、とさらにイライラしてきた。もはやすべてが腹立たしい。

「あ、でも、あのときは」

「わたし、忘れてないから」

 もう十分だ。再び階段を上り始める。下から、ごめん、とかわたしの名前を呼ぶ情けない声がまだ聞こえてくるけれど、ほうっておく。許すつもりはなかった。でも、リョウマくんは優しいいい子だから、わたしがいいと言うまで謝り続けるはずだった。逆ギレなんか出来はしない。3泊4日の間、ずっと謝られるのも嫌だから、きっとどこかで許してしまうのだろう、と自分でもわかっていた。わたしは誰かを怒ったり憎んだりするのが下手だった。そんなの上手くなりたいとも思わないけれど。ただ、やっぱり今すぐ許すつもりはなかったし、できるだけ長く怒っていよう、と決めながら、自分の部屋に入った。

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