啼いた獣の夜は明け

 大正たいしょう浪漫ロマンかつ探偵小説じみた夢を見た。


 神社の町。

 そう呼ばれるほど神社の多い地域がある。

 そこでは決められた区劃くかくごとにいくつもの神社が設置され、その十数社を小高い丘の上の大神社が統括しているらしかった。

 朝火あさか朝切あさぎり朝走あさばしり等々、神社の名にはすべて朝という字がついており、様々な祭祀を回り持ちで取り仕切ったり、その社固有の儀式を執り行ったりもするようだ。

 そして今回、わたしたちを呼び寄せたのは朝切あさぎり神社の娘であった。


 わたしたち――教授センセイと呼ばれる探偵の男と、その助手のわたし。


 ぼさぼさの黒髪、鷲鼻の上にちょこんと乗っかっているだけの小さな丸眼鏡、ヨレヨレの背広に、何故だか肩には黒無地の羽織をかけ、足許は下駄。そんな、統一感を母親のはらのなかにでも置いてきたかのような出で立ちの、ひょろひょろとした男がわたしの教授センセイである。

 しかしそんな見てくれでもそこそこに頭が切れ、そこそこに腕が立ち、そこそこに有名な探偵である教授センセイは、今度も事件を解決して欲しいとの依頼を受けて、この神社の町にやって来たのだった。


「生贄の儀式が失敗した?」

「そうです」


 社務所の一角にある応接間のような部屋で、出された玉露をずずずっと啜りながら、わたしと教授センセイは目をぱちくりさせる。


「三年に一度、わたくしどもは生贄の儀式を執り行います。この朝切あさぎりの鎮守の森には、太古からユルシさまと呼ばれる神獣が棲んでおられます。その昔、朝切の森で邪気をばらまき、狩りに出ていた男たちを皆殺しにしていた飢えた荒神を鎮めるために、先祖の巫女のひとりが自らの命を荒神に捧げ、飢えを満たす代わりにこの森を守るように契りを結びました。力の宿った清い巫女の血肉を喰らった荒神はその献身と慈愛に涙を流し、その涙を見た巫女は荒神にユルシを与えられた。以降、荒神はこの朝切を守り栄えさせる神獣ユルシさまになられたのです。しかし、もともと飢えによって荒神と化していた力の強い神獣ですから、何年かに一度はユルシさまの腹を満たしてやらねばなりません。ユルシさまは力を持った処女おとめの血肉をたいそう好んでおられまして、わたくしどもは三年ごとに親族のなかから巫女をひとり選別し、宝物殿の裏にある牢に幽閉とじこめておくのです。そうすると翌朝には巫女の姿は消え、それからこの社は栄えるようになる。わたくしどもは長年そうして己の血族を捧げる代わりに、ユルシさまに繁栄をもたらしていただいているのです。それが……」

「ああ、はあ、なんとも、我々には縁のないお話ですねえ。とてもじゃないけれど、今のところ僕のような探偵が出る幕ではなさそうなんですが」

「まあまあセンセイ、詳しく聞いてみましょうよ。生贄の儀式とやらのいわれは分かりましたが、まだその、事件の経緯などはなんにも聞いていないのですから。それで、百合さま、事件の詳細をお聞きしても?」


 一人が死に、一人が行方知れずになった、その原因を探ってほしい――と、おおまかにはそんな内容の依頼だったはずだが、長々とした儀式の昔話で早くも教授センセイが飽きてきてしまっていた。足がしびれるからと胡坐あぐらをかいて、あつかましくも玉露のおかわりを要求している。朝切神社の宮司の一人娘である百合さまは、教授センセイのそんな姿に苦笑いをしながらも玉露を注ぎ、ひとつ溜息をこぼしてから一枚の写真を差し出してきた。


「こちらが、今回の事件の写真です。父には内緒でこっそり回収してまいりました」


 二人で写真を覗き込む。

 牢の中にしては快適そうな真っ白な布団の――いや、真っ白であっただろう布団の上で、一人の男が死んでいる。


「これまた惨たらしい」

「うわ……こんなにズタボロとは。布団もところどころ引き裂かれているし、血まみれだし、遺体もまるで獣に喰い荒らされたみたいな状態ですね……」

「ええ。検死でも『大型の獣に噛まれたことによる失血死』という結果が出ています」

「そりゃご愁傷さまで。ところで、僕はてっきり死んだのは生贄になった巫女さんだとばかり思っていました。死んだのが男ってことは、行方不明になったほうが今回生贄になった巫女さんってことでよろしいんで?」

「……ええ、そうです」


 あ、そうか。本来ならここで神獣に喰われて死に、姿を消すことになるのは巫女さんのほうだ。それがどういうわけか、神獣に喰い荒らされたのは写真の男で巫女さんではない。しかし、生贄になった巫女さんは姿を消してしまっている。


「仏様を発見したのは出仕しゅっしの方でした。一昨日いっさくじつ、儀式の片付けをするために牢へ行くとすでにこの有り様で……すぐに父がほうぼうへ連絡をし、仏様を引き取っていただいたり、生贄となった巫女の捜索をしましたが……結局なぜ、どうやってこの男が牢で死に、巫女がどこへ消えてしまったのか、何も分からずじまいだったのです」

「男の身元は?」

「隣町の、名のある商家の三男坊です。家を継ぐ立場でないのであちこちで好き勝手していた放蕩者らしく、よい噂はないのですが。ただ、ひどく甘やかされていたようで、その家の旦那さまがたいそうお怒りで。せがれの死んだ責任を取れ、犯人を捜し出せと喚いて、しまいには行方知れずの巫女がせがれをたぶらかし、儀式から助けてもらおうとしたせいでこんなことが起こったんじゃないのか、と」

「ははあ、なるほど。そこの主人は巫女が生贄から逃げるために息子を利用した結果、神獣の怒りを買った息子が食い殺されたとお考えなんですね。それで儀式も失敗、と。しかし、あなたはそうは思っていない」

「はい。生贄になった巫女、わたくしの又従姉妹の卯花うかというのですが、彼女は純潔や無垢という言葉を体現したような子でした。動物と心を通わす神通力を持ち、鳥や小動物とたわむれるのが好きな、清廉な乙女なのです。朝切の森にもよく来ていて、森の獣はみんな彼女に懐いていました。とても男をたぶらかし、儀式を放棄するような人間とは思われません。そりゃあたった十八の少女なのですから、死を恐れてはおりました。しかし儀式の前日、最後だからとわたくしと共に寝床に就いたときには『お姉さま、わたくし死ぬのは怖いけれど、これがわたくしのお役目ならばきっと立派にやり遂げてみせます』と言っていたのです! あの子は、卯花は、決して他人を犠牲にし、逃げるような真似はいたしません!」


 ぎゅ、と、真っ白になるほど手を握り締めた百合さまがそう力説する。よほどその卯花という巫女を信じているのだろう。


「うん……では、現場についてお訊ねしますが、儀式の際、牢はどういう状態になっていましたか? 外から鍵が掛けられているとか、見張りがいるとか」

「儀式のときは、巫女が逃げられないように牢には外から鍵を掛けます。見張りはいません。巫女以外の人間が神獣であるユルシさまを見てはいけませんし、腹をすかせたユルシさまに食べられてしまうなどという万が一が起こってはなりませんから。鍵は父が管理し、儀式が終わって片付けに向かうまでは誰も牢には入れないようになっています」

「では、事件が起こったとき、牢に鍵は掛かっていましたか?」

「……はい、掛かっていたそうです。男は、、無惨にも喰い殺されておりました」

「えっ、では、男はいったいどうやって牢の中に……?」

「ふむ。男はなぜか鍵の掛かった牢の中で大型の獣に喰い荒らされて死に、巫女はなぜか鍵の掛かった牢の中から姿を消して見つからなかった。これはかなりおもしろ――いえ、むずかしい事件ですね」


 今、おもしろいと言いかけたな、この阿呆センセイは。

 しかし、鍵の掛かった牢に出入りできたとするのなら、疑うべきは鍵の管理をしていた人間なのではないだろうか。


「あの、百合さま、失礼ですがお師さまはその事件の夜はなにをなさっておられましたか?」

「そうですよね。鍵を管理している父を疑うのは当然のことです。しかしその夜、男の死亡時刻と思われる深夜一時前後には、父はほとんどわたくしと一緒に居間におりました。卯花と仲の良かったわたくしを慮って――いえ、わたくしが卯花を助けになどいかないように、傍にいたのかもしれません。儀式が気になって眠れないわたくしにお茶を淹れてくださり、互いに小説を読んだり書類仕事に手をつけたりして。父がその場を離れたのは三回、それも数分程度でした。御不浄に立ったのが一回、社務所のほうに書類を取りに行ったのが一回、玄関先で物音がしたので見に行ったのが一回です。その後すぐ、ちょうど深夜一時ごろに、儀式が終わったのだなと思い、わたくしは隣の寝室で床に就いたのです。しかし眠れるわけもなく、ずっと布団の中で音を聞いていました。父は寝室の向かいの社務所でまだ作業を続けていたようで、窓を開けたり、お茶を淹れに居間のほうへ行ったり、御不浄に立ったりという音は聞こえましたが、玄関を開けて外へ出るようなことはありませんでした。わたくしがやっとこ寝ついたのはおそらく深夜三時ごろですから、父にあんなことができたはずはありません」

「なるほど。ところで、ええと、いつも通り女の悲鳴がしたので儀式が終わった、というのは……」

「生贄の儀式では毎回、巫女がユルシさまに命を与えるときに悲鳴をあげるのです。これを知っているのは、朝切本家のわたくしと父くらいですが。絹を裂くような悲鳴が聞こえたら、儀式は無事終わったのだと判断するのです」

「……いや、まあ、食べられてしまうとなったらそりゃ悲鳴のひとつもあげるでしょうけど」

「そんじゃ百合さん、犯人はユルシさまでしょう。鍵も持ってないのに牢に出入りできて、男を喰い殺せて、巫女をどっかしらに消してしまえるだなんて、神さまでもなきゃあできないことです。僕が推理するまでもない」

「いいえ、ユルシさまのはずありません。ユルシさまは巫女を召し上がるとき、それはきれいに平らげられます。儀式の後の床にはせいぜい巫女の血が二、三滴落ちているくらいで、あのように喰い散らかすことなどないはずなのです」

「でも、今回喰われたのは清い巫女じゃなく放蕩者の男ですから、怒って散らかしたのかもしれませんよお?」

「それは――しかし、そんなことは、」

「ああいえ、すみません、さすがにこれは冗談です」

「センセイ、不謹慎な冗談はよしてください」


 けれど実際、神さまでもないとこんな事件は起こせそうにない。深夜一時ごろ、鍵が掛かった牢の中に入り、放蕩息子を大型の獣に喰い殺させ、牢の中の巫女を消した。鍵はそのとき社務所でお師さまが保管していて、お師さまは外に出られてはいない。


「ま、なんで深夜一時に放蕩息子が神社にいたのかも分かんないし、まだ推理ができる段階じゃあない。僕ぁこれからちょいと聞き込みやらなんやら、いろいろさせてもらいますけど構いませんかねえ百合さん」

「え、ええ、どうぞ。あの、父はあまりいい顔をしないかもしれませんが、気にしないでください」

「あれ、お師さまはセンセイに依頼したこと、よく思われてないんですか?」

「すみません、こんな言い方はあれなんですけど、探偵なんかに頼んだって事件が解決するわけがないって。父は卯花が犯人だと思っているんです。卯花なら獣を操って鍵もどうにかできるかもしれないし、男を食い殺させることもできるだろうと。儀式の失敗のみならず、商家の旦那さまにつめられてピリピリしているところもありまして。もしかするとご不快な思いをさせてしまうかも……」

「それくらい気にしませんよ。んじゃちょっと神社内を見させてもらいましょうかね」


 教授センセイは愉快な鼻歌をこぼしながら、神社内を見て回る。わたしはそれについてゆく。

 宝物殿の裏の牢は思っていたより堅固なつくりで、両開きの扉と奥の格子と二重に鍵をかけられるようになっている。中はすでに片付けられていて、凄惨な事件が起きたとは到底思えない。格子の中は牢という名称にそぐわないほど整っており、細工の入った机や椅子、ほのかな明かりを点ける行灯が置かれている。今はもうないが、儀式の夜はここで死を待たねばならない巫女のために、あの真っ白な布団も敷かれるのだろう。


「なんだか想像していたのよりずっとちゃんとしてますね。生贄っていうと惨い感じのを考えちゃいますけど、神さまに供物を捧げる神聖な儀式って側面が強いのか、巫女の待遇はかなりいいほうっていうか」

「うーん、巫女の待遇がいいっていうか、どっちかっていうとこれは……」

「なんですか?」

「いや、やめとこう」

「はあ?」

「それよりここは外の音がほとんど聞こえないね。きっと壁が厚いんだろう。中の音もよっぽど大きくないと外に聞こえないんじゃないかなあ」

「え? ああ、確かにそうですね」

「よしよし、じゃあ次だ」


 教授センセイはひとりで勝手に納得して、ずんずん先へ進んでゆく。

 社務所へお邪魔してお師さまに聞き込みをしていたと思ったら手をすべらせてお師さまの装束を汚したり、お師さまが着替えに出られた間に勝手に書類やらなんやらを盗み見たり、大きい羽根を見つけて子どものようにポケットに仕舞いこんだり、出仕の方に放蕩息子の話を聞いていたと思ったら「神職のお給料ってどのくらい?」なんて阿呆な質問をしたり、神社の周りを囲むだだっぴろい鎮守の森へずかずか入り込んで迷いかけたにもかかわらず獣道を発見してはしゃいだり、大きなカラスに眼鏡を取られて追いかけまわす羽目になったり、果ては「いま女の悲鳴っぽいの聞こえなかった!?」「あっねえなんかおっきい動物がいた!」「巫女さんってやっぱりみいんな処女なのかなあ」などと騒いでいて本当にうるさかった。


「あの、センセイ、ほんとにちゃんと調査してます? あ、ちょっと、その下手な字書きなぐった紙そこらに捨てないでくださいよ。メモならちゃんとまとめてください。ほらもう後で拾っといてくださいね。早く犯人導き出さないと、百合さまに呆れられちゃいますよ」

「うん、犯人は分かったよ」

「……………………ん?」

「さて、じゃあことの真相を確かめに行こうかな」


 いったいどうしてなにが分かったんだ。

 まったくもって話についていけてないわたしを尻目に、教授センセイは上機嫌で人を集めに行った。謎解きのお披露目をするためだ。

 事件の現場となった牢に、百合さま、お師さま、出仕の見習いさん、さらには管轄らしい刑事さんまでも集めて、教授センセイは満足そうな顔で「さて」を言う。探偵が謎解きをする場合、この言葉ではじめなければならないという決まりがあるように。


「結論から申し上げますね。被害者を殺害した犯人は、ユルシさまです」


 そんなわけあるか。本当にいるかどうかも分からない神獣がどうやって被害者を牢へ来させて、管理されている鍵をせしめて牢へ入れて喰い殺し、牢の中にいた巫女を消し、またバレないように鍵を戻したというのか。ここにいる教授センセイ以外のすべての人間が思ったであろうことを、刑事さんが代表して言う。


「うん。そこですよ。すべてのことを犯人ひとりがやったと思うからややこしくなるんです。つまりですね、被害者をここへ来させたのも、鍵を開けさせたのも、被害者を喰い殺したのも、巫女を消して鍵をバレないように戻したのも、ぜーんぶ違うひとがやったんです。


 まずね、んです。巫女に助けてくれと頼まれたわけでも、無理やり連れて来られたんでもない。彼は自分の意志でこの牢の鍵を開けて中に入ったんです。それはなぜか?


――巫女である卯花さんに乱暴を働くためですよ。まるで花街の女を買う男みたいにね。


 生贄の儀式だなんて、よく言ったもんです。本当は、なにがしかの特別な力を持った年頃の娘を金持ちやら好事家に好きにさせて売り飛ばして、多額の金銭を受け取っていたんでしょう。それを小分けにしてお布施なんかの喜捨金として扱っているから、しばらくの間は裕福になる。見習いくんが言ってましたよ。儀式から一年くらいは、ユルシさまのおかげでお布施が増えるから少しだけ手当をつけてもらえるってね。証拠? あはは、駄目ですよ、重要な書類や取引の手紙は分かりにくいところに置いてなきゃ。すぐ見つかっちゃうんだから。ま、とにかく、生贄の儀式なんてぇのは、娘さんを乱暴させて売って、人身売買を正当化するための迷信だったわけですよ。牢が整えられているのは神聖な儀式だからじゃない、男に女を売る花街と同じだからだ。女の悲鳴はユルシさまに命を捧げるからじゃない、知らぬ男に襲われるからだ。ユルシさまがきれいに召し上がられたから巫女の血が二、三滴しか落ちてないんじゃない、この場所で何が行われていたかを考えれば、それが何かは明らかでしょう。


 この外道な行いは、お師さん、あんたが主導なんだ。。鍵を渡すだけなら、玄関先で物音がしたからって見に行くだけで十分なんだから。あんたは巫女を買った人間に鍵を渡して、鍵が戻って来るのを待つだけでいい。いつも通りに悲鳴が聞こえたら、あとはいつも通り朝五時に儀式の片付けに行かせれば、それで終わりでしたから。


 しかしここで問題が起こった。これだけは僕も少々信じがたいことでしたけど――男が巫女を襲おうとまず一つ目の扉を開けたあと、ホンモノの神獣さまが現れてしまったんです。ユルシさまがね。男は当然驚いて逃げようとするでしょうが、出口が塞がれていますからね、奥へ行くしかないでしょう。そのまま格子の戸も開けて、自分は喰われたくないですから、本来の生贄である卯花さんを盾にしようとしたでしょうね。あるいは突き飛ばしたりしたのかも。でも、ユルシさまの標的は自分を含めた森の獣が懐いている卯花さんに害をなす人間でしたから、男はそのまま。この推理は冗談のつもりだったんですが、まさかほんとになるとはね。


 さあ、困ったのは卯花さんでしょうね。儀式がニセモノだったと分かってしまって、自分が売られたことに気づいてしまって、自分に懐いた大型の獣が自分を買った男を殺してしまった。もはや家に戻ることはできない。仕方なく彼女はここから出るため、牢に元通り鍵をかけ、、鎮守の森の獣道を使って外へ逃げたんです。朝切の森はちょうど神社の町の端にありますから、そこから出られさえすれば逃走は容易いでしょう。


 被害者を牢へ来させたのは被害者自身。牢の鍵を被害者に渡し開けさせたのはお師さん。被害者を喰い殺したのはユルシさま。鍵を掛けなおしてカラスに頼み元の場所へ戻したのは卯花さん。これが、この事件の真相ですよ」


 シン、と、空気が静まり返っていた。

 教授センセイの推理は荒唐無稽だ。途中まではまだしも、ユルシさまが現れたなんて。


「せ、センセイ、でも、悲鳴が……卯花さんは襲われてないんですよね。襲われる前にことは終わってしまってるから。男の悲鳴もなかったんですから、おそらく二人は悲鳴をあげる間もなかったはず。怖くて声も出なかったかもしれません。でも、間違いなく女の悲鳴は聞こえています。その悲鳴は誰のものだったのですか。ほんとうに、卯花さんは食べられていないんですか」


 いつも通り女の悲鳴が聞こえたので儀式が終わったと思ったと、百合さまは言った。

 もしも悲鳴が聞こえていなければ、もしかしたら儀式が上手くいったか分からずにお師さまが確認しに牢に来たかもしれない。しかし、それを阻止するために卯花さんがわざと悲鳴をあげたとは考えられない。女の悲鳴がすることを知っているのは、百合さまとお師さまの二人だけだからだ。

 もうこの牢に用はないとばかりに、さっさと扉を抜けて外へ出て行く教授センセイをばらばらと追いかける。次の言葉を息を飲んで待つわたしたちとは裏腹に、ずり落ちそうな丸眼鏡を押し上げながら、教授センセイはなんでもないことのように呟く。


「伝承がね、あるんだよ。ちょっと調べたら出てきた。ギリシア神話のセイレーンなんかが有名だけれど、人の、とりわけ女の声を真似て人間を誘い込む妖怪みたいなのは、どこの国にもそれなりにいるんだ。ただでさえ森の獣、鹿なんかの鳴き声は女の声に似ているというしね。ユルシさまはかつて、狩りに出ていた男たちを皆殺しにしていた飢えた荒神だ。狩りをしに森に入った男を誘い込むために、女の悲鳴を真似ていたこともあったろう。ああ、そう――――


――――ちょうど、あんなふうにね」


 直後だ。


 キャァ―――――――――――――――――――――――――


 悲鳴が聞こえた。絹を裂くような女の悲鳴が。

 先生の目線の先、鎮守の森の奥深く。

 そこに、一匹の大きな獣が佇んでいる。


「すごいよねえ、知性のある獣ってのは。『きみの大事な巫女が犯人だと疑われているから、後顧の憂いを絶つためにきみの存在を証明してくれ』ってお願いしておいたら、ちゃあんとやってくれるんだから」

「おねがい、って、あ、あのメモ書き――」


 ふと、森に捨てられたまま結局拾って帰らなかった、下手くそな字を書き殴ったメモ書きを思い出す。

 あれがまさか、ユルシさまに向けた手紙だったのか。

 つまりあの獣は、その手紙を読み、実行することができるほどの知性を持った存在だと。


 張りつめた弓のように、空気が緊張している。

 ただの獣だ。すこし他より大きいだけの、すこし他より色が薄いだけの、すこし他より存在感があるだけの、ただの獣で。なのに、誰もあの獣から目を離せない。

 あれが、今、飢えた荒神なのか、神獣ユルシさまなのか、わたしたちには分からないのだ。

 何十秒、何分、そのくらい見つめ合った気がする。やおらに空気が弛緩し、息がしやすくなったように感じた。獣が踵を返し、森のさらに奥へ消えていくのが見える。


「やあ、よかったよかった! どうやらユルシてもらえたみたいで。あ、ねえねえ、そういえば知ってた? 『あさ』って、この町では獣の隠語なんだって」


 今までの緊張感なんてなんにもなかったような軽い足取りで、とんでもない真相と神獣を目の前にして真っ青になっている他の人たちには目もくれず、自分の見せ場はもう終わったとでも言いたげなやけに満足げな顔をして、教授センセイはわたしの手を掴んだ。


「さ、じゃあ次の依頼へ行こう。今度は獣の腕が奉納されてる神社だよ」




 いや、まだこの話続編あるんかい、と目覚めてからわたしは突っ込んだ。

 ミステリも、なんかよく分からない風体の探偵も、ちょいファンタジーよりな世界観も、正直なところめちゃめちゃ好きであった。わたしは名探偵夢水清志郎を推しているから、もしもこの夢の続編が見られるのなら是非とも見たい。見たいのだけども。

 この手の夢は、書き起こすとありえんくらいに文字数が多いのだけが難点だ。

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ゆめにっき 比良坂月子 @tetraptera

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