あなたもはやくなつかしくなれ

 さいきん夢を覚えない。

 十年前、見た夢をほとんど鮮明に覚えていたあの頃と違って、いまのわたしは滅多に夢を覚えていないような気がしている。

 目覚めたとき、糸のようなものがぷつんと切れて、そのまま繋がりが失われてしまうように。確かに頭上で揺れていたはずの甘い煙が、いつのまにか酸素に溶けていってしまうように。そんなふうにわざと忘れさせるみたいに消えていってしまうそれらが、わたしにはさみしかった。

 だからきっと、子供の頃に見たような懐かしい空気の夢を覚えていたこと、それだけでこんなに吃驚して、そわそわして、懐かしがっているのだ。


 桜の花が咲いている。

 窓の外、さわさわとやわらかそうな風に揺すられて、桜が失恋したての女の子みたいにうつくしい花びらを散らしてゆくのが見えた。桜の花びらが散る速度は秒速五センチメートル――なんて言葉を思い出したわたしは、桜の花びらが地面に落ちるまでの秒数を脳内でカウントしてみたりする。

 前から四列目の窓ぎわの席、教卓に立つラジオ頭の先生の声をBGMに変えながら頬づえをついて窓の外を眺め、カウントを繰り返すわたし。わたしの半袖のセーラーからは清涼な石鹸のにおいがしているし、所々で木目が瞳の形になった机はひんやりと冷たく、うららかな空気はわたしの目蓋をぐっと押しやろうとしてくる。わたしは眠気を覚ますように、ずり下がってきた眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、いまよりもながくのばしていた髪を耳にかける。

 眼鏡のレンズをとおして見る外の世界は、何故だかいやにやわらかく、そしてきらきらして見えた。それもこれも、眠気や夢心地といったものを無理やりレンズの向こうに追いやった所為だろうか。それともわたしの額をくすぐり桜の花にも平等に降りそそぐ、あの眩しい日差しの所為だろうか。

 花びらが地面に落ちるのを見届ける、十回目のカウントでそれに飽きてきた頃、わたしの後頭部を誰かがこつりと――いや、もふりと小突いた。

「なに見てるん」

 隣の席の伊勢屋いせやくんだ。彼は何故だか二足歩行の猫の姿をしている。伊勢屋くんは茶色い耳をぴるぴる動かしてわたしの机に自分の机を連結させると、綺麗な緑色の目を窓の外に向けた。

「失恋中の桜」

「桜が失恋するん? なんで?」

「さあ、わからんけど。桜って、失恋した女の子が髪切ったみたいな散りかたするやんか」

「はあ、でも、咲いてるの桜じゃないやん」

 えっ、と思って外していた視線をもう一度窓の外に向けると、確かに咲いていたのは桜ではなく藤の花だった。六角形の藤棚から振袖ふりそでのように垂れ下がっている藤。その足許には薄紅色ではなく薄紫の絨毯が拡がっている。

「あれぇ。さっきまで桜やったのに」

「藤の花も失恋する?」

「するよ。たぶん。遠雷えんらいとかに失恋するんちゃう?」

 散り終わった紫色の絨毯を見ながら、そんな適当なことを言う。

 藤の花は、うら若き乙女が失恋で髪を切ったような初々しい散りかたではなく、大人の女が恋を諦めて泣いたような甘苦しい散りかたをするな、とわたしは密かに思った。

「んじゃ、桜は時雨しぐれとかに失恋するんか」

 意外にも、わたしの適当な台詞にのってきた伊勢屋くんの詩的な言葉に思わず「ふはっ」と声をだして笑う。そうして二人でくすくす笑っていると、頭上からまた別の声がした。

「あっ、月ちゃんと伊勢屋がなんかエモいこと言ってるっ」

 妖精みたいにちっちゃくて、うすく透けた砂糖菓子みたいな羽を持ったまゆちゃんが、わたしたちの目の前でぷかぷか浮いている。

 その奥では車のヘッドライト頭になった門咲もんざきくんが、自分で机を運べない繭ちゃんの代わりに二人分の机をわたしたちの机と連結させていた。

 どうやらいまは古典の授業中で、四人でグループワークをする時間らしい。

「短歌、一人五つ詠めって」

「あーあ、おれ苦手やねんそういうの。比良坂だけやんそんなんすきなん」

 伊勢屋くんの猫耳が藤の花みたいに垂れる。さっきまであんな詩的な返事をしていた男が言う台詞ではないな、と思いながら、わたしはシャーペンをくるりくるりと回してはじめの一句を考える。


『花見席 桜と藤は出席で ひまわりだけはいつも欠席』


 うん、まあ、一句目はこんなもんか。

 次の句に取りかかろうとシャーペンを真横に滑らすが、ちっちゃい繭ちゃんの目がわたしの手許をじいっと見つめているのに気づいて手を止める。

「繭ちゃん?」

「なんでひまわりは欠席なん?」

 不思議そうな繭ちゃんのまるい瞳と、ぱっちり目が合う。

 ――そんな、短歌になんでって、理由を訊かれましても。

 でも確かに四文字の花なら、欠席なのは木蓮もくれんでも竜胆りんどうでも紫陽花あじさいでもよかったはずなのにって思うのかもしれない。うーん、と唸って、わたしはその理由を捻りだす。

「あー、その、わたし、ひまわりきらいやねん」

「きらいなん? なんで」

「さあ、なんでかなあ、うーん、だってほら、わたしはお月さまやし、お日さまのことすきな花はすきになれんの」

「えぇ、ぜったいうそ」

「うそじゃないよ」

「うーそ! 月ちゃんいっつもそうやってはぐらかすねんから! まゆ知ってるねんで!」

「ええー」

 ぷっくりと頬をふくらます繭ちゃんが可愛らしくて思わずにへら、と口許が緩めば、また「ほらもうそうやって笑うねんから!」と怒られてしまった。

「まあまあ、ただの短歌やねんし、比良坂も適当言うてるだけやって」

 門咲くんが横から助け船をだしてくれて、繭ちゃんはしぶしぶといった面持ちで自分の机に戻る。わたしが門咲くんに苦笑を向けると、彼は青、緑、黄色の順にちかちか光って「気にするな」の合図をくれた。まるで花火みたいな鮮やかな色だ。

 ――花火か。

 ふ、と思いついて、わたしはノートにシャーペンを走らせる。


『遠い過去 誰かがひっそり泣いたとき 花火がぜんぶ咲くはずの夏』


 なんだか、雰囲気だけの歌だなあ。

 書いておいて、自分でうまくはないなと批評してしまう。エモいという要素だけで空振りしている気がする。というか、エモさを全面に押しだそうとしすぎた所為で、もはや一周回ってエモさの欠片もなくなっているように見えてきた。とんだ駄作だ。

 なかなかうまくいかないものだな。

「奥深い……」

「えっ、比良坂が悩む? めっずらし」

 伊勢屋くんが頭を押さえるわたしを見て驚いた表情をする。国語全般の成績がよいとはいえ、なんでもかんでもじょうずに詠めるわけではないのだ、わたしは。

「オレ終わった」

「えっ! もんちゃん終わるのはやっ! 月ちゃんがいちばんさきに終わりそうやのに」

「え~どれどれ~……門咲、おまえこれ、歌詞パクっとるだけやんか!」

 門咲くんの手元を覗きこんだ伊勢屋くんがそう言って吹き出す。繭ちゃんも彼の歌を見て思わずといったようにくすくすにやにや笑っている。

 わたしも二人にならって覗きこむと、なるほど歌のタイトルや歌詞をもじった短歌が五つならんでいた。

「ほんまや、これ、ミスチル……」

「わああっ、わあっ、見るな見るな! いいやんか! パクリじゃなくてオマージュや!」

 顔のランプを真っ赤にちかちか点滅させて門咲くんが抗議する。かわいい。慌てて隠した所為でくしゃりとひしゃげてしまったノートの頁を見て、わたしは残りの短歌も見たかったな、とすこしばかり残念に思った。

「でもいいかも。まゆも歌詞もじったやつ書こーっと」

「うん、じゃあわたしも」

 歌詞もじりならすぐに出来そうだし、と、わたしは学生のときにいつも着信メロディに設定していたすきな曲から短歌をつくってみた。もとになる文字列が頭にあれば、思っていたよりもすらすら出来るものだ。


『ぼくはくま 喋れないけど歌えるし 語学留学したこともある』


 なんか、かわいい。

 宇多田ヒカルの『ぼくはくま』をもじってつくった短歌は予想以上にいい出来映えに見えて、満足感に胸が満たされる。

 うん、いちばんいい出来かも。

 そう思って、またわたしは次の短歌に取りかかろうとシャーペンを回――したところで、目が覚めた。


 課題の短歌はあと二つ残っていたのに、残念だ。

 あのうららかな、あたたかい、すがすがしい空気の教室で、うつくしく散る桜と藤を窓の外にのぞみながら、かつての同級生と共に短歌を読むしずかでさわやかな時間が、わたしはなんだか懐かしくてうれしかったのだった。




 余談。短歌といえば、わたしは伊勢谷小枝子さんの、

『なつかしいものしか好きなものがない あなたもはやくなつかしくなれ』

『この場所が いつか陸地になったとき 化石の私が掘り出されたい』

って短歌とか、雪舟えまさんの、

『雨の中 うさぎに雨を見せにゆく わたしをだれも見ないであろう』

って短歌とか、川北天華さんの、

『問十二 夜空の青を微分せよ 街の明りは無視してもよい』

って短歌とか――すきな短歌がたくさんでてきていけない――とにかくそんな短歌がすきだったりする。

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