それをわたしは秋と呼ぶ

 母に「無理心中するしかない」と言われた日、夢を見た。


 亭亭ていていたるビルヂングの内部で、わたしは〝神聖なるもの〟の展覧会のスタッフをしている。

 〝神聖なるもの〟とは何か、というとはっきりとは答えられないのだが、神社だとか、教会だとか、祭祀さいしの際に用いられる咒物じゅぶつだとか、祈りを捧げる際に必要とされる聖遺物せいいぶつたぐいが展示されているらしかった。

 わたしの担当している場所は、その〝神聖なるもの〟の中でも神社を模したとされるフロアだ。そこには模型とは思えないほどうつくしい神社が建ち、空はバーチャルの天候プログラムを投影とうえいしているにしてはあまりに天高そらたかい。土や池はほんものなのか、造花でない木や花が枝葉を伸ばしている。

 さわさわと、空調によって再現された涼しい風が吹く。スタッフの衣装としてわたしが身にまとっているあかい巫女服の裾がふわりと揺れた。あまりにほんものと相違そういないので、下手をすれば自分が本当に神社で奉仕している巫女であると錯覚してしまいそうだ。黄色に色づいた銀杏いちょうの葉がはらはらと散り、床に絨毯じゅうたんを形づくるのを、わたしはぼんやりと眺めていた。


「月」


 名を呼ばれて、振り返った。

 幼馴染おさななじみの青年が、七メートル程先に立っている。

 彼はわたしの姿を見るなり顔を悲哀で歪ませて走り寄り、いつもより幾分かやさしい声で「辛かったな」と言った。

 なにが「辛かったな」なのだろう? ――そう思うか思わないかという瞬間、わたしは、わたしの母が死んだことを思い出した。

 死因も知らないし、いつ死んだかも知らないのに、漠然とそれだけを思い出して泣いた。幼馴染みは泣くわたしの腕をつかんで神社から引きずりだし、なぐさめのためかひっきりなしに声をかけてくれている。


「俺、死んだこと知らなくて」

「辛かったよな、苦しかったよな」

「月は、死んだりしないよな」

「俺もケイスケも心配していて――」


 慰められながら、ふと、自分の左手を見た。

 するとわたしは、素っ気ない装丁そうていの、百ページもない小説を左手に持っていることに気がついた。幼馴染みを立ち止まらせ、二人で近くにあった石段に腰かけると、わたしはその小説をめくる。

 ページをめくって、気づく。

 これはわたしの、もう一人の幼馴染みの青年、ケイちゃん――ケイスケくんのことをわたしはそう呼んでいた――が書いたものだ。

 その筆致ひっちはうつくしくて、まるでわたしを慰めるために書いたもののようで、わたしはまたたく間にそれに目を奪われていた。


『画面にぽんぽんと浮かぶ文字列を指でなぞる。彼女は元々言葉少なな人間であるから、文字だけでもこれだけ饒舌じょうぜつになることはめずらしいように思われた。やけに句読点くとうてんが多く、俺にはそれが、彼女の書く文字が涙でにじんでいるかのように見えた。肉筆でもないのに可笑おかしな話だ。俺はつとめて冷静を装って、彼女に文章を送り返す。「君、どうだい、その、散歩でも?」紅葉が赫赫あかあかと照っているのを見ながら、また俺の頬も多少は赤くなっているのを感じながら、彼女を外へ連れ出そうと提案した。上手うまい誘い文句が思いつかないのは、俺に女子と連れ立って歩く習慣がまったくといってなかったからだ。我ながら非道ひどい文句だと思った。もう少し気のいた台詞の一つでも出てこないものだろうか。彼女から返事が来るのを待つ間、俺は窓の外の紅葉を見詰める。燃えている紅葉を眺めて、ふと、不安になった。もしも俺の記憶が正しければ――彼女の母の死因は焼死ではなかっただろうか。しまった、と思った。燃えるような紅葉を見て、彼女は母の死因を思い出してはしまわないだろうか。繊細なところのある子だから、もしかするとそれの所為で、母を焼く炎を連想してしまうのではないだろうか。嗚呼ああ、もしもそうして彼女が泣き出してしまったら。俺は彼女の涙に滅法めっぽう弱かった。しかし、こうも思う。彼女の恐れる炎の赤を、うつくしく燃える紅葉のあかで上書きしてやれたなら――そうしたら、少しくらい、俺も彼女の役に立ってやれるかもしれない。俺は彼女の紅葉のように小さな手を掴んで、外に連れ出して、秋空を見せてやれる人間でありたい。上手い誘い文句一つ言えなくても、寄り添える秋のような人間でありたいのだ。』


 青いインクで書かれたそれを読んでいるうちに、わたしはいつの間にか、目を覚ましてしまっていた。

 わたしは母に「無理心中をする」と言われたことなんかよりも、幼馴染みのケイちゃんが書いたその本を読みきれなかったことのほうが悲しかった。

 夢の中の母の死因よりも、ケイちゃんの秋空のような文章をそれ以上思い出せないことのほうが、わたしにとってはよっぽど損失だったのだ。

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