彼岸花を食む

 夜、微熱にうめきながら眠りにいたら、夢を見た。

 わたしは、どこかの屋上のふちに腰掛けている。


 高い。目線が高い。

 当然だ。地上から大分離れたところに座り込んでいるのだから。五階よりは高く、おそらく十階よりは低い。そんな廃ビルの屋上のフェンスの外側に、足をふらふらさせながら座っている。

 まっすぐ前を見つめると、空と雲だけが目に映る。オレンジと、薄紫の空と雲だ。夜明け方か夕方か――オレンジと薄紫の配分から考えると、多分いまは夜明け方なのだろう。

 ふと横を見ると、隣にわたしとおなじように足を空中に投げ出して座っている――ペストマスクというのだろうか――鳥のくちばしを模したガスマスクようなものを被ったお兄さんがいた。

 彼も、ぼうっとしながら空と雲を見ている。

 マスクの所為でお兄さんの顔は見えない。どう見たって怪しい人物なのだが、そのときのわたしはそんなことを気にはしなかった。むしろ、こんなところに腰掛けて足をふらふらさせているところに仲間意識すら抱いていた。

 すると、お兄さんが唐突にわたしのほうを向いた。思ったよりも距離が近かったのか、嘴がわたしの鼻すれすれのところをかする。


「ねえ」


 しかも、喋った。

 いきなり話しかけてきたことにも驚いたが、何よりお兄さんが喋るのに合わせて嘴が開閉するのに驚いた。その嘴、可動式なのか。いや、可動式のペストマスクって、本来の機能を果たしていないのではないか。

 そんなわたしの疑問を知るよしもなく、お兄さんは相変わらずぼうっとした面持ちで、わたしになにか赤いものを差し出してきた。


「彼岸花?」


 それは彼岸花だった。夏の終わりから秋にかけて、主に彼岸の頃に咲く、全草有毒で多年生の球根生植物。放射線状に花開く様がまるで燃え上がる炎のような、赤く、美しく、そして不吉を感じさせる花。

 花言葉は、「情熱」「再会」「転生」「悲しい思い出」だったか。

 それを、わたしに差し出している。

 受け取るかどうか迷って、恐る恐る茎の部分に触れると、お兄さんがこう言った。


「きみも食べなよ」


 食べなよ。

 食べなよ?

 彼岸花は基本的に食べものではないはずだ。しかも、全草有毒と言うくらいなのだから花にも茎にも毒があるのではなかっただろうか。確か、アルカロイドとかなんとか言う毒が。致死量などの知識は、残念ながらわたしにはないが。

 そんなものを、食べろと?

 だが、押し返そうとしたときには、お兄さんの手は既に彼岸花から離れてしまっていた。

 受け取ってしまった以上は突き返すわけにもいかず、わたしはその花をくるくると手でもてあそぶ。

 天上に腕を伸ばすような、赤い、赤い花びらを踊らせる。ふうわりとひろがったそれは奉納舞を舞う巫女の袴のようにも、淑女の纏う真っ赤なドレスのようにも見えた。

 そういえば、彼岸花の花言葉にはこんなものもあった。

 思うはあなたひとり――なんて、情熱的な花言葉が。

 もしかすると、あなた、というのは神さまのことなのかもしれない。こんな高いところにまで連れてこられて、腕を伸ばして舞っている。いや、花を舞わせているのはわたしなのだけれど。

 そう考えれば、舞う彼岸花の容貌が、彼岸に近づこうとする少女の姿に見えた。


「食べなよ」


 ペストマスクのお兄さんが言う。

 彼は、じっとこちらを見ている。きっとわたしが花を食べるまで、視線を外さないつもりなのだろう。

 仕方なく、わたしは彼岸花を口許くちもとに近づける。ふわり、と甘い花の香がする。

 意を決して、わたしはその少女然とした花に噛みついた。

 ぱき、ん。

 驚くほど呆気あっけなく、軽い音をさせて花びらが千切れた。噛みつき、咀嚼そしゃくし、み込むという行為を何度か繰り返し、わたしはあの美しい赤い花を、すっかり食べつくしてしまった。

 ペストマスクのお兄さんはそれを見て満足そうに頷くと、ふたたび前を向いて、ぼうっと空と雲とを眺めていた。


 どこかの誰かが言っていた。

 夢に見る象徴的な赤いものは、つまり死を意味する。

 そうするとわたしは、死を腹の中に内包したことになるのだろうか。神さまに恋い焦がれる、少女のような赤い死を。

 あの彼岸花は何故だか、甘いチョコレートの味がしたな。

 そう思いながら、わたしはその屋上の縁を両手でぐっと押すようにして自ら腰を浮かせ、そこから飛び降りてしまった。


 飛び降りたさきに待っているのが、少女の如き彼岸花の焦がれた死だったのかどうか――それはわたしにはわからなかった。

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