泡の言葉を吐く魚

 具合が悪くて昼寝をしていたら、夢を見た。

 どうやらこれは現実ではないらしいとすぐに気づいた。


 というのも、月の花のような白色と、藤の花のような紫のうろこの魚が、わたしのまわりをふよふよと漂っているからだ。きらきらと、どこからともなく射してくる日の光――もしかしたら月の光かもしれない――に照らされて、鱗は硝子がらす細工みたいにきらめいている。

 わたしは、憂鬱ゆううつを液体にしたらきっとこんな色なんだろうな、と感じられる色の、粘度の高い水に膝の下まで浸かっていた。例えばそれは、恐ろしいときの夜の群青、目覚めたくない朝の白色、そして月の天敵のように輝かしく咲く向日葵ひまわりの金色とをまぜこぜにしたような――わたしにはそういう色に見えた。

 逃れようとするが、駄目だった。膝から下はまるで動かない。わたしの身体の一部でいることを辞めてしまったのだろうかと思うほど、わたしの脚はびくともしなかった。脚が憂鬱の液体の所為で鉛に変化してしまったような、そんなおぞましい感覚。群青と白色と金色が、わたしをそこに幽閉とじこめている。

 わたしはその恐怖の色をわたしの瞳に映さぬよう、つとめて冷静にきらめく魚に視線を移した。

 その一匹のうつくしい魚はというと、おそらく何かを訴えかけようとして口を上下にぱくぱくと動かしている。うまく喋ることが出来ないのか、それとも呼吸がへたくそなのか、そのちいさな口からは不恰好に欠けた泡が二、三粒、彷徨さまよいながらこぷこぷと浮かぶだけだ。

 わたしは、その魚の言葉を聴かなくてはならないと思った。

 何故そう思ったのかはわからない。

 だが、わたしは何かに突き動かされるようにして器用に上半身だけをくねらせ、魚の口許くちもとに自らの左耳を近づけた。

 ちいさな口に触れるか触れまいかというところまでわたしの耳が接近すると、魚は、スウ、コクリ、と息をむような音をだした。それはまるで、大切なことを言う直前の、一瞬の躊躇ちゅうちょのように感じられた。

 こぽり。

 うつくしい魚の吐いた泡が、わたしの耳をやわく撫ぜる。


「 さ よ う な ら 」


 五文字。

 うつくしい魚は、たった五文字の言葉を泡にして、途切れ途切れに吐きだしていた。その泡は泣き声を形にしたのかと思うほどいびつで、けれども彷徨さまようことはなく、翼を持った言葉のようにわたしの耳に優しく触れる。


「 さ よ う な ら 」


 ぱちん、と、役目を終えたと言わんばかりに泡がはじける音がした。

 途端、わたしの脚が感覚を取り戻した。下を見れば、あの恐ろしい群青と白色と金色は見えなくなっていた。

 そして一匹のうつくしい魚の姿も、わたしにはもう見えなかった。


 目覚めると、わたしの体調はすっかり治ってしまっていた。

 もしかして、あの魚がわたしの悪いところを持っていったのだろうか。

 そう思うと、あの五文字の言葉が泡のようにして消えたのが、すこしだけ勿体もったいなく思われた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る