迷宮を攻略せよ!

 カーディフ王国南東部に位置する大迷宮【アビス・ゲート】が生まれたのは、今から数えること十二年も前の出来事だ。

 当時、人類は魔王スルト率いる魔軍と戦って、これを撃退することに成功した。第二次人魔大戦と呼ばれるこの戦いでは、四人の英雄が特に際立った活躍して、その名声を世界に轟かせた。

 魔王スルトを実際に討伐したのは、四人の英雄の一人にして勇者の称号をもつロイド・カーディフである。

 ロイドは三日三晩スルトとの死闘を続け、ついに四日目の日の出とともに魔王の心臓を抉り出した。これは彼が旅の途中で会った占い師に予言されたとおりであった。


『この世で最も高貴な血を引く勇者が、魔王と太陽が三回沈んでも戦い続け、再び朝日が現れると同時にこれを討ち果たすだろう』


 この恐ろしく正確な予言には続きがある。


『しかし、神の系譜を引く魔王を真の意味で滅ぼすことはできない。魔王の不死性は、心臓を抉り大神殿の地下深くへと封印して、一万人の人間が毎日祈りを捧げなければ、また魔王を甦らせる。再び魔王が降臨した地は穢れ、ついには神に見捨てられるのだ』


 ロイドはこの予言を信じて、魔王の心臓を王国南東部の大神殿に封じた。

 そして国中の聖職者に神への祈りを命じて、自らは戦死した父に代わり国王に即位した。

 後の世に勇者王と呼ばれる王の誕生である。


 それから十二年の月日がたち、大神殿は魔王の瘴気によって魔境と化し、その地下は巨大な迷宮へと変化した。その中には地獄にしかいない高位の悪魔や、地上から引き寄せられた魔物で溢れかえっているという。

 国を離れられぬ王に代わり、世界は新たな英雄を求めているのだ。


『今、カーディフ王国はかつてない危機に見舞われている。

 集え冒険者達よ。

 迷宮を攻略し、魔王復活を阻止するのだ。

 その暁には、富と名誉を保証しよう。


 【国王ロイド・カーディフ】』



◆◇◆◇◆



 大迷宮【アビス・ゲート】、地下九十八階。

 ここの階層には魔物や下位悪魔は一切存在しない。それどころか、高位悪魔ですら滅多に近づくことはない。

 ここは最上位の悪魔の一柱、アスタロテの守護する領域であるからだ。

 広大な空間を、赤と黒のみで描かれた絵画が埋め尽くしている。

 絵画の一つ一つには、常人が発狂するようなおぞましいものが描かれていた。


 階層の中心ではアスタロテが自らの血で謎の紋様を描いている。

 ふと、アスタロテの筆が止まった。


「む、ここに客人が訪れたのは初めてだ。それに、予想よりも百年は早い。朕は貴公へ敬意と最期を授けよう」


 上階から続く階段を一人の男が下りてきた。

 全身に傷を負っていて、ここに辿り着くのがどれほど過酷かを物語っていた。彼が通った場所には血の道が出来たほどだ。

 しかし、彼の眼光は鋭い殺意を送り続けている。


「なんだ、この上も雑魚が二匹だけだったが、今度はさらに少ないのか」


 男の口からはアスタロテを挑発する言葉があふれ出した。

 ここまで来たからには、相当な実力があるのだろう。

 しかし、アスタロテはまた別格だ。


「よいぞ、その心意気。しかし、無謀でもある。その余裕は朕がアスタロテであると知ってもなお保てるかな」


 アスタロテは第二次人魔大戦において、ロイド以外の四英雄を直接手にかけた、魔軍最強の悪魔である。今でこそスルトの墓など守っているが、かつては彼が魔界を統べていた時期さえあった。


「ルシのまじりものや、神さえ居らねば、朕こそが魔界の王座についていたことは間違いない。ふふふ、どうだ。怯えて言葉も出ないか」


 自らの名を聞いて恐れぬものがいるはずもない。

 その確信が、アスタロテに無上の喜びとなる。アスタロテにとっては恍惚の、人間にとっては悪魔の表情を浮かべていると、男がようやく口を開いた。


「なんだ。やはり雑魚ではないか」


 一瞬、アスタロテの思考が止まる。


「なに?」


「聞こえなかったのか。お前のことを雑魚だと言ったんだ」


 アスタロテの腕が震える。

 数千枚に及ぶ悪魔の絵画が怒りに燃え上がり、辺りは瞬時に黒い炎に包まれた。階段があった場所は熱で溶け落ち、逃げ場が消えてしまう。

 しかし、男の身には煤ひとつ付いた様子がない。


「朕の怒りに触れてなお傷を負わない。なるほど、アハトの紋章を見に宿しているのか。しかし、その程度で己が実力を過信するとは。地獄でその魂をアバドンに貪られながら、無知と無力を後悔するがよい」


 アスタロテが筆を横に振うと、空間に亀裂が生じてその中から「呪い」が溢れだした。数秒足らずで亀裂は閉じたが、魂を蝕む数千の呪詛によって視界は埋め尽くされ、男の身体の中へと侵入していく。


「これは七十七階で見た」


 男はそういうと、両腕を大の字に広げた。

 アスタロテが放った「呪い」は男の身体の内から命を削るが、ある時を境に忽然と消え失せる。


「なるほど、テイシャの肉を食らっておるのか。人の身でありながら罪深いことだ。どうだった、同族を口にする快感は?」


「黙れ」


 初めて男が不快感を示した。腰のポーチから釘を取り出すと、それをアスタロテへ向かって投げつける。


「銀の釘とは考えたな。しかし、朕には効かぬぞ」


 アスタロテは飛んできた釘を掴みとると、それをさらに握りつぶす。粉になった釘を血に濡れた筆にまぶすと、今度はそれで絵をかき始める。

 ものの数秒のうちに出来上がったその絵は、かつて剣聖と謳われた四英雄が一人、クリス・フィネガンのものだ。

 塗料はみるみる浮き上がると、生気のない人型になる。


「この男はかつて朕に挑んだ愚か者だ。人の子は人の子によって生を終えるのが良いだろう」


 剣聖の人形は動き始めたかと思うと、いきなり男へと奥義を繰り出した。斬撃を飛ばすその技は、一撃にして先代の剣聖を切り殺したことさえある。

 男はなんとかそれを見切ったが、右腕を深く傷つけられた。左腕で剣を抜いたが、見た目に頼りない構えだ。

 しかし、剣聖の技はそれで終らない。

 詰め寄られたそこは剣の間合い、音速で撃ち込まれる剣戟は男を追い詰める。致命傷こそ避けられているものの、男の剣技では敵うはずがない。


「俺に近寄るな!」


 男が吠えると、言霊が魔力を帯びて剣聖を弾き飛ばした。

 剣聖はすぐに立ち上がり、斬撃を離れた場所から放ってくる。それらを剣ではじきながら、男はさらなる魔法の詠唱を始めた。


「右には平等を、左には自由を、神は信仰厚き子羊をお救いになるだろう」


 その魔法はアスタロテが見たものの中でも際立って異質だった。

 地下深くにあるはずの空間に、天からの光が直接降り注いだのだ。アスタロテ自身に影響があるわけではないが、剣聖の人形はそうもいかない。

 剣聖は天の光を浴びると、みるみるうちに溶け出していった。

 そして、心臓があるはずの部分から、鎖で締め付けられた光球が現れた。鎖は少しの間だけその形を保ったが、結局は身体と同じように溶けて消えた。

 鎖から解き放たれた光球は、天の光と同化して、いつの間にか立ち消えてしまう。


「魂を消したというのか。なんとおぞましい神の奇跡! 我々悪魔でさえそのような悪行はせぬというのに!」


「よくしゃべるゴミだな」


 男は魔法の効果が切れると同時に走り出し、アスタロテへ長剣を繰り出した。

 アスタロテはそれを手にした筆で弾くと、すぐさま空中に円を描く。


「なるほど、貴公が神の御業を模倣するのは理解した。だが、今度の玩具ならどうかな」


 またもや空間が削られたが、今度は出てきたものが違った。

 目隠しと首輪、それに猿ぐつわを嵌めたその生き物は、天使としか形容のしようがなかった。

 神聖にして絶対の神の僕が、悪魔の奴隷に身をやつしている。

 豊満な身体を隠す布は血と唾液とその他で汚れ、破けた箇所からは生々しい傷跡が覗く。


「ははは、どうだ。お前は神の奴隷を消すことができるか?」


 アスタロテは天使の臀部を蹴りあげて、男に向かってけしかけた。

 天使は悲鳴とも嬌声とも付かない音を発しながら男へ向かって突き進む。そこに技や駆け引きは存在せず、愚直で単純な動きでしかなかった。

 男は剣を構えると、天使の首輪へ正確に叩き込んだ。

 しかし、傷一つ付けられない。


「無駄なことを考えるなよ。朕が一度でも味見したものは、二度と首輪を外すことはできなくなるのだ。このような淫乱でも、神の奴隷には変わりがない。さあ、神に弓ひいてみろ!」


 突進してくる天使を躱し、すれ違いざまに首輪を狙う。

 そんなことを三度は試してみたが、効果はなさそうだった。


 四度目の突進に対して、男はまたも剣を構える。


「ふん、つまらん小細工だな」


 そう言うと、男は天使の首を切り落とした。

 首を失った身体から、無数の触手が伸びる。その全てを危なげなく処理すると、残った身体を正面からかち割った。


「悪魔と交わった天使など、神が生かしておくものか」


「なるほど、頭も切れる。朕は貴公のことを見誤っていたようだ。敬意を表して、朕自らが引導を渡してやろう」


 雛が卵から孵る時のような、何かが割れる音がした。

 アスタロテの背中から八対の腕が生える。それぞれの腕には鳥の羽のようなものが生えており、ハーピーの腕を彷彿とさせた。

 筆で描いた武器が具現化して、計十八本の腕それぞれに武器がいきわたった。


 大悪魔の本気を目の当たりにしても、男の顔には余裕が残る。


「さあ、殺し合いと行こうじゃないか」 


 男は獰猛に笑うと、いきなり剣を投げつけた。



◆◇◆◇◆



「ギルマスー。入りますよー」


「おう」


 大迷宮【アビス・ゲート】へ潜る冒険者を管理、統括する組織のギルド。その本部は王都に居を構えており、ギルドマスターの部屋ともなれば豪華絢爛な調度品で溢れている。

 そんな貴族もうらやむ部屋へ遠慮なく入ってきたのは、ギルド幹部へ新しく昇進したライラ・ベッカーという少女だ。

 彼女の父親は伯爵であり、典型的なコネでの昇進だが、ギルドマスターは異議を唱えるようなことはしなかった。

 なぜなら、ライラは絶世の美少女だったからだ。


「ヨシュアのクランが十七階層に到達したって報告がありましたー」


「そうか、順調だな」


 北方の小国の騎士だけで構成されたヨシュアのクランは、迷宮を攻略する者たちの中でも頭ひとつ抜けた力を持っている。今回の記録は、クランとしては【明けの明星】に続いく二番目の到達であり、彼らの実力を証明する形となった。


「【明けの明星】の奴らは人魔大戦の経験者だし、ヨシュアは騎士だって言ってたし、やっぱり兵隊さんは違うんですねー」


 気の抜けたライラの意見に苦笑する。

 冒険者たちも決して弱いわけではないのだが、迷宮を攻略するには何よりも経験が問われるのだ。

 特に魔物と戦った経験があるかどうかで、出足の早さには大分さが出てしまう。


「まだ国王陛下の勅令がでてから半年しか経っていないんだ。【明けの明星】もヨシュアも、迷宮に入り始めて二年以上でこの記録だから、差があるのも当然だろう」


「でも、ヨシュアより強い冒険者なんて聞いたことありませんよー」


「おいおい、そいつはひいき目ってもんだろ」


「私のダーリンは最強なんですー」


 そう、ヨシュアとライラは先月に入って婚約を結ぶことになった。

 結婚の条件はヨシュアのクランが最速で二十階層へと到達すること。【明けの明星】というライバルがいるので簡単なことではないが、彼らの実力を考えれば不可能というわけではない。

 伯爵としても、迷宮攻略を成し遂げた者の義父という立場を手に入れたいのだろう。

 そんな意図がこの条件からは透けて見えていた。


「まあ、最強ってことはねえよ」


「えー? ダーリンより強い人がいるんですかー?」


「そう聞かれると微妙だな。あいつくらいになると、もはや人間と呼べるのかってレベルだし……」


 ギルドマスターは少しだけかつての友人に思いを馳せた。

 きっと奴なら誰も到達していない階層を、次々に突破しているはずだ。もしかしたら、高位の悪魔が出るあたりまで行っているかもしれない。


「生きて帰れよ」


 なんとなくそう呟いた。


「え、なにかいいましたー?」


「何でもねえよ」


 今日もギルド本部は平常通りに業務をこなしている。 

 王宮で提出する書類を作るため、ギルドマスターは再びペンを握るのだった。



◆◇◆◇◆



 男はアスタロテの十八本の腕から繰り出される攻撃を前に劣勢を強いられていた。

 銀のナイフを宙に浮かせ、術者を守るように動かす高等魔術。それを十本も発動しているために、なんとか押し切られずに済んでいる。

 しかし、男から仕掛ける攻撃には、ことごとく手痛い反撃をくらってしまう。

 力も速さも負けてはいるが、手数で負けているのが一番大きい。

 このままではすぐにやられてしまうだろう。


「ほらほら、さっきの威勢はどうしたのだ」


 男が攻勢に出ていたのは、剣を投げつけ意表をついた後の少しだけ。

 それからは常に防御に徹し、アスタロテの体には未だ傷一つ付けることができずにいた。


「ふむ、ひれ伏せ」


 アスタロテが言葉に魔力を乗せたが、男の魔力抵抗はそれを受け付けない。


「俺から離れろ」


 逆に男が放つ魔法もまた、アスタロテには効かなかった。


 お互いに格闘による戦いに限定されたが、かといって魔法や魔術を使わないわけではない。

 男の身を守るのは魔術であるし、アスタロテが筆から繰り出す軌跡は空間を削りとって、男を亜空間へ飲み込もうとしてきた。


「失望したぞ、人間。もっと朕を楽しませてくれると思ったのだがな」


 アスタロテは勝利を確信したが、攻撃の手を弱めるようなことはなかった。むしろ激しさは増していくばかりで、男の命運もここで尽きたかに思えた。


「アハトとテイシャがあって、それだけだと思うか?」


「なに?」


 アスタロテが全力をもって男へ挑みかかる中、突然男は腕を止めた。

 守備をすべて魔術にまかせた形となり、男の体には防御をすり抜けた攻撃により傷が増えていく。

 男はそれに構わず、左腕で右腕の傷を抉った。


「まさか、シュシュの禁術まで!」


 右腕から流れでた血液が、周囲に血だまりを作る。

 アスタロテが後ろへ飛び跳ねると、すれ違いに血で出来た槍が現れた。あと少し遅れていれば、串刺しになっていたことだろう。

 男は残念がる様子を見せず、その槍を掴んで三度振った。

 固まりきらぬ血液が飛び散って、そこでまた針のように突き刺さった。


 吸血鬼の呪法を人間の理屈に落とし込んだ禁術は、アスタロテに警戒を抱かせるに足るものだ。

 相手の体にもぐりこんだ血液は、体の内側から敵を破壊する。

 理に適っていると、アルタロテは納得した。

 血で出来た武器を一撃受けるだけで、勝負が決まるといっていい。手数に劣る男が勝つための一発逆転の手段。そのためにためらいなく自傷してみせた男の精神は、人間というより悪魔に近いのかもしれない。


「なるほど、面白いではないか!」


 剣聖の真似のつもりか、男はしきりに槍を振って血を飛ばしてくる。

 流石に鬱陶しい。

 血液を空間の亀裂で吸い込みながら、十六本の武器のうち一つを投擲した。

 音速を優に超えたそれは、男を守護する銀のナイフによって阻まれる。


 今度は男の番だった。

 血槍を両手で握りなおすと、一瞬のうちに四度の突きを放つ。その内三つは完璧に防がれたが、一つはアスタロテの武器を一つ打ち砕いた。


「シュタイムの槍術まで! 朕にはようやく貴公の正体がわかったぞ。しかし、これは妙な話だ。奴らはすでに定員に達したのではないのか? それなのに、なぜ貴公は……」


 男は再び同じ技を放ったが、今度は一瞬のうちに五度の連撃だ。

 アスタロテは三つを防ぐが、二つの武器を失う。


「どうせ死ぬ奴に教えてもしょうがないだろう?」


 六度の突きによって、三つの武器が砕けた。


「そうか、朕はまたも神の先兵によって破れるのか」


 七度の突きによって、三つの武器が砕けた。そして、ついに血槍の穂先がアスタロテの肩を貫いて、大悪魔の体内を破壊していく。

 アスタロテの体が崩れる。


「人類にとって十年来の因縁が、こうも容易く消えるのか。悪魔にとって十兆年の歴史がここに終わるのか。神にとって永劫に立ち塞がるはずの宿敵が、こんなところで!」


 かつては悪魔王と呼ばれた大悪魔の怨嗟が呪いとなって放たれる。地獄の闇よりも黒いく深い呪いは男へと群がって、そして消えていった。

 テイシャの肉を食べた者は、その業の深さ故に呪いが一切かからない。その代わりに、本来は人に無害な浄化の術が効くようになってしまう。もっとも、悪魔や魔物は浄化を使えないので、なんら問題はないのだ。


「神はお前のような雑魚を気にもとめていない」


「くそっ、朕が消えていく。朕の記憶が消えていく。朕の……」


 アスタロテのバラバラになった身体は地獄の炎によって燃え上がり、黒い火花を散らして跡形もなくなった。

 迷宮の奥で人知れずに滅びるという、大悪魔にしては呆気ない最期だ。


 男はアスタロテが消滅した場所をしばらく見つめると、ただ一つ残った筆を拾ってポーチの中へしまった。


「神とはなんだ。悪魔とはなんだ。人間とは……なんだ」


 男は下へ続く階段へ足を踏み入れた。



◆◇◆◇◆



 大迷宮【アビス・ゲート】、地下十七階。

 最も迷宮攻略に近いクランと呼ばれる【明けの明星】は、十八階へ続く階段を前にして、身動きが取れない状態が続いていた。


「ああ、もう。なんでこんなところにヴァンパイアがいるんだよう」


 黒目黒髪の若い女性がぼやく。

 彼女こそが【明けの明星】の二代目団長にして、カササギ流の筆頭剣士イチカ・ムラサメだ。

 彼女の父は極東で姫巫女から預言をうけ、単身カーディフ王国へ士官したという異色の経歴を持っている。【明けの明星】は第二次人魔大戦における彼の小隊が元になっており、父を追ってカーディフの地へ訪れたイチカが引き継ぐことになった。

 彼女の剣技の冴えはすでに父を上回っており、それが迷宮探索へ活かされているのは言うまでもない。


「はぁ、団長が行き遅れたせいで……」


「殺すぞ」


「すいません」


 王室付きの預言官曰く、大迷宮にて悪魔が現れるのは地下二十五階から。ヴァンパイアのように末端でも中位に分類される悪魔は、間違ってもここに居ていいはずがない。

 しかし、目の前にはまぎれもなくヴァンパイアの姿がある。

 理由は分からないが、階段の前に立たれては避けようがない。


 世界一有名な悪魔なだけあって、ヴァンパイアの放つ威圧感はこれまでの魔物とは別格だ。

 隠れて見ているだけでも鳥肌が立つ。


「むう、この戦力で挑めるか?」


 イチカは団員を見回して、


「はぁ」


「あ、ため息ついた。お前らを見てため息ついたぞこいつ!」


「さりげなく自分を抜くな馬鹿」


 今までが順調だったせいで、油断していたのかもしれない。

 ここは魔に属するものたちの領域であって、地上の常識が通用するとは限らないのだ。


「ご、ゴホン……なんだ」


 クランでも最高齢のベテランが、周囲の視線を集める。

 彼が何かを主張することは少ないが、それだけに言葉には重みがあった。今回も行き詰った状況を打開する案が出るのかと、団員達は期待を寄せた。


「俺たちは何を目標としていた?」


「……」


「それを考えたなら、あの程度の悪魔を恐れてもいられんだろう」


 ベテランの言葉は【明けの明星】の心に火をつけた。

 彼は決してクランの中で見ても強いわけではない。だが、豊富な経験と心の強さでは、誰にも負けないものを秘めていた。

 今回もまた、彼の度胸に助けられたのだ。


 団員達は各々の武器をとると、団長へ視線を向ける。

 興奮の度合いが高まって、団長の次の言葉を期待していた。


「よし、準備はできているみたいだね。いくよ!」


『了解!』


 冒険者の間で最強と名高いクランが、中位悪魔のヴァンパイアへ牙をむく。

 十八階層へ続く階段をめぐり、戦いの火蓋が切って落とされた。



◆◇◆◇◆



 そこは静かで冷たい場所だった。

 九十九階層。

 魔王スルトの封印があるという百階層まであと一つと迫っているのに、それを守護する悪魔も魔物も見当たらない。

 全面が鏡のようになっていて、合わせ鏡はどこまでも深く続いている。

 地面が地面に見えず、カンテラの明かりが何倍にも増殖していた。


「これは……」


 アスタロテとの激闘でも表情を変えなかった男も、この異様な空間には面食らう。

 鏡の中の自分の姿を見つけ、今度は鼻を鳴らした。


「酷い姿だ」


 身体のあちこちから血を流し、始めは身につけていた重装は、足の部分しか残っていない。武器の残りは銀製のものしかなく、魔法や魔術以外の用途としては心細い。

 それに、自慢の金髪は色が抜け落ち、白髪の先端が血に染まっている。


「ん?」


 ふと、おかしなことに気が付いた。

 鏡の向こうは相変わらず満身創痍だが、こちらの自分の傷は全て消えていた。あれだけ深く抉った右腕も、完璧な状態に戻っていた。


 鏡の自分は銀のナイフを構えると、二人を隔てる境界へ突き立てた。


 ガラスが割れる。

 世界が割れる。

 境界が割れた。


 鏡の全面にクモの巣のような亀裂が走り、そこから傷だらけの男が飛び出してきた。


「俺は、まだ、死なねない」


 向こうの自分がそう言った。


「知っている」


 こちらも短く返す。


 視線がかち合った瞬間に、こいつは敵だと理解した。

 この世界に俺は一人でいい。

 お前は消えろ。


 突発的に始まった戦闘。

 先手は敵がとった。鏡を割った銀のナイフをこちらに投げつけてくる。


「迂闊だな」


 アスタロテがそうしたように、男もナイフの刃をつかみ取った。右手から赤い血が流れたが、傷口はすぐに塞がってしまう。

 敵は新たなナイフで切りかかってきたが、難なく受け流す。


 自分と同じ顔の敵は、精細を欠いた動きで何度も挑んできた。

 その度に男はナイフをはじき、受け流し、そしてカウンターを入れる。数分の立ち合いで、敵の傷は十数か所も増えた。


 戦いを圧倒的ともいえるほど優位に進めていたが、男の心は晴れなかった。

 仮にも魔王への冒険の最後の試練が、こんなに容易いものでいいのだろうか。これならまだ上階で戦ったアスタロテの方が何倍も手ごわかった。


「そもそも、なぜ俺の傷は治ったのだ」


 理屈に合わない。

 違和感が先行する。


 変則的な動きに切り替えた敵を、速さでもって蹂躙する。

 手を、足を、確実に潰していく。

 敵が自分と同じ素体なら、手足を失った程度では死なない。しかし、心臓にナイフを突き立てれば簡単に倒せるだろう。


「お前にはなぜか分かるか?」


「ああ」


 自分の顔で、自分の声で、その男は断言した。


「ならば言ってみろ」


「簡単だ。お前は俺の偽物なのだからな」


 偽物?

 何を言っているのだ。


「俺は生きているぞ。この魂はまぎれもない本物だ」


「いいや、違うね。お前は俺と意識の連続性があるだけで、この迷宮が生み出した防御機構の一部に過ぎない」


「違う、そんなはずはない! それが本当だというのなら、俺の名を当ててみろ! お前が本物だというのならば、その程度は造作もないはずだろう!」


 敵はニヤリと笑う。


「お前の名は――」



 男は敵が告げた名を聞いて、自らが偽物であることを認めた。

 この試練の本質は、負けることにあったのだ。

 もう一人の自分と問答をして自分の正体を認めることで、迷宮の仕掛けた悪意に打ち勝つことができる。


「……確かに俺は俺ではなかったらしい。さあ、この心臓を突け! そして、お前が魔王の心臓に十字架を刺すのだ!」


 血だらけの男によって、偽物は銀のナイフに貫かれた。

 階層を覆っていた鏡が一斉に砕け散ると、あたりは闇に覆われた。



◆◇◆◇◆



「……やったか」


「やったみたいだな」


「……」


『うおっしゃああああああああ!』


 灰になったヴァンパイアを取り囲み、【明けの明星】の団員たちは歓声をあげていた。


 結果だけを抜き出して言えば、楽勝の一言に尽きる。

 動きも鈍く固有魔法も使ってこない。確かに身体能力は驚異であったが、逆に言えばそれだけだ。

 【明けの明星】の高度な連携を前にして、ヴァンパイアは成す術もなく倒されたのだった。


 喜びをあらわにする団員たちの輪から、イチカはそっと離れた。

 戦いの前に仲間を鼓舞したベテランが、そんな団長の様子に気が付く。


「どうした、団長が暗い顔をしていては、部下が心配するぞ」


「え、ああ……うん」


 イチカはベテランの男へと自分が抱いた懸念を伝えた。


「中位悪魔にしては弱すぎる、か。なるほど、確かに団長殿の言う通りだな。私が十二年前に戦った悪魔は、こんなものではなかった」


「それに、あのヴァンパイアが言っていたことが気になるんだ。『く、また人間か。俺様をそんなに殺したいか!』なんて。まるで僕たちの前に、人間と会ったみたいな口ぶりだった」


 イチカは暗に「自分たちの先をいく冒険者」の存在に触れた。

 彼女は【明けの明星】が迷宮攻略の最先端だと信じていたので、余計にヴァンパイアの言葉が気にかかったらしい。


「それこそ十二年前のことを言っていたのかもしれん」


「今までだって、先に人がいた痕跡は見つかってたよね。みんなは見間違いだって言っていたけれど……」


 もしも、自分たちの先をいく冒険者がいたのだとしたら。

 その冒険者とヴァンパイアが戦ったのだとしたら。

 傷ついたヴァンパイアが、十七階層まで逃げてきたのだとしたら。


 イチカの中で点が線へとつながった。


「やっぱり、私たちの前にはいるんだよ。きっと、ここにいる誰よりも強い人が」


「……」


 盛り上がっていた団員のひとりが、イチカとベテランが話しているのに気が付いた。

 その団員はこの遠征の前にクランへ入ったばかりなので、他の団員よりもイチカと年齢が近かった。それだけでなく、態度がもっとも図々しい。

 例のごとく、雑な絡み方をしてきた。


「なー、団長。俺むっちゃ活躍してたよな?」


「あ、ああ」


 団長ともなると、団員をほめて伸ばすのも仕事のうちだ。

 イチカは父の教えに従って、ぎこちなく頷いた。


「なら、頼みがあるんだ」


「なんだい?」


「けけけ……」


「け?」


 同じ音だけを発しているが、呪文かなにかだろうか。

 身長に様子を伺っていると、


「結婚してくれ!」


 プロポーズをされた。

 だが、イチカの答えは決まっている。


「だめだ」


「な、なんでですか!」


 いつの間にか敬語になっている。

 初心な新入りを不憫に思ったのか、他の団員がフォローに入る。


「ああ、お前知らなかったっけな。団長は自分より強い男としか結婚しないって決めてるんだよ。そのせいで親父さんの縁談を全部断って――」


「もう、今この話は良いだろう!」


 イチカはぷりぷりと怒るとそっぽを向いた。

 新入り団員は先輩の話を聞いて絶望する。彼が団長に勝つことなど、百年たってもできそうにはないからだ。


「そんなんだから婚期を逃すんだぞー」


「おい、今婚期逃すとか言った奴は誰だ。私が相手になろう」


 騒がしい仲間たちを眺めながら、ベテランの男はため息をついた。


「この先で冒険者に追いついたら、求婚する気じゃ無いだろうな……」


 なんだか団長ならやらりそうな気がして、ベテランの男は頭痛がし始めていた。



◆◇◆◇◆



 エディカ王国北方の寒村。

 農耕に向かないその土地では、常に貧困と隣り合わせだった。


『おい、このままじゃ全員飢え死にだ。またあれをやるしかない』


『今度は誰にする?』


『エイダに息子がいただろう』


 大人の会話を聞いてしまった少女がいた。

 あれが何かは分からなかったが、とにかく良くないことだとは思った。少女はエイダの息子のもとへ走ると、彼に大人が話していたことを伝えた。


 翌日、エイダの息子が村から消えた。

 大人たちは怒り狂い、彼の母親――エイダのことを責めた。


『我が子かわいさに逃がしたのか。それは村の掟に反する』


『違います、私は何も!』


 大人たちはエイダの首を絞めると、身体を切り分けて村中に配った。

 息子の代わりに、母親が犠牲になったのだ。

 エイダの息子がそのことを知ったのは、彼が村を出て三日後の夜だった。


『お前の母親がしんだぞ』


 闇の中に浮かび上がった口が、知りたくもないことを次々と告げる。


『お前の代わりに死んだのだ。お前が逃げたから死んだのだ。お前の母親はお前のことを庇わなかった。お前の母親はお前を愛していなかった。お前の母親は首を絞められて死んだ。お前の母親の死体は、村中に肉として配られた。よかったな、お前のおかげで村は餓死せずに済むだろう』


『うるさい!』


『……憎いか?』


 口は笑っていた。

 笑いながら提案した。


『お前が望むのなら、お前の母親を食べた者に復讐してやろう』


 そうして彼は、悪魔の提案を受けたのだ。


 悪魔は村へたどり着くと、真っ先に村長の家を訪ねた。

 無断で家の中へとあがりこみ、村長の中身を食べて、その皮を被った。悪魔は村長のふりをして、村人を一か所に集めると、彼らに穴を掘らせた。村人すべてをその穴に入らせると、穴に向かって油をまいて火をつけた。

 村人の悲鳴がこだまする。

 助けを求める村人へ、悪魔は笑いながら話しかけた。


『我の下僕になるのなら、そこから出してやろう。受けるものは右腕を左手で掴め』


 悪魔の誘いを受けた村人は、身体が膨れ上がったかと思うと、人とは似ても似つかない魔物に姿を変えた。

 その中には、エイダの息子を救った少女も含まれていた。


 この時の悪魔の名を、スルトという。



 エイダの息子は村人が異形の怪物へ姿を変えたのを見て、初めて自分の過ちを悟った。

 しかし、自分には悪魔を打倒するだけの力がない。

 彼は涙を流してその場を立ち去った。いつかその手で悪魔を葬るその時を信じて。


 それから第二次人魔大戦が始まると、彼は傭兵の組織【リーグ】に所属して、ひたすら戦地に赴いた。

 数多の戦場が彼を成長させ、周囲からも一目置かれるようになった。

 数百の魔物を切り伏せ十数の悪魔を葬ったが、目的のスルトには程遠く、彼の焦りは日を追うごとに強くなった。


『カーディフの王都を魔軍が責めているらしいぞ』


『なに? 奴らはエディカとカーディフの国境で足止めをしているのではなかったのか!』


『なんでも、国境の軍とはまた別らしい。噂では魔王スルトもそこにいるという話だ』


 彼は傭兵仲間がしていた話を聞くと、単身で王都へ向かった。

 第二次人魔大戦において、最も人類側が苦境に立たされた時期。その決定的な状況を作り出した戦場へ、彼は赴いたのだ。


 王都へたどり着くと、すでに正門は破られていて、市街地で近衛騎士が魔物を食い止めている状況だった。

 彼は魔物の溢れる正門に飛び込むと、たちまち六体の魔物を斬り伏せた。


『スルトよ、俺のことを覚えているか!』


 そう叫びながら魔物を蹴散らしていく彼につられ、近衛も勢いを取り戻す。

 しかし、王都へ流れ込む魔物の数は変わらない。


『もはや王都は捨てるしかあるまい。そこの御仁、我らが魔物を食い止める故、市民の避難を手伝ってはくれぬか』


『市民? 国王はどうした』


『陛下は勇敢にも防壁の上で指揮をとっておられたのだが、スルトの奴によって討ち果たされてしまったのだ。門が破られたのも、空より来たるスルトによって、内側から攻められたからだ』


『お前のいうことは分かったが、その頼みを聞くわけにはいかない。俺にはスルトを討つという使命がある』


 彼は近衛と問答をして、ついには近衛側が折れた。

 それどころか、魔王へ挑むために兵を融通してくれた。


 こうして王都を巡る戦いで、最後の希望とも言える強襲隊は、彼の指揮に託された。といっても、魔王へ向けて突撃をするだけだ。

 早速兵を預かると、彼は西門を迂回して、魔軍の陣の横腹に襲い掛かる。

 やじりのような隊列で進む強襲隊は、櫛が欠けるように数を減らしたが、彼だけはなんとか魔王の眼前へたどり着くことができた。


『久しいな。あの時の子供ではないか。もう青年と言っていい年頃だ』


『無駄話をしている暇はない。死ね!』


 彼の人生で三指に入る鋭い突きは、あまりにもあっさりと避けられた。

 驚愕する彼に向かって、魔王は嘲笑を浴びせかける。


『その程度で我に敵うとでも思っていたのか? お前は英雄ではない。真の英雄は悪魔の手などはなから借りぬ。まあ、まがい物にしてはよく頑張った。その努力に免じて、今回だけは生かしておいてやろう』


 スルトに斬りかかるが、三合と持たずに剣をはじかれた。

 死を覚悟して目を瞑る。

 スルトが放つ波動が身体中を通り抜け、彼は意識を失った。



 彼が目を覚ましたのは、カーディフ王国西部にある神殿の中だった。

 豚の仮面をつけた神官が彼を見下ろしている。


『起きたか』


 神官は神からの啓示をうけて、彼を戦場から連れてきたのだという。

 あの後に王都が陥落したことで、スルトはそこを居城と定めた。

 国境にいた王子は挟撃を避けて、隣国のホルム共和国へと軍を動かした。そのためこの神殿も安全とは言えない。

 だが、ここにいる間はかくまってくれるそうだ。


『俺はスルトを……』


『今のお前では無理だ。私は主よりお前の短慮をいさめるようにも命ぜられている』


 彼は王都で手も足も出なかったことを思い出して、しぶしぶながらも神官に従った。


 神殿で修業に明け暮れる生活を続けること一か月。

 ある時、豚の仮面の神官は彼を呼び出すと、唐突に手首を噛み千切った。駆け寄ろうとする彼を魔法による結界で拒み、とうとうその命を落としてしまう。

 力なく倒れる神官。

 その頭上から、神聖な光が降り注いだ。


『汝、復讐を望むか』


 頭の中に直接声が響く。


『ああ、俺は俺を生かしたスルトへ後悔させてやりたい!』


『ならば、そこな使徒の肉を喰え』


 声が意味することを理解するのに少々の時間を要した。

 理解してからも、抵抗があった。


『これは試練。神の手をとるというのは、こういうことと知れ』


『しかし』


 彼は声の正体を直感していた。


『神はこんな残酷な仕打ちをするのか』


『人間の常識など知らんな。さあ、喰え。さすれば、お前を十三番目の使徒として迎え入れよう』


 彼は散々悩んだ挙句、神の提案を受け入れた。



◆◇◆◇◆



「さて、これで分かっただろう。お前が頼った神がしていることは、我と何も変わりがない」


 鏡が割れたことで、九十九層と百層がつながった。そして、それが魔術の引き金だったのだろう。

 思い出したくもない過去を蒸し返されて、男は機嫌が悪い。


「そうだ。神は悪魔となんら変わらない。だが、それがどうした。神が俺を裏切るというのなら、その時はまた復讐をするだけだ」


「神への復讐など、この我を除いて誰が手を貸すというのか」


「本体を八つ裂きにされ、心臓を封じられ、幻影を喋らせるのが精いっぱいのお前が? 冗談もほどほどにしろ」


 男は銀のナイフを構える。


「待て、呪われた十三番目の使徒よ」


「俺は神に魂を売ったんだ。あきらめろよ」


 幻影は必死に呼びかけるが、男は聞く耳を持とうとしない。


 魔王スルトの霊廟には、百八の封印が施されている。

 その中で最も強力な封印は、銀製の鎖で貫いて、その端を銀で固定する方法だ。二百年は持つと言われていたが、留め具が半分抜けかかっていた。

 四英雄の一人、賢者ハロルドが提唱した方法だったが、本人でなければ正しく扱えないということか。

 アスタロテがいなければハロルドも生きていただろうに。


「ひとつ」


 留め具を破壊して、銀のナイフに差し替える。

 心臓から伸びる鎖は五つ。

 三本なら六つのはずだが、これはどういうことだろうか。

 何やら複雑な措置が取られていることだけは分かった。


「ふたつ」


「やめろ、考え直せ」


「みっつ」


「ここで封印を直したとしても」


「よっつ」


「我は必ず復活するぞ。何年かかろうが、何百年かかろうが、必ず復活してみせる! お前ら人間が我の存在を忘れ去った時、必ず地上を地獄へと変えてやる!」


「……いつつ」


 男が最後を差し替えると、スルトの幻影は闇の中へ溶けていった。

 溢れ出る瘴気を止めることこそできなかったが、これで百年は封印も持つはずだ。百年も後になれば冒険者もここへ到達するかもしれない。

 男の十三番目の使徒としての仕事はこれで終わった。

 そう、終わったのだ。


「神よ、見ているか」


 男は頭上を見上げて叫ぶ。


「お前の言っていた通り、封印を補強してやった。そして、俺も満足だ。約束を果たす時間が来たぞ」


 約束――それは、男が特別に神と交わした契約だ。

 使徒となりスルトに復讐をして、それを成し遂げたなら――


「俺を殺してくれ」


 使徒は人間とは別の生物だ。

 永劫の時間を神のために過ごし、もはや寿命の概念から解き放たれている。彼がこれほどの傷を負っても生きているのは、死ねないからというのがしっくりきた。

 だが、彼自身はそれを望まない。

 スルトへ復讐はしたかったが、永遠に生き続けるなどもっての外なのだ。


『悔いはないな』


「ああ」


 天からの光が降りてくる。

 身体に光が沁みていき、全ての感覚が薄れていく。


「ろくな人生じゃなかったな……」


 視界は真っ暗、音は聞こえない、宙に浮いたように感覚が失せた。

 そうか、ようやく俺は死ねるのか。

 長くて、痛いし、疲れたし、辛かった。

 もしも来世があるのなら、もっとましな人生が送りたい。


『だめだよ』


「誰だ」


 荘厳な神とは別の、若い少女の声。

 どこかで聞いたことがある気もするが、はて。


『忘れちゃったの?』


「もう少しで思い出せる気がする」


『あはは、あの時となんにも変ってないね。でも、安心した』


「君は誰だ」


『死なせないからね。勝手に満足して、それで終わりなんて、私が許さないんだから。だから――』


 生きて。


 その声には不思議な力があった。

 透き通るような響きが、彼の心を動かした。


「教えてくれ。君は!」


『じゃあね――私の初恋の人』



◆◇◆◇◆



 男の眉がぴくりと動いたのを、イチカは見逃さなかった。


「あ、起きた」


 まだ体が痛むのか、苦しそうにうめいている。

 男が目を開けた。

 顔を覗き込んでいたイチカと目が合う。


「大丈夫ですか?」


「あ、ああ……ひとつ質問していいか?」


「なんでしょう」


 男は大袈裟に息を吸って、


「なぜ俺は君の膝の上で寝ているんだ?」


 そんな大したことのないことを聞いてきた。


「なんだ、そんなことですか。これは極東で恋人――ゴホンッ。失礼、極東では病人に行われる一般的な治療方法なのです」


「……」


「……」


 気まずい沈黙が訪れる。

 まずい、受け答えを間違えたかもしれない。

 イチカはこの場をごまかすために、男のことについて話し始めた。


「それにしても、驚きましたよ。私たちのクランが一番早く迷宮を攻略していると思っていたのに、十八階層に降りて早々あなたが倒れてたんですから」


 この話題そらしは功を奏して、男の関心をそちらに移すことに成功した。

 これで当分は膝枕を続けられるだろう。


「ここは十八階層なのか?」


「ええ、そうですよ。ちなみにあなたの傷を治療して、今まで看病していたのは私です」


「あ、ありがとう」


 男は何かを考え込んでいる。

 しまった、少しがっつきすぎたかもしれない。


「君の名前は?」


「私はイチカ・ムラサメ。独身です。それで……あなたのお名前を……」


 男は困ったように笑う。


「俺は、そうだな。ティムとでも呼んでくれ」


 ティムはかっこつけてそう名乗ったけれど、タイミング悪くお腹がなった。もちろんイチカのではない。

 ティムは驚いたような顔をして、それから声をあげて笑い出した。


「はは、俺は生きている。そうか……人間だもんな。腹ぐらいへるか!」


「な、何を言っているんです?」


「いや、なんでもない。ただ、頼みがある」


 こ、これはチャンス。

 イチカは内心で舌なめずりをする。

 これで恩を売りつけて、その内既成事実に……


「なんでも仰ってください」


「食べ物がほしい」


「分かりました!」


 イチカは飛び上がると、キャンプへ戻って食料を漁りにいった。

 ちなみに、ティムはイチカが起き上る時に首を痛めた。



◆◇◆◇◆



 ギルドマスターは普段より早く仕事を切り上げると、一階に併設された酒場へと直行した。

 彼の旧友である【悪魔殺し】の異名を持つ冒険者と、傭兵時代の思い出話をする約束があったからだ。


「そんな、僕はこんなにも君のことを愛しているというのに!」


「負け犬は引っ込んで下さいー」


 受付で不穏な会話が聞こえてきたが、そんなものには関わらない。

 とにかく今は、早く旧友の顔が見たかった。


 簡単な仕切りを乗り越えると、酒場を仕切るマスターに怒鳴られた。

 一応俺が上司だよな、なんてぼやきながら店内を見渡す。幸いすぐに目当ての人物は見つかった。


「よう、ティム。最速で二十階層に到達おめでとう。流石は【悪魔殺し】だな」


「おいおい、その恥ずかしい呼び方はやめろ」


 旧友――ティムはそう言って頭を掻く。

 それにしても、しばらく見ないうちに随分と丸くなったものだ。

 以前は誰に対しても棘があって、限られた人間としか話もしなかったが、今ではそんな雰囲気はどこにもない。


「いやあ、これでも驚いてるんだぜ?」


「なんだ? 俺がクランに入ったのがそんなに珍しかったか」


「そらそうだわな。しかも入ったのは【明けの明星】ときたもんだ。いったいどんなコネを使ったんだ? いや、お前がコネを使ったとかじゃなくて、【明けの明星】がお前をどう口説いたか気になったんだ」


「ん?」


「一匹オオカミだったお前を仲間に入れたんだ。【明けの明星】がお前にコネを持ってるのかと思ってな」


 ティムは快活に笑うと、テーブルの下から右足を出してきた。


「こいつだよ」


「……なんだ、そりゃ」


 彼の脚には人間らしきものがしがみついていた。

 黒髪で、女物の服。

 どこかで見たことがある気がする。


「団長直々に頼まれたんだ」


 ギルドマスターは混乱した頭を整理して、余計に混乱した。

 【明けの明星】の団長、黒髪の女、そんなのはイチカ・ムラサメ以外にはいない。

 こんなことは予想外を通り越してあきれてくる。


「どうも、妻のイチカです」


 足に巻き付いたソレがおかしなことを言った。


「おい、嘘をつくな」


 ティムがすかさず否定した。


「驚かすなよ。お前が所帯を持つとか天地がひっくり返ってもないって信じてたんだぜ」


「おい、俺だって結婚くらい考えたことはある」


「そんな、私に隠れて浮気を!?」


「もうお前は帰れっ!」


 仲のいい二人を見ていると、くっついてしまえと思わなくはない。

 ただ、自分よりも先に嫁を持つというのも気にくわない。

 そんな微妙なオヤジ心に揺れ動く。


「それで、お前はどうなんだ? そろそろ腰を落ち着けてもいい時期だろう」


 急に冷静になるティム。

 ギルドマスターは彼と肩を並べて戦っていた頃の感覚を思い出した。どれだけ雰囲気が変わろうとも、その本質は変わっていないらしい。


「ふふふ、実は一人だけ目星をつけてある」


「お、誰だ?」


「それがな、ギルドのスタッフの一人で――」


 ライラ・ベッカーとヨシュアの縁談がなくなった。

 彼らの結婚の条件としてベッカー伯爵が提示したのは、ヨシュアのクランが一番先に二十階層へ到達すること。

 これはヨシュアのクランと【明けの明星】の攻略速度を比較すれば、決して非現実的な話ではなかった。実際、恋に目覚めたヨシュアの活躍で、今にも逆転するという所まできたこともあった。

 しかし、あと少しという所で【明けの明星】に強力な戦力が加入した。


「ほんとにお前には感謝してるぜ。お前が入ったとたんに十九階層、そうかと思ったらもう二十階層にきちまった。おかげで俺にもチャンスが巡ってきたってもんよ!」


「お、おう」


 世の中はどんな巡りあわせがあるとも分からない。

 悪魔に魂を売ったかと思えば、神に魅入られる男もいる。それが英雄顔負けの活躍をすることもあれば、人知れずに死んで行くこともあるだろう。

 世界は広くて、そして狭い。


「こうしてられるって、幸せなことだよな」


 二人|(三人)で酒を飲んでいると、突然ティムが呟いた。


「お前らしくもないな。そんな感傷的な言葉は」


「いいじゃねえか。俺だって詩的なことを言いたい時はあるんだ。例えば――」


「幸せだってか?」


「そう、それ。俺はこうして生きてるだけで幸せだよ」


 ティムはそれを、どこか遠くにいる人物に話しているようだった。

 ギルドマスターはティムの視線を追ったが、そこには天井のしみしかない。一体どこを見ているのやら。


「よし、しんみりしたのは無しだ。今日は飲んで飲んでのみまくるぞ」


「おう!」


「はい!」


 夜はまだまだ長く、再会した友人同士の話は尽きる気配を見せなかい。

 若干一名を加えた三人はいつまでもそこに居座ると、酔いつぶれるまでくだらない話に華を咲かせていたという。

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