ヒトリさんと合気道
「ヒトリさんって、何か武道とかやってた?」
帰り道、ふと気になってそう尋ねると、ヒトリさんは首を横に振った。
「何もしてないけど……どうしたの?」
「叩くときに『きぁ』って言うから、何か心得あるのかなーと。ほら、空手の
ふーん、とヒトリさんが唇に指を当てる。心当たりを思い返しているようだった。
「なんとなくの掛け声よ。特に理由はないわ」
「『よいしょ』とか『おりゃ』と同じ感覚?」
「そうね。涼士はどうなの。何かやっていた?」
「小学校の時に空手を少しだけ。あとは合気道かな」
「合気道!? すごいじゃない!」
ふんす、とヒトリさんが興奮した様子で僕の腰元を叩く。
「合気道が?」
「すごい武道じゃない。小さな老人や細腕の女性が男性を無力化できる。もしペンギンが合気道を修めていたら、自分より大きな
ペンギンがあの
「前に習おうと思ったのだけど、近くに教室も道場もないから諦めたの。そもそも、ペンギンみたいに外敵がいるわけでもないし」
「まあそうだよね。人間社会ではなかなか――――」
ガッシャン! と前方で自転車が荒々しく倒された。ヒトリさんが飛び上がる。
目を向けると、スーパーから飛び出した男性がこちらへ向かって走ってくる。それを追う焦り顔の店員さんが叫ぶ。
「万引きだ! 捕まえてくれーッ!」
「――ヒトリさん、建物側に寄って」
ヒトリさんを一歩追い抜いて、素早く息を吸った。
体を斜め向きに。顔はまっすぐに正面を見据え、目を逸らさないように意識。肩は脱力、体は軽く、思考は冷静に。
走ってくる男性とすれ違うその一瞬、手首をいなすように掴み、自分を軸に引き回した。相手の走る力を流用するため、軸足をブレないようにするだけで簡単に相手が振り回されてくれるのだ。
「どあぁっ!?」
地面に倒れ込んだ男性の手首を返し、肘を伸ばして地面に押さえつけ、膝を開いた腋に押し込む。一見すると簡単に振りほどけそうだが、こうなると圧倒的な体格差がない限り抜け出せない。
「転ばせてごめんなさい。でも、動くと痛くします」
実感を持たせるために少し体重をかけると、もがいていた万引き犯も諦めたようだった。後を追ってきた店員さんや野次馬の男性に取り押さえるのを手伝ってもらい、手を離した。店員さんが通報してくれたようで、間もなく近所の交番から警官が来るそうだ。
ヒトリさんを探すと、驚いた顔をして道の壁際で待ってくれていた。
「たぶん事情聴取があるから、先に帰ってて。ごめんねヒトリさん」
「涼士……すごいわね」
感嘆を表してか、ヒトリさんが小さく拍手する。袖が余っていてぽすぽすと柔らかい音が鳴った。
「咄嗟に押さえ込んだけど、本来は危ないからやっちゃダメなんだよね……ヤバい、怒られる……」
事件が起こったとき、正義感を振りかざした素人が出しゃばるのが最も危険だ。心得があっても、所詮は高校生に過ぎない僕が怪我もなく止められたのは幸運だった。仮に刃物を持っていたのなら、僕は即座にヒトリさんを抱えて彼に道を譲っただろう。
……いや、今回の場合は違ったかもしれない。
走ってくる万引き犯の顔を見たとき、彼の視線が僕の右側に動いた。そこにいるのは、他でもない僕の友達だ。
もしも、彼の頭にヒトリさんを巻き込もうという考えがあったとしたら。想像してしまって、蛮勇を行使した。
力は理性を削り取る。ナイフを持つと、それを振り回したくなってしまう。自分より弱い者なら巻き込んで、傷つけてもいいと思ってしまう。僕だって、たどたどしくも武道を修めていたからこそ取り押さえるという思い上がった選択肢を掴んでしまったんだから。
自戒し、強く
……ああ、でも、ひとつだけ自分を褒めるとしたら。
「よかった。ヒトリさんに怪我がなくて」
「こっちの台詞よ。…………ぁりがと」
騒然とした環境の中、マフラーに埋めた感謝の言葉を聞いたのは僕だけなのだろう。
ヒトリさんを先に帰して見送る。心配そうに振り返る彼女とすれ違うようにパトカーがやってきた。
さて……恐ろしいお説教の時間だ…………。
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