絶対に許さない

 慣れた廊下を一人で歩き、慣れきった扉を一人で開ける。

 外でのわたくしは何者にもなびかぬ孤高の女神。ここから先は一人の女。この場に立ち入ることは何者にも許さない。




 何年。何十年。あれからどれほど経ったことでしょう。あっという間だった気もするし、ずいぶんと長い道のりだった気もします。


 外の世界は相変わらずちょっとした騒乱だらけでせわしない。子が大分大きくなってきたのであらゆることを任せられるようになってきたのは、喜ばしいとみなすべき事項なのかただの不安事項なのか、分別に困る所です。

 注意して教育してきたから父親に対する執着はないはずだけれど、あの方とわたくしの血を引いているような化け物共をほんの少しでも信頼できるはずがないでしょう?

 本気で対立したらそれなりの被害は覚悟しないといけないかしら。ああ、次から次へと煩わしいこと。




 子どもが育ち、我が君はその分年を取りました。かつてのような、出会い頭に飛びかかってくる真似はもうしません。オイタのお仕置きに腕を折るような真似をしなくて済むようになったことは喜ばしいけれど、鎖につながなくても寝台に寝ていることが多くなったのは少し心配。だって寝たきりは死期を早めるもの。


「まだ諦めませんか、我が君」


 ご機嫌窺いにベッドまで歩いていって腰掛け、覗き込んで話しかけてあげると彼の身体が震える。

 頭の弱い我が君にもちゃんと伝わるように毎日毎晩仕込んであげた身体は、きちんとわたくしを主と認識しているのです。たとえその中であなたの心や魂がどれほど異を唱えようと悲鳴を上げようと、あなたを覆う殻はすっかり全部わたくしのもの。


 どこで感じてどこが嫌か。どこをどうやって噛んであげると鳴いて、どこをどのぐらいの強さでひっかくと泣き出すのか。

 全部全部、あなた以上に知っているんですよ。わたくしはあなたのお世話係ですから、当然ですね。


「子までなした仲ですのに、未だに我が君はわたくしを愛してくださらない。本当に、憎らしい。けれどその強情が愛おしくてたまらない」


 軽く挑発するように声をかけてあげれば、わたくしを無視しようとしていた瞳に光が灯り、こちらを暗く見上げてくる。


「愛している――愛している? 私は認めないぞ。こんなものが愛などと」


 それだけでわたくしの身体も震える。ぞくりと甘いうずきが脳天からつま先まで駆け抜けていく。

 ああ、こんなにもわたくしを満足させられるのは、あなたしかいないというのに。


 我が君が唸るように発する言葉には、昔ほどの力はこもっていない。その代わりと言ってはなんですが、昔はさほど感じることのできなかった怨念のような情を感じ取ることができる。

 わたくしは嬉しい。この方がようやく少しだけわたくしに応えてくれるようになった証しだから。


「私はいつかここを出る。ここを出て――」

「わたくしでない者に愛されますか?」


 少し脅しを込めて声色を変えると、我が君は震え上がる。奇妙なことに、その一方でわたくしをにらむ眼光は強くなるのです。


「そうだ。お前が言った通り、かつて私は誰でもいいから愛してほしかった。誰でもいいから、私のすべてを受け止めて、受け入れて、言うことを聞いて欲しかった」


 かつてではなく、今もでしょう。

 あなたの世界は、収束してみればあの狭い国だったのです。あの国で望みの地位にいたかった。それがあなたの望みだったのでしょう。今でも捨て切れない愚かな野望なのでしょう。


 ご案じなさいますな、イライアス。あなたがこの部屋を出る? そんなことが万が一にでも起こりそうになったら、わたくしは首の骨を折る勢いでお前を絞め殺してあげますよ。誰にも渡しませんし、そもそもあなたの行きたい場所はもうこの世から滅んでおりますのに。


 結局、泥棒猫の末路をついにこの方に語ることはなかった。自分の故郷のことも我が君は話さない。時折何かを訴えるような目でわたくしを見るけれど、怯えた顔で口ごもる。

 薄々察してらっしゃるのでしょう? わたくしが呆れるほど嫉妬深い女だということは。


 我が君が聞いてこないなら、わたくしも話さない。興味がなくなったのか、こざかしい方面にだけよく回る頭でわたくしの機嫌を大いに損ねることを思いついたのか、そこまではわからないけれど、どちらでも構いませんよ。


 我が君は檻の中の高貴な囚人。寝ても覚めても檻の外の夢を見る。夢がこの方を生きさせている。いつかあの場所へ、あの理想の世界へ帰るのだ。その思いだけでわたくしに対する憎悪を深めていることはわかりきっている。


 すっかりやつれてやせ細った我が君。それでも嘘と虚構にまみれてすがるあなたは気高く美しい。


「この檻があなた様の世界です。檻の中で可能なことならわたくしは何でも叶えてあげましょう。あなた様の綺麗な所も汚い所も、一切全部引き受けて差し上げましょう。外の世界と違って何も偽らなくていいのですよ? わたくしだけはすべて知っていますから」


 わたくしは我が君に、睦言を紡ぐがごとく優しく語って差し上げる。

 外の世界なんてとっくの昔になくなっている事実を、心の片隅でそっともてあそびながら。


「馬鹿を言うな。私は私のものだ、お前のものではないし、お前のものになったつもりもない。私は認めない。こんな私は、私ではない!」


 我が君は答える。わたくしは身体のどこかにぼんやりと炎が灯ったのを感じた。


「いいえ。もう認めて楽になってしまいなさい。これがあなた様でございますよ」


 長い年月。それでもまだわたくしのものになったことを承認できない強情な子ども。


 もう墜ちてらっしゃいな、イライアス。いい加減にわたくしのものになってしまえばいいのに、何があなたをそこまでわたくしから遠ざけるのです。やはり未練ですか? わたくしは最後の切り札を切るべきなのですか?

 断ち切ってあげましょうか。あなたを支える最後の糸すらも。


「違う。私はもっと、輝かしいものだった。お前さえいなければ、私はそういうものであれたはずだった――」


 我が君の強い目がわたくしを射貫く。

 すると喉から出ていこうとした悪魔の言葉がするすると腹の中に戻っていき、再びとぐろを巻いて息を潜めてしまう。


「だから今、これだけは言える。確かに私は強欲だ、すべてが欲しい。だが、私の世界にお前だけは必要ない。私はお前の何も認めない。すべて否定してやる」

「あなたの世界を取り上げたわたくしに復讐でもなさるおつもりですか?」


 無意味なことですね。

 なぜならわたくしはあなたのすべてをこの命の炎を燃やして愛している。国を、人を、すべてを飲み込み、わたくし自身すら責めさいなむ炎。

 絶やす方法は一つ。あなたが自害することです。


 でもあなたにはそんなこと、思いつきもしないのね。だってあなたはあなたのことが誰よりも好きだから、自分を殺すなんてあり得ないんでしょう。


「そうだ。生きて、生きて、他の誰がお前を認めようと、他の誰がお前を褒めようと、私は永遠にお前を否定し続けてやる。お前より長く生きて、いつかここを出て行ってやる。お前は世界のすべてを思い通りにしたつもりかもしれないが、私だけはお前の思い通りにならない――お前のいる世界は間違いだ。この檻のすべてが、間違っている」


 だとしたら、イライアス。

 あなただって間違えているのでしょうよ。


 あのとき、あの場所、檻の外と中。

 記憶を偽り、都合の悪い部分を忘れてしまっても、事実は変わりません。


 わたくしだってあなたを選んだけど、あなただってわたくしを選んだのですよ。

 わたくし達は二人で一つなのです。最初から。


 そっと言葉を飲み込み、我が君から身を離してわたくしは語る。


「ようございますとも。その他大勢から唯一になれたことには変わりありません。昔よりはずいぶんと進歩しました。いじめ抜いた甲斐が少しはあったと言うことでしょうね。わたくしはこれからも檻として一身にあなた様に尽くして参りましょう。たとえ一生、我が一番の望みが叶うまいとても。これがわたくしの愛し方ですから」


 我が君、愚かな我が君。

 あなたはもう少しわたくしを疑うべきです。わたくしはあなた様にいくつも語っていないことがございます。あなただからこそ言えないことだっていくつもあるのです。


 わたくしを愛していないと、信じていないと言いながら、あなたがそうやって熱のこもる目でわたくしを見つめるから、この年になってもわたくしはあなた様をついつい甘やかしてしまう。


 秘密は鍵をかけて箱の中、秘せられたまま永遠に。

 あなたの理想は美しいまま。あなたはわたくしを拒絶するまま。それでいい。それでもいい。

 ひょっとしたら振り向かないからこそ、わたくしはあなたを好きでたまらないのかもしれないのです。


 ベッドから一度立ち上がり、持ってきた籠の中から果物と小さなナイフを取り戻し、我が君に食べさせてあげるために皮を剥く。我が君はわたくしをじっと見ている。わたくしはなんだか無性に幸せな気になって、鼻歌を自然に発している。


「キティ。ぼくの一体どこに、そんなに執着する要素があるんだ」


 我が君から思いも寄らぬ言葉をかけられ、わたくしはほんの一瞬だけにしろ、息が止まった心持ちがしました。


 お気づきですか、我が君。それはわざとですか。無意識ですか。

 ――あなた様がわたくしの前で「ぼく」と言ったのは、いつ以来のことだったでしょう?


 でもそんなことおくびにも出さず、わたくしは速やかに取り繕っていつも通りのように応答するのです。


「むろん、すべて愛おしいのでございます。我が君」


 檻は、支配者は、檻の中の囚人の前でけして弱い部分を見せては、動じてはなりません。

 でなければ侮られ、逃げられてしまう。わたくしは誰よりも我が君に屈してはならない。愛すればこそ。


 我が君は鼻で笑って目を閉じたので、わたくしはこっそりと自分の目の縁にたまりかけていた涙をぬぐってごまかします。


 イライアス。ただこの一瞬が、あなたと言葉を交わしているこのときがあるのなら、わたくしがやってきたことのすべてに意味があり、報われ、価値が生まれるのだと思うのです。檻の中で二人きり。この瞬間がとても幸せです。あなたには許しがたいことなのだとしても。


 許されなくても構いませんよ。むしろ許さないでください。許されないからこそ、あなたのたった一つの特別になれるのです。




 我が君、我が神、我が人生の方よ。死ぬまで、死んでも、あなたはわたくしのもの、わたくしはあなたのもの。

 生まれ変わりがあるのなら、たとえどこでどんな姿どんな風に生きていようとも、必ず迎えに参りましょう。

 あなたはわたくしの主、わたくしの奴隷。わたくし達は二人で一つ。どちらが欠けても成り立たない。




「わたくしはあなた様の檻でございます。あなたの檻としてでしか存在できない哀れな出来損ないでございます」




 そっと忍ばせたわたくしの小さな小さなささやき声を、あなたは聞いたでしょうか、聞き流したでしょうか、聞き取れなかったでしょうか。


 何にせよ、我が君が笑うのならわたくしも笑わねばなるまい。

 嘘か本当かわからない曖昧な微笑みを浮かべ、今日も今日とてあなたのために死力を尽くして生き続けて参ります。

 それがわたくしの、精一杯の献身ですゆえ。


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檻の献身 鳴田るな @runandesu

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