過去 仔猫
夢を見た。もっと若い、幼い頃の記憶。
檻の中を一匹の猫がぐるぐると歩き回っている。
正確に言うのなら、猫の亜人。白い耳をぴょこぴょこと動かし、物珍しそうに檻から部屋を見回していた。瞳の色が片方は金色で片方は銀色。白磁の肌に桃色の唇、とても美しい容貌のあどけない少女である。好奇心旺盛で、賢そうな顔をしていた。
少年が側に立つと、彼女はこちらに顔を向けて首をかしげ、にー、と一声鳴いた。彼は唇の端をつり上げる。
「今日からお前のご主人様はこのぼくだ、キティ」
ぴしり、と床に鞭を打ち付けると、彼女の耳と尻尾がぴんと立つ。
「ぼくは寛大だ。うまくやれたらご褒美をあげよう。失敗したら鞭だ。シンプルだろう? 足りない頭のお前にもわかるな」
彼女は怯えているというより、興味津々といった様子で彼の手元で這う長い鞭の先端を目で追っている。少年がもう一度鞭をふるうと、連動して耳と尻尾が驚いたように動いた。
「キティ、無知なのは結構だがぼくの指示が理解できないのは困る。まずはお行儀よく座ってもらおうか。――座れ! ほら、ご主人様が命令したぞ。言うことを聞くんだ!」
少年はもったいぶった言葉遣いで話しかけている。彼の頬は興奮で上気し、乱れた前髪が一筋、額の上に散っている。
少女は大きな目でしげしげと少年の顔を見つめてから、大人しく座り込む。ぺたんと尻を地面に下ろし、両手を前につき、できたから褒めてくれ、とでも言うようにみゃーと一声上げる。
ごくり、と生唾を飲み込んだ少年の喉が鳴る。
「いい子だ、キティ。いい子だ」
彼は鞭を持っていない方の手を慎重にそろりそろりと檻の中に入れ、大人しくご主人様を見上げている獣の顎にまで持って行く。かりかりとかいてやると、彼女は気持ちよさそうに目を細めてみいみい鳴いた。
その首で、ご主人様がくれてやった赤い革の首輪の金具が鈍く淡く光っていた。
そう、少年は――かつてのイライアスは、猫を飼っていた。一目見た者すべてが思わず息をのみ、目を見張ってしまうほど美しい獣人の少女を所有し、何でも言うことを聞かせられた。
思い出したくもない、人生一番の汚点だ。
亜人。人型だが、人間よりは知性が劣り、数の少ない種。
特に、驚異的な身体能力と身体の一部が獣の姿をしていることを特徴とする獣人は、イライアスの国では人気な商品だった。ペットとして飼ったり、奴隷として買ったりと、人間達に扱われていた。
亜人は強者と認識した相手に従順である習性を持つ。これを利用して、人間は人であって人ならざる者を比較的安全に使役することが可能であった。幼い亜人を誘拐してきて人を主人だと覚え込ませ、成長したら子どもを産ませる。亜人は人と交わっても亜人の子を作る。時折人の子を産むこともあるが、その時はその時だ。暇をもてあました貴族や、金だけは大量にある商人。彼らは自分の支配欲、あるいはゆがんだ庇護欲を満たすために亜人を求め、飼育して見せびらかす。
限りなく人と同じ姿の生き物を、もてあそぶ娯楽。醜悪な趣味だ、とイライアスは少年の時からさげすんでいた。
けれどあるとき、イライアスもまた亜人を手にすることになった。
きっかけは些細なことと言えば些細なことだ。長男が夭折し、国の跡継ぎとなった次男は、昔から軟弱でひ弱で、何かあるとすぐ母親に泣きつきに行くどうしようもない屑だった。我が兄ながら何と惰弱で無様な。イライアスはあれが実兄であるという事実が耐えがたかった。だが屑に屑とののしり言葉をかけても無意味、自分の品位を下げるだけだ。彼は周囲に自分の器の大きい部分を示すべく、兄に対しておおむね親切だった。たとえ心中でどんなにか呪詛を吐いていようとも。
その兄の行く末を心配していたのは何も弟だけではない。何が良いのだかわからないが、昔から次兄ばかり可愛がる母親――つまりこの国の王妃が、あるときこんなことを言ったのだ。
「この子がいつまで経っても臆病なのは、自信が持てないからだわ」
確かに、顔は及第点として勉強も運動も明らかに弟や異母兄弟に劣っていた次兄は、何かにつけて嘲笑の対象であり、その度にびくびくと怯えた顔でまごつきながら引っ込んでしまうような男だった。イライアスなぞはそんな様を見る度に尻でも蹴り飛ばして城からたたき出したくなるのだが、親馬鹿である母親はおお可哀想に、おお可愛い、と甘やかす。兄がそれなりに大きくなってきても駄目人間のままなのは、十中八九母親のせいだ、と賢いイライアス少年は正しく理解していた。
その兄に激甘な馬鹿親が何を言い出したのかと思えば、ようは何でも言うことを聞く獣人を兄に所有させることで、兄が少しは堂々とするようになるのではないかという、なんともこれまたアホらしい計画だった。我が母親ながら人はどこまで愚かになれるのだろう、と半目で見守っていたイライアスは、あっさり許可した父親の反応にさらにのけぞった。
「うむ。次の国王なのだし、もう少しぐらいしっかりした態度でいてもらわないとな。良いのではないか?」
イライアス少年には理解しがたいことであったが、この国王、彼の父親という男はへらへら笑ってなんでも適当にしているように見えて、本人なりの信念というか信仰はけして揺るがない性分だった。
たとえば跡継ぎのこと。
王は跡取り王子のことあるごとのダメッぷりを寛大に笑って流し、別の優秀な子に渡そうとは思わないらしかった。愛人に生ませた息子達も、それはそれ、これはこれ、ときっちり分けて余計なことを言わせようとしない。
「跡取りは死んだ第一王子に代わって第二王子へ。次兄に何かあったら正妻の子である第五王子へ」
彼の中ではシンプルにルールが決められており、他の誰かに苦言を呈されてものらりくらりとかわしてけして考えを改めなかった。
ともあれ、両親の勧めに従って次兄は亜人を購入しに行き、何のついでか弟のイライアスもつきあわされることになったというわけだ。
そこで、彼はキティと出会った。
いい年をして母に手を引かれ歩く兄の姿を見ていられず、そっと一人離れて陳列されている哀れな商売道具達を眺めていたときのことだった。
キティは白い猫の獣人だった。一際奥の小さな檻に押し込められており、一目でその辺のケダモノとは格が違うことが見て取れた。粗末な牢獄の中で退屈そうにゆらゆらと尻尾を揺らしている様子は、幼いが故に状況が理解できていないとも取れたが、むしろイライアスには何かの余裕のようなものを感じた。キティの瞬き、キティのあくび、キティが耳の後ろをひっかく動き。すべてがまるで別の生き物のように洗練されて優美で、それでいて愛らしかった。
しかしその割に妙な扱われ方である。本来ならもっと人目のつく場所に置かれ、さぞ高値をつけられ、誰もがこぞって買いたがると予想できるが、こんな隅っこに人目をはばかるように置かれ、どうにもぱっとしない。
「お目が高いですな、殿下」
イライアスがじっと情熱的な目を檻に注いでいると、小汚い商人が手を揉みながらすり寄ってきてささやいた。
「お前の目は節穴か。額の桁が二桁違うぞ。この仔猫ならもっと高く売れる」
ふんぞり返って言うイライアス少年だったが、確か当時まだ十二歳である。さぞかし生意気だったろうに、貴族の傲慢な子息には慣れきっているのか、商人はへりくだったまま物腰を崩さなかった。
「ですがこの獣人は、そのう……少々曰く付きでして」
「曰く付き? 呪いでもあると言うのか」
「ええ、まあ……」
冗談混じりに言った言葉に思わぬ返答があって少年は眉をくいっとつり上げる。人身売買でそれなりにもうけているだろうに男の身なりは豪商にしては質素なものだった。指輪も結婚指輪だけか、と暇つぶしに相手を観察している少年に向かって、声を潜めてくる。
「この獣人はですな。別の国から仕入れてきたのですが、そのう……」
「もったいぶるな、馬鹿め。要点を話せ」
「は、申し訳ございませぬ。……実は今までの飼い主がですな、全員死んでいるのですよ」
「全員?」
「最初は貿易商。次は貴族様。その次はお医者様。そのまた次は怪しげなお薬を取り扱っていた……」
「もういい。前の主になぞ興味はない。その全部がことごとく、この獣を買ったら死んだとでも言うのか」
「はい、殿下。初めて市場に出たのは三年前ですが、さすがにこうも偶然が重なると誰も怖がって近づきません」
「偶然。お前はそう思っているのか?」
商人は曖昧な笑みを浮かべ、口ごもる。態度からして、馬鹿なことがあるものかと笑い飛ばす気持ちが強いが、まさかという気持ちも捨てられない、といった所か。
イライアスは鼻を鳴らし、檻に顔を近づける。少女は目の前の少年に興味を示しているようで、イライアスが覗き込むとぴんと耳を張って見つめた。二つの色違いの目がぱしぱしと瞬く。
「お前、退屈か」
イライアスが呼びかけると首をかしげた。白い尻尾が揺れる。
「ぼくも退屈だ」
少女は動かない。少年は檻越しにじっとにらみつけていたが、やがてぐっと顔をゆがめてささやきかける。
「可愛く美しいお前。このぼくのものになるか? ぼくはお前の呪いごときで死んだりしないぞ。飼い殺してやろうとも。少しは退屈しのぎになるだろう。お互いにな」
するとその瞬間、みゃあ、と答えるように少女は一声鳴いた。
イライアスは自分が購入を告げる声と、周囲の戸惑う声、それから大人が走り回る喧噪がどこか遠くで響いているのを聞きながら、少女を眺めていた。甘えたように少年の手に顔をなすりつける少女を、暗い瞳でじっと見つめる。
そうだ、首輪を買ってやろう。この細い首に似合う、赤い首輪。
白い首筋を眺めながら、そんなことをぼんやり考えていた。
なぜあのときキティを購入しようと思ったのだろうか。
好奇心。侮蔑。所有欲。自尊心。美しい姿に惹かれ、手にしてみたいと思ったことは事実だ。
……それから、わずかな同情心、だったろうか。
優れているのに不当に汚らしく退屈な檻の中につながれ、ゆらゆらと尻尾を揺らしていた姿。それがどこかの誰かと重なった――そんな錯覚でも覚えてしまったのかもしれない。
いずれにせよイライアスはこのときの決断をひどく後悔する。
彼が道を違えたとしたら、まさにキティを選んだことがそれだったのだ。
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