拉致
この女は何を言っているんだ?
イライアスはいぶかしげに眉を寄せた。
約束? そんなものには全く心当たりがない。
「一体誰の差し金だ。私の命を奪うと言うのなら、冥土の土産にそれぐらいは聞かせてもらってもよいだろう。心当たりがいくつもあって絞れないでいる」
自分が黙っているままだとらちがあかないようだ。イライアスが仕方なく呼びかけると、ぴくりと女が反応した。まるでご褒美をもらった子どものように、声をかけてもらったことがよほど嬉しいとでも言う様子で、そわそわとしているのが伝わってくる。
――何かが、イライアスの頭をよぎった。
いいぞ、キティ。上手じゃないか。
仔猫は主のためにボールを追いかけ、泥だらけになって取ってくる。周囲の笑う耳障りな音。
キティ、キティ。おいで、ご褒美をあげよう。
しかし幻影はすぐに消え去ってしまう。思い出したくないという予感に答えるかのように。
イライアスを見守っていた女が、彼がゆっくり横に頭を振ると、ヴェールの下で自嘲のような音を漏らした。
「……やはり、あなた様にとってはその程度の思い出でございましたか。それも仕方のないことです」
「ご託はいい、目的を言え。何が欲しい」
つぶやく言葉をイライアスは遮った。ますます顔はしかめられている。全くもって不愉快なしゃべり方をする女だった。本当に、気を張っていないと思わず聞き入ってしまいそうなほどに美しい声。それから先ほどのように、何かを思い出してしまいそうなむずがゆさ。忘れ去り、封印したはずの過去の何かを――。
イライアスは余計なことを考えぬよう、周囲の様子を探ってみることにした。さりげなく、馬車の入り口から見える範囲の状況を目の端で確認する。女以外に動く物は一切見られない。おそらく人の残骸とおぼしき物体がいくつか転がっているが、殺された彼の付き人達だろう。生存者はゼロ。足となる馬も潰されていると考えた方がいい。イライアスの冷静な思考部分は分析していた。
このまま殺されるにせよ、わずかな可能性にかけて生き残るにせよ、どうやら不愉快な女を相手は避けられないらしい。女はイライアスが不遜な態度であっても気分を害した様子はない。むしろますます嬉しそうに尻尾を振っている。それがまた、彼の気分を、心のどこかをささくれ立たせる。
「わたくしの目的ですか? それはただ一つ。あなた様でございます」
「私の命か」
「これはなんと、とんでもないことを仰る。わたくしがそのように無情な女にお思いか」
「私の部下達を皆殺しにしておいて、か?」
「同行者も目撃者もいりません。天にお迎えするのはあなた様お一人で十分」
「やはり暗殺が目的なのではないか」
鼻で笑うと、女はかくりと小首をかしげた。
「困りました。我が君はひょっとして、自殺願望者でいらっしゃったのでしょうか?」
「……自分のやったことと状況を見てから物を言え」
「我が君。ですが、歩く道に邪魔な物があったらどかしますでしょう? 目の前に鬱陶しい虫が飛んでいたら手で払いのけて落としますでしょう? 同じことをした、それだけのこと。いけませんでしたか?」
イライアスが罵倒する前に、砂利を踏むような、何かが動く音が聞こえた。はっと耳を澄ませると、女が見えない場所に向かって手で合図をした気がする。心なしか、彼女の雰囲気が不機嫌になった。
注意深く探ってみると、彼の視界には映ってこないが、周りに複数名生き物の気配がある。推測するに、この女の仲間か。いくら人間離れした身体能力を誇る亜人と言えど、たった一人相手に、日頃鍛錬を怠らず武装した兵士含む一団が壊滅させられたとはさすがに考えがたい。予想通りと言えば予想通りであり、つまり逃げ道はないということがますます明らかになった。
「では何だ。人質交換か?」
イライアスが声をかけると、女は打って変わって再び尻尾をご機嫌そうに降り始める。
「何と何を交換するのですか?」
「当然私の身柄が交渉材料だ。どうせ財だの富だのだろう。お前でなければ雇い主がそう依頼でもしたのではないか。一体何が欲しい。物によってはくれてやるが、第五王子はこれで不遇の身だ。あまり大それたものは頼めないぞ」
「そんなものに興味はありません」
「では名声か?」
「得た所で何になりましょう」
「じゃあ何だ、お前は一体何が欲しい。なぜ私に無駄なお喋りをさせる」
す、と女がヴェールの下でこちらを見据えた気配がした。ぞくり、とイライアスの背筋に悪寒が走る。
「無駄ではございません。これこそわたくしが欲しいもの。あなたの目。あなたの耳。あなたの口。あなたの舌。あなたの喉。あなたの声。あなたの手。あなたの足。あなたの胸。あなたの腹。あなたの腰。あなたの肌。あなたの髪。あなたの皮。あなたの骨。あなたの肉。あなたの臓器。あなたの心。あなたの魂。あなたの言葉。あなたを構成する物――」
イライアスは最初、何の冗談か悪質ないたずらなのだろうと顔をしかめていた。その顔が次第に青ざめていく。女はすらすらと当たり前のことのように、それでいて怪しい色を孕んだ妙に情熱的な真剣さで、一度も噛むこともなく言葉を連ねた。
曰く、イライアスの頭のてっぺんからつま先、考えている胸の内や行動に至るまで、ことごとくすべてを望むという内容のことを。
それから最後に、また優雅に腰を折って結ぶ。
「我が君。わたくしが望む物は、ただ一つ、たったそれっぽっちにございます」
イライアスは本能的に後ずさった。ほとんど退路はないと言うのに。警鐘が鳴る。彼は剣を握りしめていた手にさらに力を込める。自分が何か、自分の理解を遙かに超えたおぞましいものに巻き込まれているのではないか、そんな嫌な予感がひしひしとわき上がってくるのを感じていた。
女の声はよく通る。血なまぐさい空気を伝い、身体の芯の奥まで通ってきそうな不快感。王子は目を細めた。
「よく、わかった。顔を隠しているお前やお前の雇い主がどういったものであるにせよ、救いようのない痴れ者ということだな」
「その通りでございます、聡明な我が君」
次の瞬間、イライアスは剣を抜き放ったと思った。腰にしているものではない。馬車の中でそんなものを抜剣した所でたかが知れている。彼が取り出そうとしたのは胸元に忍ばせていた短剣だ。多く貴人が身につけている、最後の抵抗――あるいは自害のための凶器。
しかしそれは叶わず、馬車の床に押し倒されている。音もなく飛びかかり、イライアスにのしかかって拘束した女は、その細腕のどこにそんな怪力を忍ばせているというのか。マウントを取られ、押さえ込まれたイライアスは全く身動きが取れない。短剣はどこか遠くに放り捨て投げられた。
「くそっ、離せ!」
「いけません、我が君。あんなもの、お怪我をしてしまいますよ」
「貴様は何者だ、私をどうするつもりだ!」
馬乗りになった女の下でイライアスが暴れようとしても、馬車がきしむだけで女は涼しい顔である。いや、ヴェールをしているから顔は窺えないが、少なくとも男の抵抗を全く意に介していないことは明らかだった。亜人はか弱い人間の両手をまとめて片方の手で軽々縫い止め、もう片方の手で優しく愛おしそうに彼の顔をなぞる。
「わたくしは誰、ですか――誰なのでございましょう? あなた様はわたくしのことを忘れたがっていらっしゃるようでした。ならばまだ過去のことは語らずにおきましょう。名無しの亡霊とでも思っていただければ。けれどそうですね、これからのことでございましたら――」
女は楽しそうに笑いながら言い、イライアスに向かってゆっくりと身体を倒し、顔を近づけてくる。
ヴェール越し、イライアスは爛々と輝く瞳と目が合った気がした。ひゅっと息を飲むと喉が鳴る。
「愛しいお方。わたくしはあなた様の檻でございます。あなたを閉じ込め、縛り、愛でて飼い殺す檻。それがわたくし」
イライアスは絶句し――それから怒りに顔を赤らめ、怒鳴ろうとした。けれど開けた口に、女が何かを押し込めてくる。理解するまもなく、視界が真っ暗になり、ぎしりと馬車がきしむ音、さらに口が覆われ息苦しい感触がやってくる。
目を何か――おそらく取り払われた女のヴェールで覆われ、さらに接吻されているのだと理解したのは、口内を蹂躙する濡れた生ぬるい塊が別人の舌であると気がついてからである。逃れようともがくが、のしかかっている女が身体も口も離れることを許さない。逃げるイライアスの舌を追い、絡め取り、吸い上げてなぶり尽くす。
酸素を求めてじたばたと身体を動かそうとするイライアスは、やがて自分の喉が嚥下し、何かを飲み込むのを感じた。するとそれを確認して満足そうに女の唇が離れる。ぱっと跳ね起きて女を蹴り飛ばそうとしたが、彼の身体は動かない。どうしたことだ、と思っている間に暗闇の中に意識が落ちていく。
「お眠りなさい、我が君」
薬か。早くも消えかけている思考が答えを導き出す。
うっとりと、闇の向こうで女が歌うように言葉を繰っているのが聞こえる。
「次に目を覚ますとき、あなたは檻の中。永遠に、わたくしの中――」
ブラックアウトする寸前、ずれたヴェールの下から、見覚えのある白い耳がぴょこぴょこと動いている――そんな光景が、目に映ったような気がした。
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