襲撃

「……そうですか。グレイスが」


 ヴァルミ公爵の言葉は平静を保っているように聞こえたが、イライアスはその顔がどこかほっと緩んだのを見逃さなかった。

 それは溺愛してやまない娘の嫁入りが遅れたことに対する親馬鹿だったのかもしれないし、気に入らない婿を迎えずに済んだことに対する安堵だったのかもしれないし、あるいはイライアスが案外落ち着いていることや、話があっさりまとまったことに人心地ついたような感覚だったのかもしれない。


 イライアスにはヴァルミ公爵の胸の内までもは読み切れない。だが、目の前の初老の男が婚約破棄についてどこかほっとした心持ちを抱いている――それさえわかってしまうなら、彼の自尊心を傷つけるのに十分過ぎる程であった。


「イライアス殿下。ですが私はほっとしています。こうなってしまったから言いますが、その……やはり、あなたとあの子では、合わなかったように思うのです。お互いにいつも、無理をしていたように見えましたから」


 白々しい、とイライアスは拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んで鈍い痛みが走った。


 無理? するに決まっているだろう。その分得られる物を期待してのこと。

 不満? あるに決まっているだろう。好きに生きられたことなんてほとんどない。

 だが貴族とは、特権者階級とはそうしたものだ。真の支配者のみがすべてを手に入れ、階級の途中にあるものは上が存在する限り何かを我慢しなければならない。いや、頂点に君臨したとて、下から突き上げられたり引きずり下ろされたりしないために、常に気を張っていなければならない。

 それをこの親子は――何が自由だ、ふざけるな!


 これで善意の塊、こけにしているつもりがないのだから尚更始末に負えない。泥の付いた靴で心を踏みにじられている錯覚を覚える。けれど屈する姿を見せるわけにはいかない。イライアスは惨めなときこそ、より一層胸を張り、顎を引き、強いまなざしでヴァルミ公爵を睨みつける。


「それでも……若い情熱で結ばれたとしても、その後長い時間をかけて理解を深め合うならば、とも思いました。しかし……残念ではありますが、我が娘ながら精一杯考えた上での決断でございます。許せとは言えません。ですがどうか、ご理解ください。一生の問題ですから」


 イライアスは息を吸う。頭ががんがんと揺れ、今すぐにでも目の前の男を殴り殺してしまいそうだ。

 何のためにあっさり身を引き、何のために今こうして涼しい顔を装って立っていると思う。それは一重に、情けない姿であることに耐えられないからだ。


 誇り高き王子。それがイライアスのすべてであり、イライアスを守る鉄壁の鎧でもあった。

 なのにこの親子は、やすやすと踏み倒して、さらに靴跡をなすりつけようとでも言う勢いである。


「あなたに良き縁がございますように」


 ヴァルミ公爵の最後の言葉に、ぐっと奥歯を噛みしめて頭を下げる。

 どうかきびすを返した自分の背中が折れ曲がっていませんように。肩が震えているのを悟られませんように。扉を出て行く刹那、ちらりと最後に視線をよこしたヴァルミ公爵は深く息を吐いて頭を振っていた。


 廊下で待っていた従者が怯えた様子で出迎える。外套をひったくるようにして身にまとい、彼は低く一声発した。


「帰る。……この場所にもう用はない」


 一刻も早くと周囲の慌てる気配をよそに歩き出す。

 屋敷から出て行くときにふと見上げた空は青く、誰かの瞳を無性に思い出させる。青空のように広く、楽しそうに歌ってどこまでも飛んでいくカナリア。


 もしかしたら、彼女がそんな存在だったからこそ、目が離せなかったし、自分に縛り付けておきたかったのかもしれない。

 イライアスは飛べない。飛ぶための翼も、空に希望だけを夢見て飛んでいける素直な心も持っていないのだから。


 ふと浮かんだ言葉を、頭を振って振り払う。

 ばかばかしい。ぼくは、らしくもない感傷に浸る男ではない。あの女のことはもう忘れろ。失敗だったんだから。


 ――ただ。失敗の一言で片付けてしまうには、五年の月日は少し長過ぎたのかもしれない。

 馬車の中、イライアスは何度も自分のため息を聞いた。両手で乱暴に覆った目元ににじむ感触は、今度こそ無視をした。




 極度の緊張が、個室に一人になったことで緩んでいたとでも言うのだろうか。

 イライアスはがくんと頭が落ちて意識が覚醒したこと、同時にその直前まで自分がまどろんでいたことを察する。悪態を吐きながら髪をかき上げ、そこで異常に気がついた。


 馬車が止まっている。それはまあいい、そんなことぐらいで王子は部下達を咎めたりはしない。問題は外から聞こえてくる音だ。怒号と、悲鳴と、金属の当たる高い音。イライアスはさっと血の気が引くのを感じた。


(馬鹿な、襲撃されている!?)


「殿下!」


 自分を呼ぶ声に、とっさに反応して窓のカーテンに手をかけ一気に引く――その瞬間、絶叫と共に窓いっぱいにびしゃりと赤の色が広がった。思わずカーテンを戻し、跳ねる心臓をなだめながら考える。


 落ち着け、馬車にはそれなりの数の護衛も付いている。素人に倒される者達ではない。

 だが先ほどの光景が目の裏によみがえって動悸が激しくなる。


 まさか手練れか? だとしたら目的は――間違いなく自分ではあるとして、命だろうか。一体誰が? 心当たりを探るが、誰も怪しく誰も決定打に欠ける。今までこうしたことがなかったとは言わないが、ここまで派手なことをしでかしてくれるほど気概のあった者となると心当たりがない。どいつもこいつも顔色を窺いながらちくちくと突いて、にらんでやれば逃げ去っていく。そんな意気地なしばかりだったはず。


 第五王子の身分はけして盤石なものでないが、イライアスは王子達の中で少々目立つ。利用しようとする相手も、快く思っていない相手も、いくらでも思いつく。だからヴァルミ公爵とのつながりを得て、もっと強い立場を、より安心できる場所を欲しかったのだ。後ろ盾が欲しかった。実家は当てにならない。実の母ですら、病弱な兄にかまけて、弟の自分は放っておいてもなんとかなるだろうとばかり、のんきに構えているのだから――。


「くそっ、馬車が――殿下、外に出てはなりませ――ぐ、ぎああああっ!」


 馴染みの騎士の声と悲鳴が耳に入ってきて思考が中断される。イライアスはますます身体がこわばるのを感じた。聞き間違いでないのなら、あの声は護衛隊長のものである。イライアスとは少々合わぬ所もあったが、愚直な武人で、仕事に私情を挟まずきっちりとやってくれるタイプだったから、仕事については信頼していた。武の腕だって確かだ。その男の、この世の物とも思えない絶叫。


 やがて、悲鳴が止むと周囲が静まり返る。イライアスは本能的に、残ったのが自分だけであることを悟った。深呼吸し、自分の剣にそっと手をかける。


(……全く、今日は最悪な日だ。一体どこで間違えたのだろう?)


 イライアスは本来失敗を許せない性質の男である。理想の計画に完璧を求め、合わない現実にいつも苛立っている。しかしここまで大失敗と予想外が続くと、もはや一周回って笑えてきた。状況があまりに絶望的だというのもある。濃褐色の瞳に危険な光を宿し、うっすらと口元をつり上げながら彼は扉をにらんで待った。


(さて、狼藉者よ。第五王子イライアスはお前の思い通りになったりはしないぞ)


 心臓の音すらうるさく感じる。

 やがてゆっくりと、扉が開く。


 そこで一度完全に時が制止したような、奇妙な静寂が訪れた。


 イライアスが扉の外に目にしたのは、ヴェールで顔を隠し、異国の衣装をまとった怪しげな何者かである。

 それは彼が描いていたどの襲撃者の予想とも異なり、大層華奢で――そう、優美な丸みを帯びた線は、扉を開けてイライアスをじっと見つめる人物が女であることを語っている。真白い衣装は所々、返り血だろうか、赤く染まっていた。

 視界の端で動く物があって追う。イライアスは今度こそ脳が思考を放棄するのを感じた。ゆらゆらと彼女の背の辺りから伸びて横で揺れているそれは、明らかに獣の尻尾だ。


 顔を隠した亜人の女は、外から香ってくる空気がむっとした鉄の匂いを帯びているのでなければ、どこかの聖女だろうかと勘違いしてしまいそうなほどに神々しい雰囲気を身にまとっている。


 女が、震えたように見えた。


 彼女はゆっくりと扉から身を引き――次の瞬間、膝をつき、イライアスに恭しく頭を下げた。


「我が君――」


 かすかな声を耳にした瞬間、イライアスは全身がぶわっとあわ立ち、冷や汗がどっと吹き出てくるような感覚に陥る。

 彼は直観した。これは魔性の声だ。聞いていると、魂を抜かれてしまう。けれど耳を塞ぐどころか微動だにすることすらできない。女は跪いたまま、おそらく顔だけ上げて、イライアスに呼びかけた。


「お約束通り、お迎えに上がりました」


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