檻の献身
鳴田るな
イライアス編
婚約破棄
「あなたとの婚約を、なかったことにさせてくださいませ」
令嬢は大きな瞳いっぱいに涙を浮かべ、そう切り出してきた。
イライアスは当初、自分が何を言われているのかわからなかった。彼にしては珍しく、つかの間完全にぽかんと立ち尽くす。大口こそ開けないが、濃褐色の瞳をしっかりと見開き、愛らしい婚約者の上から下まで眺め回してしまう。
確かに今日、いつもとはどこか雰囲気が違うな、とは感じていたが、いきなり何を言い出すのか。
「イライアス様。わたしとあなたの婚約を破棄してくださいませ」
再び聞こえて、はっとイライアスは自分を取り戻す。
どうやら聞き間違いではなかったようだ。であればなおさら、このまま立ち尽くして間抜けな面をさらすなぞ言語道断である。
息を吸って、吐いて。イライアスは顔に穏やかな、それでいてどこか困惑混じりの微笑を作り上げ、落ち着いた声で語りかける。
「グレイス嬢。説明してはいただけませんか。私が何か、あなたにふさわしくないことをしましたか」
すると奇妙にも、令嬢が一瞬目をきっとつり上げたようにイライアスには見えた。すぐ顔に表情を出すのは彼女らしい。彼女は高貴な身分の女にしては、男の前でくるくると表情を変える。イライアスは女のそういう性質を、はしたなくも、好都合であるとも感じていた。良くも悪くも単純。黙って何を考えているのかわからない女や、ご機嫌を取りながら裏で男を操ろうとする馬鹿な女よりは、かなりマシだというもの。
だから問題があるのは、浮かんだ感情の種類が怒りの類であるらしいことだ。さて心当たりがすぐに見つからないイライアスは、王子らしい微笑みを浮かべつつ内心舌打ちでもしたい気分である。
「あなたには悪い所が一つもありません。……だからこそ、わたしはあなたにふさわしくないのです」
グレイスが発する可愛らしいころころと鳴るような声は、カナリアのような良い聞き心地と評判だった。それが今、大層耳障りなものにイライアスには感じられつつある。
だがこの程度で腹を立てるのも狭量であるし、たとえグレイスに何か不満を抱くことがあったのだとしてもご機嫌は取らなくてはならない。
近隣で最も有力な貴族であると言っていいヴァルミ公爵は、妻に先立たれてからこちら、たった一人残った娘をそれはもう溺愛している。グレイスがそれだ。イライアスはだから、数ある花々の中から他でもない彼女に狙いを定めた。まだあどけない少女の折から辛抱強く布石を敷き、好青年の皮を被って甘くべったりした台詞で口説き、見事了承を得て結婚を申し込むに至ったのだ。その苦労たるや、筆舌に尽くしがたい。
グレイスは有力貴族のヴァルミ公爵家の一人娘である。
一方イライアスは第五王子だった。
たとえイライアス自身は、夭折した第一王子と頼りのない病弱な第二王子、そして自分だけが正統な王子と考えているのだとしても、父親である国王は認知を済ませてしまっている。しかも父は明らかに、政略結婚で作ったイライアス達よりも、情欲を交えた女との汚らわしい子達の方を愛おしいと感じ、優遇しているようだった。
反吐が出る。イライアスはずっと許しがたかった。
自分が王子である割に、与えられるべきものをきちんと与えられていないと感じていた。
名声、地位、富。すべて人並み以上に手に入れてはいる。だがそれらは実のところ、イライアスの理想まで全く届いていなかった。
父はもっとイライアスを評価し、賞賛するべきだ。
母はもっとイライアスに期待し、喜ぶべきだ。
兄弟は彼に遠慮して己が不当に所有しているイライアスのものをイライアスに返却し、慎ましく生きていくべきだ。
あの王家の汚点、汚らわしい淫売は今すぐ恥を自覚して城から出て行くべきだ。
臣下はことごとくイライアスに頭を垂れ、庶民はことごとくイライアスにひれ伏し奉るがいい。
人々は当然の義務をなぜ果たさないのか。世界のすべてはイライアスのためにあるのに。
イライアスの自尊心は高過ぎるほどで、叶わない現実は常に彼を苦しめ続けてきた。
けれどあるときグレイスと出会って、ふと思いついたのだ。
世界は何も、城だけではない。たとえばそう、ヴァルミ公爵領。
イライアスは幼い頃から抱いていた野望、自分こそが真の王であると示す望みを捨てていないわけではない。ただ、やり方を変えようと思ったのだ。
名声、地位、富――そして、
「イライアス様。わたしは最初、あなたほどわたしのことをわかってくださる方はいらっしゃらないと思っていました。お転婆なことも、他の殿方は嫌がったけれど、あなたはいいと言って下さった。わたしの王子様。優しくて、強くて、賢くて。あなたのためにふさわしい女性になりたくて、努力してみたこともありました……でも、すべて違ったのです。何もかも。それがわたしにはわかってしまいました」
グレイスはなおも事態を飲み込み切れていないイライアスに向かって語りかけてくる。
彼はようやく何が起きているのか悟りかけている。あまりの衝撃で、心が無意識にでも拒絶していたのだろう。そんなまさか、ここまで来て、今更水の泡にしようとしているとでもいうのか?
「グレイス嬢、私にはあなたの言っている意味が……なぜ今、婚約破棄、などと仰るのです」
今までもかんしゃくを起こし、突飛なことを言い出して手を焼いたことはある。グレイスの青い瞳は、こうと決めたら絶対に譲らないときの意志の光を宿していた。彼女は息を吸い、それから再びきっと鋭い顔つきになる。
「申し上げます、イライアス様。あなたはわたしを愛してなどいない。だからあなたとは結婚できません」
「何を――何を馬鹿なことを?」
「あなたがわたしを愛していないことは、他でもないあなた自身が一番ご存じでしょう。先ほど言いましたね、あなたはわたしにいつだって優しかった。……でもそれは、あなたがわたしのことを好きだからではなく、どうでもいいと思っているからこそだったのです。違いますか」
イライアスは今度こそ絶句していた。グレイスとは、単純で世間知らずで考えなしのお嬢さんだったはず。その彼女に、まさか自分の本質を――すべてに興味がないからこそ、誰にでも完璧に接してこられるという点を指摘され、驚愕で頭が真っ白になってしまいそうだった。
「わたし、身勝手な女です。貴族としてあるまじきことを言っているのかもしれません。結婚したら、おそらくあなたは表向き、とても親切にしてくれるのでしょう。もしかしたら冗談だと思っていた、世界を君にあげるよという言葉も叶えてしまうのかも。でも……でもわたし、もうわかってしまったの。わたし、情がないと生きていけない女です。愛してくれるならどんな境遇だって耐えるわ。けれどね、愛のない、形だけ満たされているように見える、そんな生活はできない! あなたとわたしは望むものがきっと違うのです。一緒に暮らしてもうまくいきっこないわ」
立ち尽くすかつての婚約者に、令嬢はゆっくりと近づき、改めて深々とお辞儀する。
「……自分の心には逆らえません。ここまで来て今更、わたしの一方的な都合です。ですから、破棄してください」
――ああだから、彼女は解消ではなくイライアスが一方的に破棄していいと言っているのだ。彼はからからの喉をごくりと鳴らした。
「父君――ヴァルミ公爵は、なんと」
「当人達の問題ですから、まずは話し合うように。けれどわたしの心を尊重してくださる、と」
言葉を探し、視線をさまよわせたイライアスはふと令嬢の頭に目を止める。
彼が贈ったサファイアの髪飾り。グレイスは大喜びで、少し前まではイライアスに会うとき毎回必ずそれをつけてきた。
今はそこに、イライアスには名もわからぬ野草の類が絡んでいる。
ああ、と彼はすべてのものが色あせていく感覚を覚えた。
「――あなたとの婚約を、破棄する」
渇いた喉から言葉を絞り出す以外に、何ができたと言うのだろう?
彼は自らの敗北を知った。……これ以上自分が醜い姿をさらすことなど、耐えられなかった。
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