過去 幸福

 檻から出した白猫の獣人は、よく見てみると所々に縞模様がある。珍しい柄だな、とイライアスが尻尾を引っ張ると、多少抗議するような鳴き声が上がった。気にせず弄り続けていると、小汚い商人が再び話しかけてくる。


「殿下はこの子に好かれておりますな。いやはやべた惚れでございますよ」


 心底感心したとでも言うような口調だ。客をおだてるための世辞だとわかってはいるが、悪い気はしない。イライアスがじっと熱い視線を注ぐと、獣人はもらったばかりの赤い首輪を見せつけるように胸を張り、自由になった尻尾を左右に緩く振りながらこちらを見上げていた。


「この気品のある見た目に似つかわしく、大層気むずかしくて、今までの主の所には皆嫌そうに引きずられていったということです。少なくとも誰かに興味を示したこともなかった。それがどうです、誇らしいとでも言いたげではありませんか」


 商人に答えるかのようにみい、と鳴くので、イライアスは適当に頭をぽんぽんと叩いてみた。ますます尻尾が激しく揺れてぱたぱた音を立てる。

 犬か、お前は。

 イライアス少年は頬が緩みそうになるが、ぐっと奥歯を噛みしめて威厳に満ちた表情を維持する。高貴な男はこの程度の遊びに夢中になったりはしないし、こんな場所で感情をあらわにすることもないのだ。


「殿下にもらわれてよかったのかもしれませんな」


 商人のおだてる言葉に、どことなく本音も混じっているような気がした。揉み手をしながら、男は孫を見る祖父のようなまなざしで、くしゃりと顔をゆがめて白猫の獣人を見つめている。獣人の方はこの庶民には全く興味が湧かないようで、ひたすらに飼い主に熱のこもった目を向けていた。

 そうか、とイライアスは不機嫌そうに吐き捨てたが、獣人の頭をがしがしとこする手に思わず力が入るのは避けられない。彼はまだ十二の少年だった。

 彼女は相変わらず気持ちよさそうに目をつむって、イライアスが手を離すと不満そうににいにい鳴いている。

 ふと、イライアスは首をかしげた。


「この獣人は言葉を話さないのか?」

「獣人種は賢いので一般的には人間同様話ができますが、どうもこの獣は……鳴き声は上げますので、耳が聞こえていないと言うことはなさそうですが、その」

「いい。喋らないのならそれで」

「おそらく言葉を話さないだけで、意思疎通には問題ありませんから」


 頭が弱いのかもしれないな、とイライアスはぼんやり猫耳をぴょこぴょこ動かしている少女を見下した。

 だがそれならその方が都合が良い。

 言葉を操る生き物はろくなことを口にしない。望む言葉をかけてくれない口ならば、いっそ最初からない方が遙かにマシだというもの。それにどうせ対等な関係ではないのだ。自分は人間で、相手は獣。獣が話して何になる?


「名前は何というのだ」

「前の主人の元ではアルバニア=フランシスと」

「くだらんな。仰々しい」


 ふん、と鼻を鳴らせば、機嫌良さそうに耳や尻尾を動かしていた少女が、少年の気配の変化を感じ取って姿勢を正し、どこか不安そうな――いや、期待に満ちた大きな目を向けてくる。


「お前はキティだ。それ以上のものにはならない」


 一拍間を置いてから、仔猫は了承の意でも告げるようにみゃあんと声を上げた。

 とろけるような、甘く人の心を酔わす声だった。




 結局第二王子は耳と尻尾の生えた亜人を怖がって購入に至らず、イライアスはキティを連れて城に帰った。聞き分けよく従順で滅多にわがままを言わない第五王子の珍しいおねだりを、驚いたものの周囲はおおむね好意的に受け取った。キティが美しい見た目をしていたせいもある。


「よくこんな獣人を見つけてきた」

「殿下はお目が高い」


 そんな風に褒めそやす声に混じって時々、


「よりによってあの不幸の猫を」

「見た目に惑わされる、所詮は子どもだったか」


 とイライアスを揶揄するような声も聞こえてきた。


 だが、意外なことにイライアスに敵対するものに対して一番敵意を剥き出しにしたのはキティの方だった。

 キティはイライアスが上機嫌だと自分も緩やかに尻尾を振るが、イライアスが少しでも機嫌を損ねると途端にパタンと耳を伏せて唸りだし、イライアスが内心噛みつきたいと思いつつ笑顔を浮かべて我慢している相手には、檻の中で吠えた。怒っている様は普段の仔猫らしさはどこへやら、獰猛な獅子のように迫力があり、キティに威嚇されたものはもれなく悲鳴を上げて黙り込んでしまう。


 しかしキティはその一方で、何があろうと一度もイライアスに牙を剥かなかった。




「キティ、ご主人様が帰ったぞ」


 イライアスの部屋に飼われていたキティは、彼が戻ってくると部屋の奥からぱっと駆けてきて出迎えてくれる。待ってくれている存在がある、その事実はすさんだ少年を癒やした。


 人払いをして二人きりになると、秘密の時間が始まる。王子は毎晩獣を撫でながら、あらゆる人に言えないことを吐き出した。

 家族に対する不満。周囲に対する不満。り出すときりがない。少年の頃からイライアスは何もかもが気に食わず、けれどその様子を他人に見られるのは我慢ならないほど気高かった。言葉のない従順な聞き手はうってつけの鬱憤のはけ口となる。愚痴はその内少年の本音まであぶり出す。


「だけど、ぼくが本当に許せないのは、このぼく自身だ」


 両手で顔を覆うとすべてが見えなくなる。それでもイライアスはキティが耳を澄ませながら、色違いの目でじっと見下ろしてきている気配を感じ取っていた。


「ぼくはぼくを叶えられない、ぼく自身が本当は一番大嫌いだ。どれだけもがいても理想に届かない、なぜだろう? キティ、この世は嘘つきだらけだ。誰も本当のことなんか言ってくれない。ぼくは知っている。ぼくを本当に褒めてくれる奴なんかいない。できて当然、できないとこぞって突き出す。ぼくが可愛らしくないのが悪いという奴もいるが、馬鹿な女でもあるまいし、こうしているのは当然のことだろう? ぼくが何か間違っているとでも言うのか? なぜ誰もぼくをまともに愛してくれないんだろう」


 イライアス少年は一通り世間的なつきあいができないわけではなかったが、彼に温かい心を持って接してくれるものはいなかった。父も母も彼以外の家族ばかりにかまけて彼のことはほとんど無視、それ以外の近づいてくる大人達はこぞって子どもの彼をおだて持ち上げ都合の良いように利用しようとする。第五王子は立場が弱く、皆無意識にでもさげすむような目を、言葉を自然とかけてくる。親も、周りの大人も信用できず、同世代の子ども達のことは遊んでばかりでのんきなものだと下手に見ることでイライアスは自尊心を保ち、虚構の外面と傲慢な内面はますます信頼関係を遠ざける。


 けれどこんな嘘つきだらけの世界で、信じたら裏切って捨てられるのが当たり前の場所で。心に壁を作って生きていく他に、幼い彼に何ができたと言うのだろうか。




 無垢な仔猫は彼の苦悩をすべて理解して受け止めてでもくれるかのようだった。彼が何を言っても、是、とでも答えるようにみゃーんと鳴き、柔らかな身体をすり寄せる。イライアス少年はベッドの上で身を起こし、優雅に寝そべって尻尾を振っている猫に向き直った。濃褐色の瞳は相変わらずどこか暗い。


「キティ、ぼくはお前が嫌いではない。お前はぼくの言うことをなんでも聞くし、余計なことは口に出せない。そうだな?」


 猫は鳴く。イライアスはベッドの下に降りて、近くのテーブルから黒い塊をつかみ上げる。

 それは猛獣用の長い鞭だった。ただ、イライアスはキティの美しい肌にそれを打ち付けたことはない。キティは察しが良く、床にびしりと鞭が当たるだけでイライアスの求めていることを、つまり彼の不機嫌を察することができた。


「キティ、ぼくを満たせ。ご主人様はお前の芸をご所望だ」


 虎柄の白猫はぱぱっとベッドを駆け下りると、イライアスの足下に這い寄り、そこでころんとひっくり返って無防備に腹を出した。

 イライアスはうっすら額に浮かぶ汗をぬぐい、生唾を飲み込んだ。ゆっくりと靴を上げ、彼女の肩辺り――腹は臓器等を傷つける気がしたし、胸は本当に苦しがるかもしれないから躊躇したのだ――を踏みつける。獣人は無抵抗だった。じっと二つの丸い目で――まるで自分を壊しきってしまうことはない、と信頼しているかのような目で、イライアスを見つめている。ぐっと足に力を入れても動かない。そうすると、少年のがらんどうの腹は満たされ、凍えきった胸に温かみが湧くような奇妙な感覚になった。


「良い子だ、キティ。ご褒美をあげよう」


 ひとしきり美しい少女を足蹴にしてむなしい優越感を得た王子は、鞭をしまうと部屋のテーブルの上の籠から飴を取り出す。少女は舌を伸ばして受け取ると、口の中で美味しそうに転がした。その肩にうっすらと赤い痕が残っている。イライアスがなぞると、彼女はぶるりと身を震わせた。


「お前は実に馬鹿だな。ぼくはお前にひどいことをしているんだぞ。怒るべきなんだ、抵抗するべきなんだ。本当に何もわかっていないのか? 肉食獣の爪と牙はどうしてしまったんだ? どうしてお前はぼくから離れない? ぼくは勘違いするぞ、すべて都合の良い方向に。……もっとも、お前が反抗するならすぐにでも捨ててしまうがな」


 イライアスは頭を撫でながら、優しく、それこそ猫なで声のような言葉遣いになる。ごろごろと仔猫が喉を鳴らしているのを聞きながら、少年はすっと目を細める。


「キティ、お前はぼくに愛でられているといい。お前はぼくを、裏切るなよ……」


 その瞳に浮かんでいたのは、愛情ではなく欲望だったのだと思う。幼い彼の、ぶつける先のない感情の塊だったのではないか――。




 キティと暮らしたのは三年ほどだったか。あれほど満たされた日々はなかったかもしれない。キティは獣のくせに聖女のような人間で、毎晩イライアスの負の感情を受け止め、浄化し、心の平穏を支えた。




 だからこそ、イライアスは彼女を手放そうと思ったのである。彼は気取りながらもすっかり夢中になってしまっていて、あるときあまりに深く入れ込み過ぎた自分を自覚した。

 決定的だったのはそう、イライアスが十五の年、ある暑い日の夜のことだった。


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