じゅじゅ
霧沢夜深
前
それは、どこか妙な朝だった。なんだか嫌な夢を見たような気もするが、思い出せない。
朝食を済ませて玄関で靴を履いていると、後ろから父親が、
「よお、
「いってーな! 強いんだよ!」
「
リビングから「いってらっしゃい」と母親と妹の声がして、うちの大黒柱は出勤していった。つづいて妹の
「ねえ、お兄ちゃん。またちょっと勉強でわかんないとこがあって……」
「はいはい。帰ってからな」
優しいお兄ちゃんは妹の勉強を手伝ってやっているのだ。
「あんたまた遅くまで新を付き合わせちゃダメよ?」麻織の後ろから母親が現れる。
「まったく、お前のせいで寝不足だよ」俺は大げさにあくびしてみせた。
「もう! それ誰かに言ったら殺すからね!」物騒なことを言いながら麻織は出て行った。
「まったく、中学生になっても甘えん坊なんだから」母が言う。靴を履き終えた俺はドアを開けようとした。だが、母が呼び止める。
「これ持って行かないつもり?」母の手には小さな包みがある。弁当だ。忘れていた。
「麻織も麻織だけど、あんたも大概抜けてるわよね」
「一言多い! じゃ、行ってきます」
「はいよ、行ってらっしゃい」
そして、今度こそドアを開けようとしたその時。
どうして?
それは。はっきりと、耳元で聞こえた。思わず振り返る。
「どうかした?」
母親には聞こえなかったらしい。あんなにはっきりした声だったのに?
「いや……なんでもない」
俺はドアを開けて外に出る。今日は快晴だったが、今ひとつ気分は晴れなかった。最寄りのバス停へと向かう。
耳には、声の感覚がはっきりと残っていた。
###
バス停のベンチに座ってバスを待ちながら、俺は考えた。さっきの声は一体……? どこか聞き覚えがあるような気がするが……。
いや、ただの気のせいだ。母親には聞こえてなかったわけだし。疲れてんだな、俺。
俺は気を紛らわすために道の向こうの公園を見た。公園の入り口の隣には電話ボックスが置いてある。今まで一度も使用している人を見たことがないので、いつか撤去されるだろうな、と以前から思っていた。
だが、今朝は若い女が中に入っていた。珍しいこともあるもんだと思って何気なく見ていたが、ふとあることに気付いた。
受話器を、持っていない。
つまり、女はただボックスの中に突っ立っているだけだ。にも関わらず女の口元は誰かと喋ってるかのように動き、時折笑みさえ浮かべている。しかも、女は初夏だと言うのに厚手のコートを着ていた。
え、えらいもん見ちまった……
俺は思わず目を逸らす。その時ちょうどバスが到着し、慌てて乗り込んだ。ボックスを見ないように左側の座席に座り、いろんな人がいる、いろんな人がいる……と自分に言い聞かせた。
バスが発車する。なんなんだ今日は……。
###
朝っぱらから疲れた気分で教室にたどり着く。自分の席に着いたところで、俺は異変に気付いた。
俺の席の後ろに、もう一つ席がある。昨日まではなかった。俺の席は一番後ろの列だから、後ろに人がいたことなんてない。
なんだこれ。そう思っていると担任が教室に入ってきた。
「はい、静かに。突然ですが今からこのクラスに転校生が来ますので紹介します」
いきなり新しいクラスメイトが来ると告げられ、クラスは色めきたった。俺は理解した。なるほど俺の後ろのこの席は、その転校生が座るためのものか。
「じゃあ、入って」担任が廊下にいるであろう転校生に呼びかけた。
戸が開き、女子が現れた。女子にしては身長が高く、表情が見づらいほど前髪も長い。
彼女は黙って黒板になにかを書き始めた。それは、たった漢字二文字。
寿潤
「はじめまして。
クラスは静まり返った。パンチつえー奴入って来たな。という印象だった。なんかお年寄りが飲むヒアルロン酸サプリみたいな名前だな。と、俺は思った。
「は、はい、じゃあ皆さん仲良くするようにね。寿さんはあの空いてる席に座って」
「はい」
予想通り、転校生–––寿は俺の後ろの席に座るようだ。
寿が俺の席の横を通り過ぎる。その時、寿の手から白い紙きれが俺の机の上に投げられた。
『昼休み 校舎裏に来てください』
そう書いてあった。
###
で、昼休み。当然、と言うべきか、俺は
一体、寿はどういうつもりなのだろうか? 初対面どころか、一言も喋ってすらいない俺になんの用があると言うのか。
そんなことを考えてると、俺は近くに人がいることに気づいた。寿かと思ったが、髪の短い女子だった。うつむいたまま立っている。
何をしているんだ? っていうかここにいられたら、寿が来たら変な勘違いをされてしまうんじゃ……
寿が現れた。その女子のさらに後ろから。
俺はその姿に釘付けになった。寿が刀を持っていたからだ。刀身も
なんだあれは。俺が声を出そうと思った時、寿は目の前の女子に向かって刀を構えた。
「おい! 何を……」
一瞬だった。寿はその黒い刀で女子の胸を貫いた。
あまりの出来事に俺は言葉を失ったが、すぐに気付いた。刺された女子の胸から、血が一滴も流れていない。
気付いたと同時に、寿に刺された女子は足元から砂の山が崩れるように消えて、ついに完全に消滅した。同時に、寿の持っていた刀も消えた。
「見えているんですね」
呆然とする俺に、寿はそう言った。
###
『幽霊』。そして『霊能者』
転校生、寿潤はそう言った。
「幽霊というものはどこにでもいます。霊能者とは私のように幽霊を認識して干渉することができる特殊な能力を持った人のことです」
寿は淡々とそう説明したが、情報量が多すぎて簡単には頭に入ってこない。
「ちょっ、ちょっと待て。一体何の話をしてるんだ?」
「黙って聞いてください。ここからが重要です」
有無を言わさぬ迫力で寿は言った。「はい」と言うしかない。
「ほとんどの幽霊は無害なのですが、この世に強い未練があると、最悪の場合凶暴化し人に危害を加える『悪霊』になってしまいます。ですので、幽霊を見かけたらすぐに除霊するのが定石です。と、言っても見ただけじゃ幽霊か人間かなかなかわからないんですけどね。ふふふ」
いやそんな『あるある』みたいに言われても。
「……で、
「いつからって……今が初めてだよ」
「初めて……? 突然、ですか?」
俺の返答に寿は驚きの表情を浮かべた。
「それがどうした?」
「霊能者が使う超常的な能力のことを『霊能』というのですが、幽霊が見える人は霊能を使える素質があります。霊能には大きく分けて修行して会得する場合と、生まれつき持っている場合があるのですが、ごく稀に後天的に突然霊能が使えるようになる場合もあります。『
「……俺がそれだと?」
「覚醒者は多くの場合特別な霊能を有しているのですが、心当たりはありませんか?」
「あるわけないだろ……」
俺は混乱していた。俺にそんなヘンテコな力が? まさか。俺はどこにでもいる普通の男子高校生だぞ。
「寿が持ってた刀も、その霊能ってやつなのか?」
「そうです。あれは『
「じゃあ俺も使えるようになるってことか?」
「ええ、大嶺くんに本当に覚醒者なら、ですが」
「どういう意味だ?」
寿は少し逡巡して、口を開いた。
「落ち着いて聞いてください。大嶺くんは現在、呪われている可能性があります」
###
寿の話をざっとまとめるとこうだ。
・幽霊がある日突然見えるようになるには大きく分けて二つのパターンがある。一つはその人間が覚醒者だった場合、もう一つは、その人間が呪われている場合。
・『呪い』とは生きている人間に対して使われる霊能のことで、悪意のある熟練した霊能者なら何の証拠も残さず対象を呪い殺すことができる。
「……ですが、厄介なことに霊能を持ってない一般人が、特定の人物に対して強い負の感情を抱くことにより、その人物を無意識に呪うケースもあります。『
「それの何が厄介なんだ?」
「霊能者と違って呪いをコントロールできないからです。自分に返って来たり、対象以外に呪いが飛び火して被害が広がることもあります。大嶺くんは現在、霊能を持たない誰かに呪われている可能性が高いです」
俺はふうっと息を吐いてその場に座り込んだ。もう頭の中はめちゃくちゃだった。
「幽霊に呪いに霊能者、か……あいつの話をちゃんと聞いておくべきだったな」
「あいつとは?」
「俺の幼馴染にな、
「そうなんですか……大嶺くんは誰かに恨みを買われるような心当たりは?」
「ねえよ……俺は普通の高校生だぜ?」
「そうですか……では、これを渡しておきますので何かあったらご連絡ください」
寿は紙を俺に手渡した。電話番号が書いてあった。
「それから危険な幽霊の特徴を教えておきます。危険な幽霊は執着している生前の幻覚を見ていることが多く、はたから見ると奇妙な行動を取っていることが多いです」
俺はそこでさっきの電話ボックスの女を思い出した。まさか……?
「……わかった。気をつけるよ」
「ではくれぐれもお気をつけて。私は別の依頼がありますので今日はもう学校をサボります」
「依頼って?」
「一般には知られていませんが、『
「そ、そうだったのか」
なんだか短時間で世界の裏側に足を踏み入れてしまったような気がする。
「では、私はこれで……」
「ちょっと待てよ」去ろうとする寿を俺は呼び止める。
「何ですか?」
「お前、そもそもなんで俺をここに呼び出したんだ? 見ただけじゃ俺が幽霊が見えてるかどうかなんてわかんねえだろ」
「……私、惚れっぽい
「え?」
「……
そういうと寿は小走りに去ってしまった。少し顔が赤かったような気がする。
ええ……? マジで……?
昼休み終了の
###
頭の中が混乱していたので、誰とも話すことなく下校時間を迎えた。バスに揺られながら、寿の言葉を思い出す。
どこを取っても荒唐無稽な話だが、実際にあんなものを見た以上は信じざるを得ない。だとすれば、俺は呪われているのか? 誰に……?
俺の降りるバス停が近づいてきた。俺は朝のことを思い出して恐る恐る公園の電話ボックスを見た。
そこには、誰もいなかった。
いつもどおりの空っぽの電話ボックスだった。俺は少し安心して、バスを降りた。
すると、反対側の道に、近隣の高校の制服を着た女子高生が歩いているのが見えた。後ろ姿だけで顔は見えない。
だが、その後ろ姿には見覚えがあった。
「
###
その数時間前–––
「もしもし。
そう言って潤は電話を切った。そして、目の前の電話ボックスに向き合った。その中には、初夏だと言うのにコートを着た女が何事か呟いている。
「申し訳ありませんが、念のためにご協力をお願いします」
そう言って潤は、葬刀を構えた。
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