7月17日 朝
新しい朝、今日は大した夢が現れなかった。こういう日はラッキーだ。朝の時間に余裕ができるから最愛の妹、早水とお喋りして心を癒す。好物のオレンジジュースをあげると、ごくごくと音を立てて、美味しそうに飲む。はぁ~可愛い。少々の嫌なことは忘れさせてくれる。早水と存分に遊んで、私はバイト先に出勤した。
昨日、容姿端麗・唯我独尊・我儘放題の夢女、夢の国の女王(自称)オレソンが帰ってから。私の一日はまさに現実然として過ぎていった。書きかけのレポートが突然完成することもなく、教授から常識の範囲内でお叱りと皮肉を頂戴し、ありふれて憂鬱な気持ちになっただけだ。
「そもそもさ常識の範囲ってのが心の許容限界より広いのが問題だと思うわけ」
「あっはは~、エノちゃんがまたわかんないこと言ってるー」
フライパンで野菜を炒める私の隣、陣内 翔子がノンビリした声で笑う。私が使ってるのと別のフライパンから、複数の皿へナポリタンスパゲッティを盛り付ける。
「誇っていいよ。わからないのは、陣内さんの心が世界よりも広いってことだから」
「いやー、その褒められ方もわかんないけど」
盛り付けを終えた陣内さんは提供待ちスペースにナポリタンを並べて「お願いしま~~す!」と声を張った。
「でも~許容とか限界とかって話するなら、世界とか心とか言う前にまずウチの店だよねー」
口調と正反対に、彼女の手つきは機敏だ。一呼吸も間を置かず、空になったフライパンにタマネギやらソーセージやらを投入して炒め始める。客席の方から、やたら賑やかな話し声が絶え間なく聞こえてくる。
「確かに。でも、もう封切りから二週間でしょ? そろそろ落ち着くんじゃない?」
「ぜ~んぜん。まだまだ続きそうだよ。エノちゃん達来てくれてなかったら完全崩壊してたね」
私のバイト先、駒田珈琲は全国に支店を持つ喫茶チェーンだ。常軌を逸して繁盛してるわけでもなければ、暇すぎるということもない。私は平凡に忙しく面倒なバイトライフを送っていたのだが、少々事情が変わった。私は先週からこの駒田珈琲・
数ヶ月前、駒田珈琲社がとある映画に協賛・協力し、東東支店を撮影場所として数日間提供したのだそうな。そしたらその映画が大ヒット、駒田珈琲の株も急上昇って、それはまぁ結構なことなのだが、その映画で人気俳優がナポリタンを食べるシーンがあったらしく、この東東支店は連日、ナポリタンを注文するファンでごった返していた。
「やってらんない。この忙しいのに、記念写真にも人割いてさ」
俳優が座った席に常駐し、記念撮影をする担当がいるのである。浮かれてサービスし過ぎである。私は充分に炒まった具材にケチャップソースを垂らしながら愚痴を吐いた。
「でもーまぁ~、来る人にとっては大切な思い出だしね。私も撮影で善光寺くん見た時は結構ハシャいじゃったしー」
「どうせ一ヶ月もしたらみんな他のものにハマってるよ」
映画の感動も、この店のナポリタンの味も、金曜ロードショーで放送された時ちょっと思い出すくらいだろう。その頃には今日撮った写真なんてクラウドサービスの底の底まで沈んでしまってるに違いない。ひねた私の態度に、陣内さんは首をかしげる。
「みんなあーんなに熱中してるのに、そんな簡単に冷めちゃうものかな?」
「ブームに限らずね。何に、どれだけ夢中でも、人はいつか覚めるものだよ」
明けない夜はない。朝は必ずやってくる。
ピピ、ピピ、ピピピピピ。キッチンタイマーが鳴ったのは、パスタが茹で上がった合図だ。ボタンを押すと、ピッ♪と短い音がしてタイマーが止む。大鍋からパスタをあげて、フライパンでソースと和える。皿に盛り付けたら、また具を炒める。ひらすら繰り返す。
「本格的に混んできたね~」
「うん」
客足が増すにつれて、私達の口数は減っていく。手元に集中して、無心になっていく。何十回と繰り返した作業だ。すっかり最適化されて、無意識でも身体は勝手に動く。私の思考と関係なく、与えられた役割を果たし続ける。与えられた状況に対応し続ける。
ピピ、ピピ、ピピピピピ。
アラームが鳴る。耳障りな電子音により一瞬思考が鮮明になる。自分が何でここにいるのか、なんて、トンチンカンな疑問が頭に浮かぶ。作業の手が一瞬止まる。でもピッ♪と音がしてアラームが止めばすぐにまた作業に集中できる。
複数の皿に、パスタを均等にのせる。それから底に残った具を盛っていく。野菜は大体で良いけど、ソーセージとか目立つ具材は偏りがないように。
ピピ、ピピ、ピピピピピ。
自分がこの場にいることに、猛烈な違和感を覚える。隣で働く友達や、他の同僚達の顔すらも、さっきまでと何か違って見える。ガスの炎が熱い。油がパチパチ跳ねる音が、やたら鮮明に聞こえる。
ピッ♪
ボウルの中身をフライパンに入れる。山になった具を鍋を揺すって適度にならし、均一に炒める。
ピピ、ピピ、ピピピピピ。
応援に来てまだ一週間だ。まだ新しい環境に戸惑ってるんだろう。自己分析の答えは、意外に冷静。そして妥当だった。思えば、大学の入学式でも同じ気分だった。もう少ししたら慣れる。それが日常に、私の現実になるだろう。
でもそれは――
ピッ♪
ピピ、ピピ、ピピピピピ。
それは、順応して覚醒するってことなのか――
ピッ♪
ピピ、ピピ、ピピピピピ。
それとも、微睡みに沈むということなのか――
ピッ♪
ピピ、ピピ、ピピピピピ。
私には判断つかなかった。
ピッ♪
ピピ、ピピ、ピピピピピ。
ピッ♪
ピッ♪
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます