第38話桐谷梨々香⑦

 僕と梨々香は、夕焼けに照らされた田園地帯を、並んで歩いていた。

 行きはバスで通った道。梨々香が歩こうと言うので、僕は、うんと頷いた。

 長い道のり。僕は、ずっと梨々香の話を聞いていた。それは、悲しい物語だった。それを、僕は歯を食いしばって受け入れた。途中、梨々香が涙を流して足を止めてしまっても、黙ってその隣にいた。僕にできることは、それしかなかった。

 夕日に照らされた田んぼに目をやると、水面に反射したオレンジから顔を出した緑色の稲が風に揺れていて、美しかった。それから少しして、向こうにそびえる山々に日が隠されると、地面に影の部分が大きくなってきて、どこか寂しげな気持ちに襲われた。

 梨々香の話が終わると、僕たちはしばらく黙って歩いた。かなり長い間歩いているはずなのに、不思議と疲れを感じなかった。

「東京に来たの。実は、奏汰のことを忘れるためってのもあった」

 梨々香が言った。

「モデルのスカウト受けたとき、思ったの。もしかして、これで辛い毎日から解放されるかもしれないって。そうやって無理して忙しくしてたら、東京行きの話をもらって。これで、完全に奏汰のことを忘れられるって、ほっとしたのを覚えてる」

 今の梨々香の表情に、悲しさのようなものはなかった。すっきりとした顔をしている。

「頭の上に名前が見えなかったから。本当に忘れてたんだね」

「うん。東京来て、一層モデルの活動に集中して、学校でも新しいお友達たくさん作って、どんどん思い出を上書きしていってね。桐谷梨々香は生まれ変わったんだって思い込もうと頑張った」

 僕の知っている桐谷梨々香は、本当の姿ではないのかもしれない。梨々香の話を聞いて、そう思えてきた。彼女は、辛い思い出が入り込まないよう、自分の気持ちに蓋をした。それは他人に嫌われないように透明な壁をつくった僕と、ある意味では同じだったのかもしれない。辛かっただろう。

「クラスのみんなを幸せにしよう大作戦も、奏汰くんを忘れるためにやってたの?」

 梨々香は、少し考えたような間を置いてから口を開いた。

「どうだろう。半分そうで、半分違うのかもしれないな」

 梨々香はそこでいったん言葉を切ってから、続けた。

「やっぱり、奏汰とのことを忘れられない私がいて。辛いのは私だけでいいから、みんなには幸せを感じてほしいと思ったのかもしれない。私はもう好きな人の隣にいることはできないけど、みんなは違うから。だから、そのチャンスがあるなら、絶対好きな人と一緒にいるべきだって」

 そっか、と僕はつぶやいた。

 梨々香は、大切な人が突然いなくなってしまう心の痛みを知っている。だからこそ、好きな人がすぐそばにいる喜びを、人の何倍も大事に思っているのだ。

 梨々香は自分の幸せを追いかけることができない。それでも、周りの人の幸せのために、たくさん行動してきた。他人の幸せについて考え、悩み、苦しみもした。

「みんなの好きって気持ちに向き合ってたら、なんか、やっぱり羨ましいなって思っちゃって。それで、私、奏汰のこと思い出しちゃったのかもしれない。ほんと、何もかも、真人くんのせいだからね。真人くんに変な能力が無ければ、奏汰のことをきれいさっぱり忘れたままだったのに」

 そう言う梨々香の口調は、話の中身と反対に明るかった。僕のことをからかったとときと、同じような調子だ。

 でも、梨々香の言う通り、僕には罪があるのかもしれない。

 僕のこの能力は、人を傷つけるために授けられたのだろうか。

「ごめん」

 僕が言うと、梨々香は、へへっと笑った。

「謝らないでよ。感謝してるんだから」

 感謝、と聞いて僕はわからなくなった。そう思われるようなことを、僕はこれっぽっちもしていない。

「僕がいなければ、梨々香はこうやって辛い記憶を思い出さなくてすんだ」

 梨々香は、そうだけど、と言ってから言葉を続けた。

「少なくとも、今は思い出さなくて済んだだろうけど。でも、いずれ思い出すときがきたと思う。そうしたら、前に進めなくなってたかもしれない」

 前に進めないほどの傷。梨々香は、今、それを感じていないのだろうか。

「真人くんのおかげでわかったの。奏汰のことをずっと忘れたままなんて、私、無理だったなって。思い出したときは辛かったけど、だんだん、向き合わないといけないって思えてきて。だから、こうしてここまで来れて。ずっと背中を向けてた奏汰の死を、すこし受け入れることができた」

 梨々香は言葉を切ってから、最後にぽつりと言った。

「全部真人くんのおかげ」

 笑顔を向けられる。その表情が僕の能力のおかげだと思うと、嬉しい。

「今は、前に進めてるの?」

「私ね、モデルやめようと思ってたんだ。だから、決まってたドラマもクランクインの前に断ろうとしてた。何かを忘れるためにやる仕事としては、大変だったから」

 梨々香がモデル活動に関して迷っているのを、思い出した。僕にその気持ちを吐露したときも、やめることを考えていたのかもしれない。

「でも、奏汰のこと思い出して、続けることにした。なんか立ち止まっちゃだめだなって思えて。結果、そうしてよかった。今やってるドラマの撮影、すごい楽しいんだよね。奏汰のこと忘れるためじゃなくて、初めて自分のしたいことが見つかったかもって感じ」

 梨々香のその言葉を聞いて、ふっと心が軽くなるのを感じた。今までの意識すらできなかった悩みが、綺麗になくなったようだ。

「なんか、僕も嬉しい」

 心からの言葉が漏れた。

「嬉しいって?」

「梨々香がドラマを楽しんでいることが」

 今まで梨々香のテレビ出演を喜べなかったが、そんな気持ちはなくなった。

 梨々香が幸せでいることが嬉しい。それが、素直な僕の気持ちだった。

「ひとつ、聞いていい?」

 僕がそう言うと、梨々香はうんと頷いた。

 僕には、まだわからないことが、ひとつだけあった。

「なんで、僕をここに連れてきて、奏汰くんのことを話してくれたの?」

 梨々香が辛い記憶を僕に話してくれた理由が、わからなかった。奏汰くんの死と向き合うのなら、家族とか奏汰くんを知る地元の友達とか、もっとふさわしい人がいたはずだ。

 それなのに、梨々香は、僕を選んだ。

「それは、真人くんに話したかったからだよ」

 答えになっていない。

「なんで、僕?」

「それは……なんでだろう」

「わからないの?」

「うん」

 僕は、それ以上聞かなかった。わからないのなら、しょうがない。

 でもその後で、もしかしたら、とつぶやくように梨々香が言った。

「私……」

 梨々香の言葉が続かない。

「なに?」

 梨々香は足を止めた。

「私、真人くんのこと好きなのかもしれない」

 梨々香が隣につきてきていないことに気付いた僕は、立ち止まって彼女に振り返る。彼女の目線は、足元に向いていた。

 梨々香は、僕のことが好き。

 その告白は、本当なら飛び跳ねたいほど嬉しいはずだった。それなのに、僕は喜べない。

 梨々香の頭の上。そこには、依然として『松山奏汰』の文字があった。それは、梨々香の言葉が本当の気持ちでないことを意味している。

「僕のために、そう言ってくれるの?」

 梨々香は首を振った。

「違う。私の気持ちを伝えてるの」

「嘘。それは、本当の気持ちじゃない」

「私の頭の上。まだ、奏汰の名前が浮かんでるの?」

 僕は、こくりと頷く。

「でも、奏汰はもういない」

「でも、梨々香は奏汰くんのことが好き」

 奏汰くんが生きていれば、梨々香は僕のことを好きなんて言わないはずだ。彼女は、好きという気持ちを僕で埋め合わせしようとしているのだ。

「私、真人くんの能力が憎い」

「僕もだよ。梨々香の言葉を信じられたら、どれだけ嬉しかったか」

「信じてくれないの?」

「他人の本当の気持ちなんて、知るもんじゃないね」

 辺りが暗かったせいで、梨々香の表情をちゃんと見ることができなかった。

 梨々香が僕をからかっているのではないことはわかった。僕を好きだと伝えてくれた梨々香の口調は、とても嘘や冗談を言っているように思えなかった。

 それでも、梨々香の言葉を、僕は受け入れることができなかった。

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