第37話桐谷梨々香⑥
梨々香と奏汰くんは、幼馴染だったようだ。
幼稚園で出会って以来、中学校までずっと一緒。親ぐるみの付き合いで、両方の家族で、毎年、旅行に行くほどだった。海にキャンプにディズニーランド。奏汰くんとはいろんなところに一緒に行って、いろんな体験をした。
そんな彼を意識し始めたのは、中学校に入学して間もないころだった。
それまでは、何をするにもずっと一緒。周りからは兄弟みたいだね、と言われてきた。でも、男の子と女の子。中学に入ると、そういうわけにも行かなくなった。
「梨々香ちゃんと、松山くんって付き合ってるの?」
梨々香は友達からのその言葉を、全力で否定した。奏汰くんはただの幼馴染。彼女にそんなつもりは全くなかった。
でも、周りからはそう見えてしまっているのだ。
これからは気を付けないと、と梨々香は思った。あまり、人前で親しげな様子を見せないほうがいい。そう反省した。
今までは週二回だったスイミングスクールに通っていた奏汰くんも、中学からは水泳部に入り、途端に忙しくなった。それも、二人が言葉を交わさなくなるきっかけのひとつにあった。
そうやって一年が経ち、中学二年生になると、梨々香と奏汰くんは、クラスが別れることになった。二人の家は近所にあったが、遅くまで水泳の練習をする奏汰くんと、割とゆったりしたバドミントン部の梨々香では帰る時間が違う。帰り道でも顔を合わせない二人は、まったく接点が無くなった。
梨々香が久しぶりに奏汰くんの姿を見たのは、ある集会のときだった。
全校生徒が体育館に集められたところで、奏汰くんの所属する水泳部が表彰された。どうやら地区大会で優勝したらしい。
体育館のステージに、がっちりとした体つきの男子が並んだ。その一番右端に奏汰くんがいた。見ない間に、大人っぽくなった。梨々香は彼を見て、そう思った。
その夜。梨々香は、奏汰くんにメールを送った。
『おめでとう』
返信はすぐにあった。
『県大会、見に来いよ』
梨々香は自分でも理由がわからないほど、誘われたことがうれしかった。大会の日にちを聞くと、すぐにカレンダーに印をつけた。
ただ、三年生が主体となる大会なので、奏汰くんは出場しないと思っていた。でも、それを尋ねると、その心配はないようだった。二年生で唯一、奏汰くんはメインメンバーに選ばれていた。
大会は県一番の都会にある、スポーツ競技場で行われた。
たくさんの観客。それに圧倒されていると、プールサイドに奏汰くんが現れた。かなり後ろの方から見ていたので、ほとんど点にしか見えなかったが、それが奏汰くんであることはすぐにわかった。
バシャンッと水しぶきを上げて、すごい速さで泳いでいく。競技水泳を見たことがなかった梨々香は、その力強さに圧倒された。
しかし、奏汰くんは、惜しくも全国大会出場を逃した。後から聞いた話では、段違いに強い中学校があり、全国大会に行く学校はやる前からほとんどそこと決まっていたようだ。
その後、梨々香は会場の前で、奏汰くんと顔を合わせた。
「なんか、久しぶりだね」
「梨々香が避けるから」
奏汰くんはそう言った。
梨々香は、そんなことを言われるとは思わなかった。確かに避けるように心がけていたが、奏汰くんの方からも話しかけられなくなったので、お互い様だと思っていた。
「別に避けてなんかないよ」
「嘘だよ。俺が近づこうとすると、それ察して、すぐいなくなっちゃったくせに」
そう言われるとそうかもしない、と梨々香は思った。
「ずっと聞きたかったんだけど。俺、なんか悪いことしたかな?」
梨々香は、大きく首を振った。そんなふうに思われていたことがショックで、申し訳ない気持ちにもなった。
梨々香はうつむくと、あるものに目を留めた。
奏汰くんの足首。そこにはピンク色のミサンガがあった。
「それ」
梨々香がそれを指さすと、奏汰くんは、ああ、と何かを思い出したかのように言った。
「そう言えば、これずっとつけてるな」
「ずっと、って?」
「お前がくれたときからだから、二年くらい?」
そのミサンガは、小学校六年生のときに梨々香がプレゼントしたものだった。彼の誕生日に向けて、不器用ながらに心を込めて作ったミサンガ。
「でも、それ渡したとき、奏汰、嫌な顔したよね。ピンクかよって言って」
それを聞くと、奏汰くんは、大きな声で笑った。
「そうだった。それで、梨々香にビンタくらったんだっけ。あれ、めっちゃ痛かったから、一生忘れないや」
「そんな余計なことは、早く忘れてよ」
頬を擦っている奏汰くんを見て、梨々香は今までに感じたことがない不思議な気持ちになった。
胸がぎゅっと握られるような、うれしはずなのに苦しい気持ち。
それが、好きという感情だということを、梨々香はその後で知った。
「このミサンガをつけてるとね、不思議と緊張しなくなるんだ。俺にはできる。そんな気持ちが湧いてくる」
俺、実は緊張しいなんだよね、と奏汰くんは照れ笑いを見せた。
帰りの電車。一人で帰っていた梨々香の頭の中には、ずっと奏汰くんがいた。小学生の奏汰くんではない。今日、目の前にいた、背が高くなって顎が少しとがってきた彼だ。
梨々香は家に帰ると、早速、ミサンガづくりに取りかかった。しばらく作っていなかったので、何度か失敗した。それでも奏汰くんを想うと、その作業は楽しくてしょうがなかった。
その翌日。梨々香は、奏汰くんの家の前で、彼の帰りを待った。
「梨々香?」
夕焼けの向こうから、奏汰くんがやってきた。スクールバッグの横にエナメルバッグも下げている。
「おかえり」
「どうしたの?」
梨々香は、これ、と言って小さな紙袋を渡した。奏汰くんにプレゼントを渡すだけなのに、これほど緊張するとは思わなかった。
奏汰くんはその場で紙袋を開くと、ぱっと笑顔になった。
「今度は青だね」
奏汰くんの手には、青色のミサンガがあった。
「地区大会優勝のお祝い。ちょっと遅くなっちゃったけど」
遅すぎだよ、と奏汰くんは笑った。
「でも、これで来年全国行けるな」
梨々香は、うんと頷いた。
「そうしたら、応援に行くね」
「全国大会はさ、いろんな高校とかクラブチームの関係者が見にくるんだ」
「すごいね」
「そうしたら、俺、強豪チームにスカウトされるかもしれない」
「うん」
「俺、強いチームならどこでも行きたい。ここからかなり遠い場所でも」
梨々香は、奏汰ならできる、と確信していた。二年生から県大会に出たんだ。オリンピックだって夢じゃない、と。
「そうしたらさ……」
奏汰くんは、そう言ったきり黙ってしまった。
「どうした?」
「梨々香も一緒に来てくれないか?」
「えっ」
「梨々香にはずっとそばにいてほしい。だから、俺についてきてほしいんだ」
奏汰くんは、いつになく真剣な表情をしていた。
梨々香は、またしても、胸の奥をきゅっとつままれたような感じがした。この人とずっと一緒にいたい。男の子にそんな感覚を抱いたのは、生まれて初めてのことだった。
うつむく梨々香の手を、奏汰くんは優しく握った。
「だめ、かな」
梨々香は、首を振る。
「私も奏汰と一緒にいたい」
奏汰くんの握る手が、ぎゅっと強くなった。
「来年、必ず全国に連れていく」
その力強くて温かい手を、梨々香は今でも忘れない。
そんな約束を交わしてから、一年。
事故は起こった。
地区大会を間近に控えた、夏の入り口のことだった。
梨々香が受験勉強のために机に向かっていると、スマートホンが鳴った。お母さんからの電話だった。
「もしもし。どうした?」
洗濯物取り込んでおいて。そんなことを言われるのかと思って、電話に出た。
「奏汰くんが学校の帰りにトラックにひかれたみたい。意識がなくて、緊急手術になるんだって。病院は――」
その後の母の話は、耳に入ってこなかった。スマートホンから流れてくる話が、現実に起こったことだとは思えなかった。
トラックの下敷き。意識不明。頭から出血。救急車。緊急手術。
現実とは思えない言葉たちが、ただの文字となって、頭の中を行ったり来たりする。
それでも梨々香は、急いで奏汰くんが運ばれた病院に駆け込んだ。
慣れない大型病院に戸惑い、近くにいたスタッフの人に事情を話した。梨々香は、そうして奏汰くんのもとへ案内された。
白い壁がやけに目立つ、一室。奏汰くんは、既に息を引き取っていた。
即死だったらしい。自転車に乗っていた奏汰くんに、大きなトラックがぶつかった。そのまま、トラックの下敷き。巻き込まれた自転車も原型をとどめていなかったようだ。
後からわかったことだけど、奏汰くんの自転車は、ブレーキが利かなかった。前からそれを認識していた彼のご両親は、今でも自転車を買い替えてやらなかったことを悔やんでいるらしい。その悔いは、一生消えることはないのであろう。
梨々香がその部屋に案内されると、そこにはベッドに横たわった奏汰くんがいた。その横に、梨々香のお母さん。奏汰くんのお母さんは、部屋の隅で泣き崩れていて、お父さんはそんな彼女に寄り添っていた。
奏汰くんの顔は、真っ白だった。手を触ると、氷のように冷たかった。
奏汰くんが死んだ。つい先ほどまで生きていた彼は、一瞬にして、もうどこにもいない存在になってしまった。水泳に打ち込んでいた身体は、もう動かない。励まし合った言葉は、もう出てこない。約束した未来は、もうない。
温かかった手のひらは、もう熱を失っている。
梨々香は、奏汰くんの死を信じることができなかった。突然、奏汰はもうこの世にいません、と言われも納得できるはずがなかった。
梨々香は、奏汰くんが死んでいることを否定するように、遺体から一歩、後ろに下がった。
すると、かけられていた布から、足の一部が出ているのがわかった。布のサイズが彼の身体に合っていないのだ。改めて、大きくなったなと思った。
梨々香は、その足をぼんやりと眺めていた。
そのとき。
奏汰くんの右の足首に、青色がちらついた。近づいてみると、それがミサンガであるのがわかった。
一年前。梨々香がプレゼントした青色のミサンガ。全国大会出場を約束し、将来に夢見たミサンガ。
いっきに感情が込み上げてきた。鼻の奥がつんとするのと同時に、涙がとめどなく流れてきた。そのまま、膝から崩れ落ちて、ベッドに顔をうずめて声を上げた。
ずっと、そうしていた。頭の中が、奏汰くんでいっぱいになった。小さいときから、ついこの間までの思い出が溢れてくる。でも、そんな彼は、もうこの世にいない。
その後も梨々香は、彼を思い出しては、もう隣にいることができないことを思い知らされて、涙が止まらなかった。
辛かった。
耐えられなかった。
そうして、梨々香は、奏汰くんとの思い出を記憶の奥底に隠すことにした。
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