第36話桐谷梨々香⑤

 定食屋を出ると、駅に戻ってバスを待った。

 午後二時。気温が一番高くなる時間だ。幸いバス停は、日差しを遮る屋根があった。そのおかげで、僕たちは日陰に入ることができた。

 僕は、ポケットにあったフリスクを手に取ると、それを三粒、口に入れた。ナポリタンの名残がすうっと消えていく。

 ふと、隣にいる梨々香に目をやると、彼女は目を細めて僕を見ていた。

「なに食べてんの?」

「フリスクだけど」

 ほしい? と聞いたが、梨々香は首を振った。

「フリスクなのは、見ればわかるよ。なんで、そんなもの食べているのかってこと」

 なんで、と言われても困る。

「食後だから?」

「へえ」

 梨々香は納得していないような顔で、ぶっきらぼうに僕から目を離した。

「何か、言いたいことがありそうだけど」

「もしかして。この後、私とキスしようとか考えてる?」

 思わず、口の中で遊ばせていたフリスクを吹き出しそうになってしまった。

 梨々香はなんてことを言いだすのだろうか。そんなわけないじゃないか。

「なんで、フリスク食べただけで、そういうことになるんだよ」

「だって、真人くん、私のこと好きなんでしょ?」

 梨々香は、からかうような目を僕に向けてきた。

 まさかこのタイミングで、僕の気持ちを掘り返されるとは思わなかった。これまで普通に接することができていたので、僕は完全に油断していた。

 僕が口をぱくぱくさせていると、梨々香は唇の端を持ち上げた。

「そう言えば、真人くんって私のこと見るとき、ちょっとそういう目で見てたよね」

「そういう目?」

「エッチな目」

 自分の顔が、かっと赤くなるのがわかった。

 梨々香は、にやにやしている。僕は、今、完全に彼女のおもちゃにされている。

「見てないよ!」

「ほんとに?」

 梨々香は、からかうように語尾を伸ばした。

 僕はぶんぶん首を縦に動かす。

 確かに、梨々香のことをそういう目で見たことはあったかもしれない。部屋着だったり、浴衣だったり、彼女はどんなときでも魅力に溢れていた。でも、そういう目をしたのは、ほんとわずかな時間だったし、彼女はそれには気づいてないはずだ。

 そんなやり取りをしていると、バスが来た。日曜日の昼間なのに、それに乗るのは僕たちしかいないようだ。

 バスの中は、ちょっと強すぎるくらいの冷房が効いていた。乗ってすぐは心地よかった冷気が、やがてくしゃみしそうになるような寒気に変わる。それでも、梨々香はどれくらいの時間、このバスに乗るのか教えてくれなかった。バスに乗る前の会話のせいで、僕はずっと梨々香に逆らうことができないでいる。

 梨々香との会話がふと途切れたタイミングで、僕は外に目をやった。

 どこか懐かしさを感じさせる風景が、窓の外に広がっていた。爽やかな青空を背景に、入道雲がすぐそこにあるような存在感を放っている。その下には、広々とした田園と、小国を治める城のようにぽつぽつと建っている民家。昔、こういう場所に住んでいたわけではないのに、なぜだか望郷の想いに包まれる。

「ついこの間までいた場所なのに、なんだか懐かしいな」

 梨々香がつぶやいた。

「東京に来てから、帰ってないの?」

「うん」

「忙しくて?」

 梨々香は、うーんと言って僕の問いかけをあいまいに流した。彼女が東京に来て、二カ月と少し。そこまで、長い期間ではない。

 僕は、梨々香と出会ってからたいして時間が経っていないことを、少し意外に思った。なんだか、もうずっと一緒にいる気すら感じていた。

「でも、今日は実家に帰りに来たわけではないよ。ここに来ること、お母さんたちには言ってないし」

 梨々香の隣には僕がいる。そのことから、家に帰ることが目的でないことはわかった。ご両親に僕を紹介されても困るし、そんな理由もない。

「もしかして、良からぬこと想像してた?」

 梨々香が言う。

「良からぬことって?」

「誰もいない家で、私の部屋に二人きり。そんなこと期待してたでしょ」

 梨々香のこういう冗談にも、だんだん慣れてきた。だから、僕は苦笑いを浮かべるだけで、それを受け流そうとした。

「うわ、やっぱりそうなの? 油断ならないね!」

 梨々香はあくまで、僕をからかうことをやめない。

 僕はうんざりと、してないよ、と否定した。

 梨々香は笑っていた。楽しそうだ。

 バスが木陰に入ったせいで、日の光を当てていた梨々香の顔に、影が落ちた。それと同時に、彼女はふと切なそうな表情を見せた。長いまつげが下に向く。それを僕は見逃さなかった。

 そんな梨々香の表情を、初めて見た。僕は、何か気に障るようなことを言ってしまったのかもしれないと不安になったが、いくら考えても思い当たる節はない。

 それからというものの、僕たちの間に会話はなかった。

 バスは田園地帯を抜け、少し大きな道路に出てきていた。田んぼが減るのに合わせて住宅地が増え、今までほとんどなかったコンビニやスーパー、レンタルビデオやまでもがちらほら姿を現し始めた。

 ピンポンッ、と音が鳴る。

「次、降りるから」

 ボタンを押したのは、梨々香のようだった。彼女の表情には、先ほどから笑顔が見られない。下唇を噛み締めて、なにかに耐えているような様子でいる。

 バスには三十分ほど乗っていた。

 降りた先は、田舎の小さな街だった。少し歩くと、生活に困らないほどのお店がそろっていることがわかった。

 僕は、またしても梨々香について行くことしかできないでいた。

「梨々香の家、この辺なの?」

「ううん。うちはここから車で二十分くらいのところ」

 梨々香はそれ以上、口を利いてくれなかった。バスに乗る前の楽しそうな様子はない。

 舗装された道を少し外れると、また自然が目立ち始めた。なんだか、見たことがないような虫も飛んでいる。

 ちょうど小学校が終わった時間なのか、何人かの小学生が川に集まっていた。川の脇にはランドセルが山積みに置かれ、彼らの手にはプラスチック製の虫かごがあった。

「私もよくやったな」

 梨々香が、また昔を懐かしむような目をしていた。

「女の子も、虫取するの?」

「あったりまえじゃん」

 僕の小学生のときの記憶では、女の子は家の中で何やらこっそり遊んでいるようなイメージだった。男の子に比べ習い事に忙殺されていた子も多かったはずだ。

「小四のときなんて、カブトムシ捕まえた数、クラスで一位だったんだからね」

「そんなの競ってたんだ」

「小学生は毎年やるんだよ。夏休みに捕まえたカブトムシをひたすらかごに入れていって。それで学校始まったらみんなで公園に持ち寄って、その数を数えるの。そのときは、私は二十七匹で一番だった」

 半ば信じられない話だった。

 それでも、川で遊んでいる小学生たちをよく見ると、女の子も何人か混じっているのがわかった。男の子と同じようにズボンを上までまくり、川の中に目を凝らしている。梨々香の言っていることは本当であるようだ。

「私も久しぶりにやろっかな」

 梨々香はそう言って、おもむろに川に近づいて行った。僕は慌ててその背中を追う。

「なに、取れてるの?」

 梨々香が声をかけると、小学生たちは警戒することなく、虫かごを見せてくれた。

 僕も梨々香と一緒に、虫かごの中を覗き込んだ。ザリガニにヤゴ、昔図鑑で見たような虫も入っていた。小学生に名前を聞くと、ゲンゴロウだと教えてくれた。

「私ね、素手で魚も取れるんだよ」

 梨々香が自慢するように言うと、小学生たちは競うように、俺も、とか、私もと声を上げた。

「じゃあ、誰が一番に取れるか競争だ!」

 梨々香は裸足になると、子供たちと一緒に川の中に突っ込んでいった。

 梨々香が川の中をじっと見つめ、ときおり、勢いよく水に手を突っ込むのを、僕は眺めていた。そんな様子を見ていると、彼女が子供のときにクラスの誰よりも負けないくらい虫を捕まえていたという話も納得できた。無邪気な彼女の横顔は、今でも子供そのものだ。

 そんな虫取り少女が、今ではモデルに女優と、芸能の最前線に向かっているなんて、誰も想像しなかっただろう。昔からの梨々香の友達は、今の彼女の活躍に驚いているに違いない。

「取れた!」

 梨々香が、拳を上げながら、川から上がってきた。そこに、子供たちも集まってくる。

 僕も同じようにその輪に加わった。

 梨々香は拳をそっと開くと、そこには小さな小魚が横たわっていた。

 わあっ、と小学生たちが声を上げる。

 梨々香が虫かごに魚を放した。

「ザリガニとかと一緒に入れていいの?」

 僕が聞くと、梨々香は、たぶんおっけー、と屈託のない笑顔を見せた。

 お姉ちゃんすごいね、と梨々香は子供たちから尊敬のまなざしを向けられている。それがまんざらでもないようで、彼女は誇らしげな様子だ。

 子供たちにさよならを告げ、僕たちはまた歩き出した。思いのほか長い時間川で遊んでいたようで、日は徐々に傾きかけていた。

 それから少しすると、少し大きい道路に出てきた。車通りもあり、大きなトラックもかなりのスピードで通り過ぎていく。

「この道。ちょっと危ないね」

 僕のそんな声に、梨々香の反応はなかった。

 歩道が狭いせいで、僕たちは縦並びにならざるを得なかった。だから、僕の声が前を歩く梨々香に届かなかったのかもしれない。

 少しすると、交差点が見えてきた。そこからは幅の広い歩道が確保されており、ガードレールもあった。

 道幅が広くなったので、僕は梨々香の横についた。しかし、梨々香はその交差点で足を止めた。

 信号はないし、今なら車通りもない。だから、足を止める理由がなかった。

「どうしたの?」

 今度は聞こえているはずなのに、返事がない。梨々香の顔を覗き見ると、力のこもっていない目を、ある一点に向けていた。

 梨々香の視線の先。それを目で追うと、そこにあるものに僕は目を見張った。

 白いガードレールの脇に、花束が添えられていた。それだけじゃない。ジュースやお菓子も置かれている。

 こういった光景は、テレビのニュースで見たことがあった。交通事故で子供が亡くなったとき、その現場に花束や、その亡くなった子が好きだったものが添えられる。

 目の前には、それと全く同じ光景があった。

 ここで子供が亡くなった。目の前の花束は、それを意味しているのだ。

「この道、やっぱり危ないんだね」

 立ち尽くす梨々香に言った。梨々香は、昔馴染みのこの場所で死亡事故があったことに、ショックを受けているのだと思っていた。

 でも、それはどうやら違うようだった。

 梨々香はバッグから、なにやら紐のようなものを取り出すと、花束やジュースと同じようにそこに添えた。

 僕は、彼女のその行動の意味が、しばらく飲み込めなかった。どうして梨々香がこんなことをするのだろう。そう思って、しゃがみ込む彼女の背中をぼんやり眺めていた。

 しばらく、彼女は立ち上がらなかった。声をかけてはいけない。彼女の背中からはそんな空気が出ていて、僕は黙っていた。

「ここに来たかったの」

 梨々香が言った。

 僕は彼女の横に立った。

「ごめんね。楽しくない場所で」

 梨々香は立ち上がると、バッグから一枚の写真を取り出した。それを僕にも見えるように、持ちかえる。

 そこには、僕より少し年下にみえる男の子が写っていた。彼は、こちらに向かって白い歯を見せて笑っている。そのあどけなさを見ると、写真の彼はまだ中学生かもしれないと思った。

「奏汰」

 梨々香が、ぽつりと言った。

 奏汰。

「この男の子が松山奏汰?」

 梨々香は、こくりと頷く。

 写真の彼は、梨々香の頭上に浮かぶ、松山奏汰らしかった。

「ちょっと幼いね。最近の写真?」

 梨々香はゆっくり首を振った。

「中三。奏汰ね、それ以上、歳を取れなかったの」

 奏汰くんが写る写真の向こうには、花束が見える。

 目の前を一台のトラックが通り過ぎた。ピンク色の花がわずかに揺れる。

 梨々香の言っている意味が、だんだんと飲み込めてきた。それと同時に、とてつもない喪失感に襲われる。

「奏汰は中三のとき、ここでトラックにひかれて亡くなった」

 梨々香の言葉を聞くと、心臓が石になってしまったかのように、胸が重たくなった。自分が今、どんな感情でいるのかわからない。今までに経験したことがないくらいの、深い悲しみが全身を支配しているような気がする。

 梨々香の頭上に浮かんでいる人。梨々香が心から愛している人。その人は、もうこの世にはいないのだ。いくら努力しても、いくら勇気を出しても、梨々香はもうその人の隣にいることはできないのだ。

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