第35話桐谷梨々香④
特急電車に乗ってから一時間と少しして、やっと切符にあった場所に到着した。時刻はもうすぐ正午になろうとしている。
電車を降りると、夏の日差しが僕の目に飛び込んできた。それと同時に、ふわりと緑の匂いが香ってきた。ミーンミーンという蝉の声も、緑のBGMとして聞こえてくる。
そこは、改札口がとても小さな田舎の駅だった。
目の前には青々とした緑が生い茂り、その背景には広大な青空が広がっている。そこに身を置いていると、なんだか心が開放的になった気がした。
「やっと、ついた!」
改札を出ると、梨々香が伸びをした。
「すっごい、田舎だね」
「デートスポットとしてはいい場所でしょ」
「そうかなあ」
梨々香は大きく深呼吸すると、お腹すいたっ、と叫んだ。
お昼時だから、この辺で食事にするのも悪くない。
「いいお店知ってるんだ」
梨々香がそう言うので、僕は流されるまま、彼女についていった。
梨々香はまるでスキップでもするように、道を歩いていた。彼女の鋭い土地勘を見て、ここは梨々香にゆかりのある場所なのかもしれないと思った。
駅から歩いて数分。僕たちは小さな定食屋に入った。
定食屋は、年配の夫婦が営む、地域に根差したようなお店だった。壁にはびっしりと、メニューの書かれた紙が貼られていて、その紙の焼け具合を見ると、この店の歴史が感じられた。
僕たちは、四人掛けのテーブルに向かい合って座る。
「おすすめは?」
あちこちにあるメニューを見渡しながら聞いた。
「ナポリタン!」
梨々香は即答する。
そのほかにも気になるメニューがあったが、結局、僕たちはナポリタンを二つ注文した。感じのいいおばあちゃんの対応に、居心地の良さをおぼえる。
「瞳ちゃんと秋良くん。いい感じなの知ってる?」
梨々香が水に口をつけると、そう言った。
「付き合ったの?」
「まだ。二人ともなかなか具体的なことは口にしないから。でも、この間、デートしたんだって」
「うそ。二人きりで?」
「兄弟たちも一緒みたいだったけど。水族館に行ったって。その話する瞳ちゃん、今までにないくらいすっごい幸せそうだった。やっぱ、あの二人はくっつくべきだよね」
「水島くんの兄弟に対する責任感が強すぎるから」
「私が兄弟あずかるから、二人でデートしてきなって言ってるんだけどね」
それは無理なんじゃないかと思った。梨々香は最近、学校にもまともに来れないほど忙しい。
「一組の工藤さんはどうなの? 清水くんと順調?」
僕が尋ねる。
「ばっちり。ユキちゃんの話だと、潤くんの方から好きだって言ってくれるんだって。それも毎日。愛されるって、うらやましいね」
それを聞いて、僕はほっとする。梨々香の判断は、間違いじゃなかったのだ。
そんな話をしていると、注文したナポリタンがふたつ運ばれてきた。山盛りで、まだ湯気が引いていない。
「なっつかしー」
梨々香はそう言うと、いただきますと、それにフォークを差して口に入れた。
僕も、手を合わせて食べる。
「やっぱり、おいしー」
そう言う梨々香と、僕も同じ感想だった。ありきたりな表現だけど、甘みと酸味が絶妙に混じり合って口に広がった。外で食べるナポリタンは初めてだったが、店で食べるのってこんなにおいしいんだと思えるほどだった。これが普通なら、残念だけど、家で食べるナポリタンはぱさぱさし過ぎだ。
懐かしそうにナポリタンを眺めながら食べる梨々香を見ると、これが思い出の味であることがわかった。彼女は、前にもこの味に親しんでいたようだ。
「ここってさ、梨々香の故郷?」
僕がそう聞くと、梨々香が途端にむせだした。ごくんと水を飲むと、はあ、と息をつく。
「どうして、わかったの?」
「見てれば、普通にわかるよ」
「えー。サプライズで発表しようと思ったのに」
梨々香は大げさに落胆した様子を見せた。なんのためのサプライズかわからないが、彼女なりの段取りがあったようだ。
それにしても、梨々香は自分の感情を隠さない。ここが彼女の故郷だということを、本当に隠す気があったのだろうか。そんな気が無いような振る舞いを、彼女は何度もしている。
相変わらずおいしそうにナポリタンを頬張る梨々香を見て、僕はため息がでてきた。わかりやすいほど、感情を表に出している。本当に役者として、うまくやっていけるのだろうか。
でも、ひとつ、わからないことがあった。
なぜ、梨々香は僕をここに連れてきたのだろうか。なぜ、デートしてあげるなんか言って、僕を自分の故郷に招待しているのだろうか。
梨々香にとって、僕は、文化祭に向けての準備を一緒に行ったクラスメートでしかない。それ以外の特別な感情がないことは、もうわかっている。だから、僕をここに連れて来る理由はないはずだ。
チャリンッ。
前で、金属が床に打ち付けられた音がした。
「やっちゃった」
梨々香がフォークを床に落としていた。
新しいの持っていくよ、とすぐにおばあちゃんの声がする。梨々香も、ごめんなさいと返した。
あれ。
視界に異変を感じたのは、そのときだった。何度も瞬きをするが、それは変わらない。
梨々香の頭の上。さっきまであったはずの松山蒼汰の文字がなかった。
新しいフォークを待つ梨々香からは、わずかに鼻歌が漏れている。そんな彼女は、今、この時点で松山奏汰のことを好きではなくなったのだろうか。
しかし、その考えが間違っていることを、僕はすぐに思い知らされた。
周りを見渡すと、お店の中にいた人、すべての頭上に何も浮かんでいないのだ。
ここに入ったときは、そんなことはなかった。何人かの頭上には、名前の文字が浮かんでいた。僕にとってそれはもう当たり前なことなので、それについては何とも思っていなかった。
この場にいる人に、好き、という感情がなくなったのか。
違う。
僕に能力がなくなった。そう考える方が、合理的だ。
「どうしたの?」
梨々香が、不思議そうな顔をしていた。
「いや。何でもない」
「すごい顔してたよ」
気づけば、梨々香の手には新しいフォークがあった。僕は、それが届けられたことすら気づかないほど、取り乱していたらしい。さぞ、普通でない様子だったのだろう。
僕は、梨々香の視線を振り切るように、ナポリタンを頬張った。もう、何の味も感じない。
あれほど能力が嫌だったのに、いざ無くなったら、ここまで動揺してしまうのか。それが、 自分でも意外だった。
口にあるナポリタンをごくりと飲み込む。咀嚼が足りなかったのか、喉のあたりが気持ち悪くて、水でそれを流し込む。
改めて、梨々香を見た。
彼女の頭上。そこには、松山奏汰の文字が戻ってきていた。
すかさず、周りを見る。他の人の頭上にも、文字があった。
「ほんと、どうしたの?」
また、取り乱した態度をとってしまった。
「何でもない」
「大丈夫?」
「うん」
僕は残りのナポリタンをすべて巻き上げると、大きく開けた口にそれを詰め込んだ。
なんだったのだろうか。
一度、文字が見えなくなった。それは、何を意味しているのか。
僕のこの能力は。もう長くないのだろうか。
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