第34話桐谷梨々香③
まだまだ暑さが引かない九月の空は、これでもかというほど晴れていた。何日かぶりに外に出た僕には、その日差しの強さがかえって心地よかった。冷房によって冷えきった身体が、じんわりと解凍されていくようだ。
僕はひとつ角を曲がると、目をこすった。明け方になってようやく感じた眠気が、まだ尾を引いている。梨々香と会うことを考えると目がさえてしまって、昨夜はまったく眠れなかった。
僕の家から駅までは、歩いて十分ほどだった。途中、梨々香のマンションの近くを通るので、駅の改札ではなく途中の道で彼女に会ってしまうのではないかと、ドキドキしながら歩いた。会うことには変わりないのだが、心の準備というものがある。
自宅と駅までの道のりの途中に、ヒノデ公園がある。僕はその公園を横切った。
この公園には、梨々香との思い出がたくさんあった。クラスのみんなを幸せにしよう大作戦を発案されたのもこの場所だし、梨々香が松山蒼汰の名前を頭上に浮かべ始めたのもここだった。
でも、それらはいずれも夜の時間のことで、太陽の下で見るヒノデ公園は、また違った顔を見せている。まだ小学校低学年と思える小さな子供たちが、朝から元気に遊んでいる。
結局、梨々香と遭遇することなく、駅に着いた。
時刻は午後九時三十分。待ち合わせの三十分前と、早すぎる到着だった。これなら、そもそも梨々香と途中で会う心配はなかった。
僕は、改めてどんな顔をして梨々香と会えばいいのか、考えた。
告白めいた事を言ってしまったことを詫びるべきか、何事も無かったかのようにいつも通り接するべきか。
昨日の夜から散々考えていたことなのに、今になっても結論を出せないでいる。
時間は刻一刻と過ぎていき、そろそろ梨々香がやって来てもおかしくない時間になっていた。
僕は、途端に逃げ出したくなった。梨々香と会うだけなのに、どういうわけか心臓がぎゅっと絞めつけられるほどの緊張が襲ってきて、気持ち悪さすら感じている。
そうこうしているうちに、午前十時になった。
梨々香の姿は、まだない。
それほど大きな改札口でないので、お互いがそこにいるのに出会えないことはまずない。梨々香は、まだここに来ていないのだろう。
遅刻だ。
僕はため息が出た。遅刻したら絶対許さないと言ったのは、どこのだれだろう。でも、このまま梨々香が現れなればどれだけ気が楽か、と思っている自分もいた。
「お待たせ」
すぐ隣から声がした。首をひねると、いつの間にか梨々香が僕のぴったり隣にいた。
白いブラウスに、黒のミニスカート。小さな長方形型でピンク色のカバンを肩から下げている。シンプルでいて、ちょっと大人っぽい。
梨々香の私服を見るのは、意外とこれが初めてだった。学校の外で何度か彼女に会ったことはあるが、部屋着姿だったり、浴衣だったりとレアなケースばかりだった。
「じろじろ見ないでよ」
上目遣いの梨々香にそう言われてしまって、僕は、とっさに彼女から目を逸らした。
「見てないし」
そう言ったが、自分でもわかるほどの嘘だった。僕は、梨々香の私服姿に見惚れていた。
「私の服。なんか、変かな?」
僕は、ぶるぶると首を振った。
落ち着いた服装も、彼女の魅力を存分に引き出している。ファッションに疎い僕の隣に並んでもおかしくないように、あえてシンプルな服装をしてくれたのかもしないとも思えた。
「いいと思う」
「なんか、適当な感想」
梨々香はそう言って笑った。
目の前のいる彼女はいつも通りの梨々香で、僕は安心した。彼女に会ったときの第一声を考えあぐねていたが、それは杞憂に終わった。僕も自然体でいることができている。
「で、どこ行くの?」
僕が聞くと、梨々香は唇を突き出した。
「デートプランは、男の子が決めるんじゃないの?」
「梨々香が一方的に誘ってきたんでしょ。それに、ライン返さないし」
「スマホ、調子悪くて」
梨々香の右手にはスマートホンがある。僕は、そこを指さして言った。
「とか言って、ばりばりスマホしながらここに来たでしょ」
「真人くんとのラインだけ、調子悪かったの」
梨々香はそう言って、舌を出す。
「そんなスマホのトラブル、聞いたことないけど」
思わず、笑ってしまった。すると、梨々香も声を出して笑ってくれた。
「ごめんね。真人くんとライン続けたら、なんか今日のこれ、断られるような気がしてね。そう思ったら、なかなか返信できなくて」
恥ずかしそうにうつむく梨々香を見て、僕は返す言葉がなかった。
梨々香と詳しくやり取りをしたら、今日出かけないきっかけが見つかったかもしれない。そうしたら、僕はそれにつけて誘いを断ることを考えたはずだ。
昨日の瑞希も、同じようなことを言って部屋に来たなと思った。僕の思考パターンは、案外単純なのかもしれない。
「はい、これ」
梨々香は、バックから通常の三倍くらいの大きさの切符を取り出すと、それを一枚、僕に渡してくれた。
それは、特急券だった。聞いたことがない地名が印字されている。
「ここ、どこなの?」
「サプライズ。今日は、一日、私に付き合ってもらうから」
梨々香に流されるがまま、僕たちは電車に乗った。
最寄りの駅から電車に揺られること十数分。いくつもの路線が交差するターミナル駅で、特急電車に乗り換えた。普段電車に乗り慣れていない僕は、梨々香についていくことしかできなかった。彼女は、慣れたように移動し、乗り換えはスムーズに完了した。
特急電車の中は、新幹線のように横並びになった二つの座席が列をなしていた。僕と梨々香は、隣り合って指定席に座った。僕の切符が窓側だったが、そこは梨々香に譲り、僕は通路側に腰を下ろした。
「で、この電車はどこに向かうの?」
電車の終点は、知らない地名だった。方向的に、かなり地方のほうに行くことが予想される。
「だから、サプライズだって」
「どれくらいで着く?」
「せっかちはモテないよ」
切符にある地名をスマートホンで調べてもよかった。でも、梨々香がサプライズと言っている手前、それはやめておいた。何度も行き先を聞いているが、知らない場所に連れていかれることに少しわくわくしている自分もいる。
窓の向こうの景色は、すぐにのどかな住宅地に移っていた。いくら東京とはいえ高層ビルが並んでいるのは限られた場所だけで、そこを少し離れると街並みは一変する。
視線を外から電車の中へ戻す。すると、ドアのところにある広告に目が留まった。
それは、梨々香の出演するドラマ告知広告だった。主演俳優の後ろには、クラス全員の生徒が並んでいる。僕のいる場所からではその一人一人を確認することはできないが、近づいてみたら、その中に梨々香が見つかるかもしれない。
すぐ隣にいる梨々香が、全国の人が目にする広告に載っている。
僕はわずかな胸騒ぎを感じた。
「あのさ」
「なに?」
「ドラマデビューも飾った桐谷梨々香が、こうやって男の人と堂々と出歩いてていいの?」
僕の言葉に梨々香が、うーんと声を上げた。
「どうなんだろう」
先ほどの人で溢れかえっていたターミナル駅でも、すれ違う人の何人かは僕の隣にいた梨々香に目を留めていた。若い女の人なんかは、明らかに羨望の眼差しを浮かべていた。ねえ、あの子可愛くない。友達同士でそんなことを口にしているようだった。
でも、それは梨々香が芸能人だからではなく、単に彼女の美貌にほれぼれしているためだった。一人として、ドラマに出てましたよねと声をかけてくる人はいなかった。
「私、売れっ子女優だから、週刊誌に載ったら人気無くなっちゃうかな」
「まだ、売れっ子ではないでしょ」
「だよね」
梨々香は声を出して笑った。
でも、僕は笑えなかった。
確かに、今、梨々香に気付く人は少ないだろう。僕も、梨々香以外の他の出演者の顔を思い出せと言われたら、正直難しい。ドラマはまだ一話が放送されただけで、高校生役の出演者が出るシーンも少なかった。
でも、今後はどうだろうか。
一話だけでも梨々香は目立っていた。ツイッターでも梨々香に注目している人は何人も見つかっている。
「セリフ。本当は無かったんでしょ?」
僕が聞いた。
「うん。でも、演出の人が急遽脚本を変更してね。そこで増えたセリフをもらえたの」
「私にくださいって、大声で言ったんだね」
「違うよ。私は何も言ってない。プロデューサーの人から声をかけられたの。君、やってみないかって」
「そのプロデューサーってどんな人?」
「ドラマを何本もヒットさせた敏腕さんなんだって。まだ若いんだけど、彼のドラマは確実に成功すると評判って、スタッフさんが言ってた」
そう言って、梨々香はそのプロデューサーの人がこれまでに手掛けたドラマのタイトルを、何本か教えてくれた。そのどれもが、聞いたことがある有名な作品で、その中には僕が見て面白いと思ったドラマも数本入っていた。
その将来有望な敏腕プロデューサーが梨々香に目をつけたのだ。この子はこれから売れる。そう判断して梨々香にチャンスを与えたのだ。
梨々香は、確実にヒットを生むプロデューサーに期待されている。
それが何を意味するのか。
僕は、改めて広告の方を見た。
梨々香は、今はまだその他大勢だ。でもいずれ、あの真ん中にでかでかと映る主演俳優のようになるかもしれない。大きい広告やポスターの真ん中に、梨々香が映る。彼女のルックスがまたたく間に世間に広がる。それに輪をかけて、彼女の親しみやすさも全国の人が認知するだろう。
そんなことになったら、梨々香は完全に僕の隣から姿を消してしまう。もう二度と会えない、雲の上の本当に存在しているのかもわからないような人になってしまう。
僕は、風景を眺める梨々香の横顔を覗き見た。
出会った頃に比べ凛と澄んだ瞳をしている気がして、大人っぽく見える。
できることなら、梨々香のその横顔をずっと見ていたい。
そう思うと同時に、僕と同じ感想を抱く人は、今後どんどん増えていくだろうと思った。みんなが梨々香の魅力に吸い込まれていく。それを止めることはもうできない。彼女は、必ず芸能の世界で成功してしまう。
それは、喜ばしいことだ。梨々香には幸せになってほしい。
僕はそれを頭ではわかっているつもりだった。でも、梨々香の成功を喜べない。
梨々香を独り占めしたい。彼女は僕の隣だけにずっといてほしい。女優としての彼女を応援することなんて、僕にはできない。
外の景色には、緑が目立ってきた。電車は住宅街も抜け、田園地帯を走っていた。あれほど多かった建物は、今ではぽつぽつとしかない。
スマートホンで時刻を確認すると、特急電車に乗ってから一時間が経過していた。
梨々香は、ぱっちりとした目を開けて、外を眺めている。電車に乗ってから、彼女はずっとその調子だ。普段おしゃべりな彼女だが、今日に限って口数が少なかった。
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