桐谷梨々香

第32話桐谷梨々香①

 ベッドの上でごろんと寝返りをうつと、床に転がった目覚まし時計が目に入った。

 時計の針はもうすぐ午前十一時を指そうとしている。僕は、六時半に鳴り響いた目覚まし時計を止める際に、それを床に落としたことを思い出した。

 それから二度寝を得て、今にいたる。

 今日も学校を休んでしまった。これで、三日連続だ。

 僕は梨々香に想いを伝えて以降、学校に行くことができなくなっていた。

 梨々香の目の前で涙を流してしまったあの日、僕は午後の授業が残っていたにも関わらず、家に帰ってしまった。それほど、自分を保てなくなったのだ。それからというものの、ずっと今のような調子だ。部屋に引きこもっている。

 僕は、のっそりと起き上がると、部屋を出てリビングに向かった。この時間、両親は仕事に行っているので、家には誰もいない。

 テーブルの上には、手作りのサンドウィッチがあった。母さんが作ってくれたものだろう。母さんは、僕が学校に行かないことに関して、理由を聞かないでくれていた。まさか恋の悩みで学校を休んでいるとは夢にも思っていないだろうが、何かあったのだろうと察して、そっとしてくれている。

 グラスにアイスコーヒーを注ぐと、サンドウィッチをかじった。優しい味が口に広がる。

 スマートホンには、司からのメッセージがたまっていた。僕はそれを開いて、ひとつずつ目を通していった。

『これから、劇の練習!』

『パンクの衣装!』

『この台本、すごくいいよ。やってて楽しい!』

 メッセージと交互に、写真も載せられていた。

 教室で劇の練習をしている写真。瑞希がメイクをしている風景。おそらくふざけてやったであろう目元を真っ黒にメイクした司。みんなが真剣な表情で台本に目を落としているワンシーン。

 僕が休んでいる間、司は事あるごとにメッセージをくれた。だから、家にいる間も、僕はわずかに学校とつながっていることができた。

 司からの写真は、今日までで三十枚を超えていた。劇の練習が順調であることが、そこからありありと伝わってきた。写真の向こうのみんなが生き生きとしている。横山さんが作った台本は、今度こそ間違えないようだ。それを知って、僕は安心する。

 また、写真からわかることが、もうひとつあった。

 それは、司と瑞希の関係だ。写真の中には、二人がとても仲良さそうにしているものが、何枚かまぎれていた。その様子からは、二人が距離を置いているとは、とても思えなかった。

 学校の屋上で瑞希と話して以降、僕は彼女と司のことについて話をしていなかった。司から距離を置いていると聞いた手前、なんとなく、その話をすることがタブーなことのような気がしていた。また、瑞希からもそれについて話を受けることはなかった。

 サンドウィッチを食べ終え部屋に戻った僕は、学習机の上で教科書を広げた。自習だけで理解できているかはさておき、授業についていけなくなってはまずいので、勉強だけはしっかり行っている。

 三時間ほどそうしていると、司からのメッセージが入った。

『今日も張り切って練習! 結構仕上がってきたよ』

 時計を見ると、ちょうど帰りのホームルームが終わった時間だった。

 メッセージの後で、写真が追加された。司が自撮りしたものだろうか。彼の顔が、右端にアップで写っている。奥には、役者のクラスメートが数人、ポーズを決めていた。その中には、瑞希の姿もある。

 僕はメッセージを打った。

『瑞希とはどうなの?』

 ややあって、返事が来た。

『さあ』

『まだ距離置いてるの?』

『うん』

『写真では仲良さそうだけど』

『同じ役者としては仲いいよ。でも、そっちのほうは進展なし』

『そっか』

 それから一分ほど間があって、メッセージが来た。

『瑞希の気持ちがわからない』

 それに対して、僕は返事を返すことができなかった。

 何とかしてあげたい。その思いは常にあるのだが、僕は司の悩みに対して何もできなかった。

 それからは勉強に身が入らなくなってしまい、ベッドの上でスマートホンをしていた。何の記憶にも残りそうにないゴシップニュースをひたすら消費する。

 インターホンが鳴ったのは、午後八時をまわったときだった。

「真人。瑞希ちゃんだよ」

 一階から、母さんの声が聞こえてきた。

「上がってもらう?」

 瑞希が僕を訪ねてきた。正直、人と顔を合わせたくない。

「上がってもらったから」

 しばらく返事をしかねていると、母さんが瑞希を家に入れてしまった。

 僕は、状態を起こして髪の毛をなでた。

「おす」

 ノックの後で、扉から瑞希が顔をのぞかせた。

 僕は、瑞希を学習机の椅子に誘導する。

「インターホンじゃなくて、携帯で呼んでよ」

「そうしたら、真人、無視したでしょ」

 瑞希はふんと鼻を鳴らして、椅子に座った。

 悔しいが瑞希の言う通りだと思った。部屋に行っていいか尋ねるメッセージが来ても、僕は知らんぷりをしただろう。

「で、用はなんなの?」

「なんなの、じゃないよ。何があったか知らないけど、いつまで休むつもり?」

 瑞希は、僕が先ほどまで自習していたノートをぺらぺらめくりながら、そう聞いた。

「いつまでだっていいじゃん」

「それ本気で言ってんの?」

 そんなことはない。僕だって、早く学校に行きたい。

「明日から土日だから。週明けには」

「約束だよ」

 瑞希はノートをぱたんと閉じる。彼女も僕が休む理由を聞かないでくれた。

「劇の練習はどうなの?」

 僕が尋ねる。

「まあまあ」

「何か問題があるの?」

「嘘。超いい感じだよ。前の台本とは大違いで、練習がめっちゃ楽しいの。セリフもおもしろいのばかりで、みんな自分で言って自分で笑ってる。だから、今は笑っちゃわない練習で一苦労」

 瑞希はそう言うと、回転式の学習机の椅子をくるくる動かし回り始めた。

 そんな瑞希の生き生きとした口調と様子から、練習を楽しんでいるのがわかった。

 クラス演劇に関して、もう僕が心配することはないようだ。

 僕はふうっと息をはくと、スマートホンをベッドに投げ出した。そして、瑞希の頭の上に目をやる。

 僕の心配が解消される情報を、瑞希はもう一つ持ってきてくれた。それは、彼女の頭の上にあった。

 ――瀬戸司。

 その文字が、瑞希の頭上にふわふわと浮かんでいた。

 瑞希の頭上には、これまで何の文字も浮かんでいなかった。それが、今、司の名前がある。

 瑞希は司のことが好きになったのだ。

「順調なことって、それだけ?」

「どういう意味?」

 僕の問いかけに、瑞希は回転を止めた。

「司とのこと」

 瑞希はレバーを引いて、椅子を低くした。彼女の顔は、少し赤くなっている。

「順調、ではないよ」

「まだ距離置いてるの?」

「それ、司くんから聞いたの?」

 僕がうなずくと、瑞希は「だよね」とつぶやいた。

「真人には言ったけど、私、いろいろわからなくなっちゃって。距離を置いたままっていうのも、良くないことなのはわかってるんだけど」

 瑞希は、自分がどうするべきなのか、今でも悩んでいるようだった。

 でも、頭の上に正解は出ている。瑞希は、司のことが好きなのだ。彼女自身、自分の本当の気持ちに気づいていないだけで、もう幸せは目の前だ。

「司くん、なんか言ってた?」

 瑞希が、僕に問いかけてきた。

 僕は司とのやり取りを頭の中を整理してから、口を開く。

「司も悩んでるよ。瑞希の気持ちがわからないって」

 瑞希は、ため息をついた。

「もう愛想つかされて。私のこと好きじゃなくなっちゃったかな」

「そんなことはないよ」

 僕はきっぱり言った。司は瑞希のことが好き。それは今でも変わらない。

「そうかな」

「それに、瑞希も司のことが好きでしょ?」

 瑞希は僕と目を合わせた。

「真人。前は、私が司くんのこと好きじゃないって言ってたよね?」

「今は好き。好きになった」

 僕はそう言うと、瑞希は、ふふっと声を漏らした。

「なんで、真人にそんなことが言えるの?」

 僕は答えに窮した。すると、瑞希は声を上げて笑った。

「ほんと、真人には何でもお見通しなんだね。私でも、自分の気持ちがわからなかったのに。真人にはわかっちゃうんだ」

 今すぐ消えてほしい能力だけど。瑞希の言う通り、僕には人の恋愛感情がわかってしまう。

「司のこと、好きなの?」

「そうなのかな。真人に言われて、なんかそんな気がしてきた」

 瑞希は立ち上がると、天井からぶら下がった電球の紐を手で揺らし始めた。

「距離置こうって言ってからね、私、司くんのことずっと考えてたの。今は演劇の練習でずっと隣にいるけど、これが終わっちゃったら、話もしなくなっちゃうのかなって。そう思ったら、寂しいなって思えてきて。それから、なんだか、司くんが近くにいる時間がとても大切な気がしてきてね。うまく言えないけど、私、司くんのこと好きなのかもしれない」

「じゃあ、その気持ち、司に伝えないとね」

 瑞希は、最後に紐を強くたたいた。

「うん」

「司も喜ぶだろうな」

 電球の紐がゆらゆら揺れている。

「私、帰るね。月曜日、絶対来るんだよ」

 瑞希は紐の揺れが収まるのを見届けてから言った。

「わかってるって」

 玄関まで瑞希を見送るために、僕も部屋を出た。

 瑞希は玄関扉に手をかけたところで、僕に振り返った。

「真人もだからね」

 僕は首を傾げた。

「何のこと?」

「大切な人。できたんじゃないの?」

 瑞希はそう言うと、へへっと笑って帰っていった。

 僕はしばらく瑞希が出て行った玄関扉を見つめた。その後でちらりと姿見に目をやった。

 僕の頭上には、相変わらずの文字がある。

 この文字は、いつ消えてくれるのだろうか。

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