第31話目に映る事実と気持ち⑧

 横山さんは、本当に一晩で台本を作ってきた。

 朝のホームルームの終了後。少し遅れて教室に入ってきた横山さんは、そのまままっすぐ新垣くんのもとへ向かい、紐で綴じられたコピー用紙の束を彼に渡した。

「みんな、聞いてくれ!」

 それを受け取った新垣くんは、そう声を上げ、教壇の前に立った。そして、その原稿を高く掲げる。

「台本ができた」

 一瞬の間があって、わっと歓声が上がった。手をたたく音がしたり、ヒュッと口笛がなったり、本番さながらの大賑わいだ。

 昨日のクラス会議ではもう崩壊寸前だったクラスのみんなが、一丸となって台本の完成に喜びの声を上げている。

 誰がこんな光景を予想できただろうか。

 すべては横山さんのおかげ。違う。クラスみんながそれぞれの仕事を全力で取り組んだ結果だ。

「よっしゃ。俺たちはこれから死ぬ気で練習だ!」

 司が拳を上げた。それに合わせて、役者のみんなが声を上げる。やるぞ、とか、楽しみになってきたと、やる気に満ちている。

 教室の隅でクールにたたずんでいる横山さんにも笑顔があった。後は任せた。そう語っているような、達成感に満ちた微笑みを浮かべていた。きっと、昨日の放課後から今まで全力で台本作りにあたっていたのだろう。目元に薄っすらうかんだくまさえも、カッコよく見えてしまう。

 そんな活気に満ちた教室には、珍しく梨々香もいた。彼女も、台本の完成に手をたたいて喜んでいる。

 横山さんが完成させた台本を読んだわけではない。それに、瑞希や司がどんな演技をするのかも全くわからない。でも、クラスメート全員が、文化祭で演劇ができることに喜んでいるこの状況を見ると、絶対にクラス演劇は成功すると思えた。

 数日後に控えた本番がとても楽しみだ。

 昼休み。

 屋上で練習だ、と意気込んで階段を駆け上がっていった役者のみんなの脇を通って、僕は国語科準備室に来ていた。改めて、僕たちが完成させた背景画を見たくなったのだ。

 ドロシーの住むカンザス州の村。マンチキンの国。黄色いレンガ道。花畑。森。エメラルドの都。王座。

 僕と梨々香による約三カ月間の成果だ。どんなに台本が素晴らしくても、どんなに演者の演技が巧みでも、それらに劣らないほど良くできている。

 横一列にたて掛けられたそれらを、僕は順番に見渡した。

「なーに、感傷に浸っているの?」

 扉のところで、梨々香が悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見ていた。

「そう言う梨々香も、用ないのにここに来てるじゃん」

 梨々香は、ふんと鼻を鳴らした。

「みんなからドラマ見たよって言ってもらうのに疲れちゃって。嬉しいことなんだけどね」

 そう言って、梨々香は僕の隣に来た。

 確かに、クラスのみんなの梨々香に対する羨望の眼差しは、朝から半端なものではなかった。みんな、昨日のドラマを見て、梨々香の芸能人っぷりに肝を抜かしたのだろう。

 そんな僕は、梨々香に声をかけられないでいた。注目されっぱなしの彼女と親しげに話なんかしたら、刃物のように鋭利な視線を一斉に向けられること間違いなしだ。それが、怖かった。

 正直に言うと、梨々香に話しかけられなかった理由はそれだけではなかった。

 僕はふてくされていたのだ。日本中からの注目を集めている梨々香の視線には、もう僕なんて映っていないような気がした。だから、僕も彼女には関わらないでおこう。そんな情けない思考が働いていた。

「何、黙ってるの?」

 梨々香にそう聞かれてしまった。

 僕は、変に意識してしまって、うまく言葉が出てこない。思えば、梨々香の名前が自分の頭上に浮かび始めてから、彼女とあまり顔を合わせていなかった。

「別に。ファンをないがしろにしてたら、痛い目見るよ」

 ぶっきらぼうに、そんなことを言ってしまう。

「わかってるし」

 梨々香も、やや機嫌を損ねたような声でそう返してきた。

 しばらく、どちらも黙っていた。校舎からのにぎやかな声が、遠くから聞こえてくる。

「真人くんは見てくれた?」

 梨々香が尋ねてきた。

「何を?」

 わかっているのに、そんなことが口から漏れる。

「ドラマだよ」

「見たよ」

「どうだった?」

「ドラマの話されるのに疲れて、ここに来たんじゃないの?」

「なんだよ、冷たいな」

 梨々香は、唇を突き出してそう言った。相変わらず、松山奏汰の文字が頭上に浮かんでいる。

 僕はそれから目を逸らすように、背景画に向きなおった。

「面白かったよ」

「それだけ?」

「うん」

「私、セリフあったでしょ。どうだった? 変じゃなかった?」

「綺麗だった」

「えっ?」

「あのドラマの中で、梨々香が一番、綺麗だった」

 何言ってるんだろう、と思った。でも、言ってしまった。

 梨々香は、しばらく言葉を返してこなかった。

 僕は、梨々香のことを見れずに、まっすぐ前を向いていた。

「……冗談だよね? 困っちゃうな、真人くん冗談なんてあんまり言わないのに。まじめな顔してそんなこと言うんだもん」

 梨々香の声色から、彼女が戸惑っているのがわかった。僕の口から出た言葉が信じられないようだ。

「冗談なんかじゃないよ。正直に言ってるのにひどいな」

 少し、投げやりだった。

 梨々香はもう僕なんかが手を伸ばしても、届かないほど遠い存在だ。僕なんかが、梨々香に恋をするなんて、身の程知らずのお門違いなのだ。だから、素直に梨々香が綺麗だと認めて、恥ずかしいことなんてなにもない。あの女優がタイプ、あのアイドルが推し。そう言っているのと、同じことだ。

 それに、梨々香には松山奏汰という存在がいる。今思えば、その彼は、梨々香が仕事で知り合ったモデルか俳優なのかもしれない。僕なんかとは正反対で、あか抜けていてカッコいい人なのだろう。そういえば、梨々香が名前を浮かべた日と、ドラマの撮影が始まった時期は重なっている。

「そっか。……ありがとう」

 梨々香の言葉もぎこちなかった。普段口にしないようなことを言う僕に、調子を乱しているようだ。

 またも、沈黙になってしまった。

「ドラマの出演者の中で、友達できた?」

 今度は、僕から声をかける。

「うん。たくさん」

 この学校でも驚異的なスピードで友達を増やしていった梨々香だ。友達作りなんて、彼女からしたら朝飯前だった。

「カッコいい人、結構いたよね。好きな人とかできたんじゃない?」

「そんなことないよ」

「好きな人、できてないの?」

「うん」

 嘘つき、と僕は胸の内でつぶやいた。

「そっちはどうなの? 真人くんが誰かを好きになる大作戦は終わってないよ」

 それを聞いて、僕の鼻からふっと笑いが漏れた。そんな作戦もあったっけ、と懐かしさが込み上げてくる。

 その作戦なら成功したよ、と言ってあげたい。でも、できない。梨々香に気持ちを打ち明けることになるからだ。そんなことしたら、彼女も困るだろう。

「ドラマの出演者の中に、本名が松山奏汰って人いる」

 僕の言葉に、梨々香の肩がぴくっと震えたのがわかった。

「……いない……けど」

 梨々香が明らかに、先ほどより動揺しているのがわかった。それほど、その名前を言い当てられたくなかったのか。

「じゃあ、モデルの仕事仲間には?」

「やめて!」

 キンッとする声を梨々香は放った。

 僕は、ぴんと背筋を伸ばした。聞き過ぎたかもしれない。本来、自分の好きな人について根掘り葉掘り詮索されたくないものだ。僕は、その一線を越えてしまった。

「ごめん」

 つぶやくようにそう言った。

 梨々香の呼吸は、少し荒くなっているようだった。松山奏汰の名前を出すことは、そんなにまずいことだったのだろうか。

「大丈夫?」

 梨々香を向いて、そう尋ねる。

「もしかして。私の頭の上に、その名前が浮かんでるの?」

 僕はちらりと梨々香の頭上に目をやった。

「やっぱり」

 僕の目線で、梨々香は自分の頭上にそれあることがわかったようだ。

「真人くんの能力って、やっぱり本物だったんだ」

 梨々香が言う。先ほどより、少し落ち着いてきたようだ。

「誰なの? 松山奏汰って」

「それより、その名前って、ずっと私の頭の上に浮かんでたの?」

 いや、と僕はそれを否定する。

「二週間前くらいから。ちょうど盆踊りの後、公園でその名前が見え始めた」

 そのときの梨々香の涙については、触れないでおいた。

 梨々香は少し考え込んだ様子を見せた後、へへっ、と自嘲気味に笑った。

「私が奏汰のことを思い出したのも、そのころからだっけ」

 梨々香は自分に言い聞かせるように、そう言った。

 彼女は松山奏汰のことを思い出したために、頭上に名前を浮かべたようだ。ということは、今まで忘れていた、今は顔を合わせていない人物なのだろうか。

 梨々香は、すっきりしたような顔をしていた。そんな彼女を見ていると、僕は、涙が出てきそうになった。

 梨々香は自分の頭上に松山奏汰の文字が浮かんでいることを受け入れている。つまり、彼女は、松山奏汰のことが好きだということを認めているのだ。

 僕は梨々香とずっと一緒にいることができない。その不安が急に実感として現れ、泣いてしまいそうになった。

 僕は唇を噛み締め、それを必死にこらえる。

「私の好きな人、ばれちゃったんだから。真人くんに好きな人ができたら、絶対、教えてよね」

 梨々香は吹っ切れたような笑顔で、僕を見た。そんな彼女に、僕の感情はさらにかき乱される。

「好きな人ができたかどうかはわからない」

 僕の頭の中は、真っ白になっていた。それなのに、言葉が口からあふれてくる。

「でも、僕の頭の上にも文字が浮かんでる」

 僕がそう言うと、梨々香のぱっと目を見開いた。

「うそっ。だれだれ?」

 梨々香は興奮気味に、一歩、僕に近づく。

「桐谷梨々香」

 ふわっと高いところから落っこちるような感覚に襲われた。

 言ってしまった。

 梨々香への気持ちを、彼女の目の前で言葉にしてしまった。僕にしか知り得ない事実を、現実に持ち出してしまった。

 梨々香は、ぼけっと口を開けたまま、僕のことを見ている。

 キーン、コーン、カーン、コーン。

 しんとした教室に、昼休みの終了を伝えるチャイムが鳴り響いた。

「それって告白?」

 チャイムが鳴りやむのを待って、梨々香が言った。

「いや。目に見えた事実を伝えただけ」

 僕は、教室から出て行こうする。

「ちょっと待って!」

「授業始まるよ」

「それどころじゃないでしょ」

「授業は大事だよ」

 梨々香は、ゆっくり首を振った。

「真人くんにそんなこと言われて。私、どうすればいいの?」

 僕は首を傾げた。梨々香の言っていることの意味がよくわからなかった。

「梨々香は松山奏汰って人のことが好き。だから、僕が梨々香のことを好きでいても、梨々香には関係ない。そうでしょ?」

 梨々香はわずかにうつむいて、僕の顔から視線を外した。

「じゃあ、なんで私にそんなこと言ったの?」

 確かに、その通りだ。なぜ、僕は正直な気持ちを梨々香に言ってしまったのだろう。それを口にすることで得られることなど、何もないのに。

「この能力があったからかな」

「好きな人がわかる能力?」

 僕は、こくりと頷く。

「この能力のおかげで、自分の気持ちに気づけたわけだし。それに、梨々香が僕のことを好きじゃないってわかってたから、逆に自分の気持ちを伝えられたのかもしれない」

「どういう意味?」

「好きな人に好きだと伝えるって、相手がその気持ちに応えてくれるかもしれないと期待してるってことでしょ? だから、本来だったら、僕なんかが梨々香に告白するなんて、なに期待して自分の気持ちなんか伝えてるんだよって感じじゃん」

 僕は、笑顔を見せた。それは、照れ隠しなのか、強がりなのか、涙をこらえた笑顔なのかは、わからない。

「梨々香が僕のことを好きじゃないって知っていたから、期待なんかせずに済んだ。それで、自分の気持ちを伝えられたのかもしれない。あのアイドルが好きって言うみたいに」

 なんだか、本当に笑えてきた。

「今、初めて、この能力があってよかったって思えたよ」

 この能力が無ければ、僕は無駄な期待を抱くことになっていた。そんな期待、思い上がりもいいところなのに。

 ぼくは、へへっ、と声を上げて笑った。

 でも、梨々香はずっと真剣な眼差しで僕を見ていた。そんな彼女の目が、少し潤んでいるようにも見える。

「それを伝えられた私の気持ちは、考えてくれなかったの?」

 梨々香はつぶやくように言った。

「梨々香の気持ちは知ってる」

 梨々香は、梨々香のことが好きな僕ではなく、松山蒼汰のことが好き。そんなことは痛いほどよくわかっている。

 自分の右頬に、すうっと水滴が伝った。それを手で拭うと、もう片方の頬にも雫が零れ落ちた。

 涙で目の前が霞む。このときはじめて、自分が涙を流していることに気付いた。

この能力がなければ、僕もみんなみたいにドキドキできたのだろうか。

 僕に能力が無ければ。梨々香の気持ちを知らなければ。もしかしたら彼女も自分のことが好きなのかもしれないと、期待することができた。それは、とてもドキドキすることなのだろう。梨々香が僕に向けた言葉や行動をひとつひとつ取り上げて、あれはどういう意味だったのかとか、もしかしたら僕のことを好きなのかもしれないとか思って、胸をときめかすことができたのだろう。そうしたら、世界がもっと色鮮やかに見えたかもしれない。

 梨々香の前で涙を流すなんて、情けない。でも、それは止まってくれない。

 とめどなく流れる、涙のせいだろうか。

 梨々香の頭上に浮かぶ文字が、一瞬、消えたような気がした。

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