第29話目に映る事実と気持ち⑥

 結局、横山さんが学校に姿を現すことはなかった。

 だから、一日中、教室全体には演劇をあきらめたムードが漂っていた。

 朝、横山さんの姿はなかったときは、僕は諦めていなかった。放課後までには来るはずだと信じていた。でも、とうとう最後の授業が終わるまで彼女が姿を見せなかった。

 僕は、横山さんについて新垣くんに尋ねられた。

「説得はできてないけど、絶対に来るはず」

 僕の言葉に、新垣くんは首を傾げていた。横山さんが来る理由をちゃんと説明できていないので、彼の疑問はもっともだ。

 それから二、三やりとりをしたが、新垣くんが納得できる説明はできないでいた。彼は、諦めたのか、やがて僕から離れて行った。

 帰りのホームルームも終了し、放課後になってしまった。

 どんよりとした空気のまま、クラスのみんなは席についている。そんな中、新垣くんが教壇の前に立った。

「残念ながら、横山はいない」

 新垣くんのその言葉は、重たい教室の空気に吸い込まれ、むなしく消えていった。

「でも、みんなにアイデアを考えてきてもらった。だから、できるだけことはしよう」

 その言葉に、教室中が少しざわついた。

「中止にはしないってこと?」

 前の方から、そう声が上がる。

「俺もそんなことはしたくない。役者のみんなが演じられる台本を全員でつくれたら、無事クラス演劇ができるでしょ?」

 新垣君の希望のある言葉の後で、教室から歓声が起こった。やるぞとか、楽しくなってきたといった声が上がる。

 みんな、演劇を完成させたいのだ。

 そうして、クラス全員で台本を考えることになった。

 まずは物語を起承転結の四パートに分け、その中に各シーンを入れ込んでいった。

 書記が黒板に縦線を三本引き、黒板を四つのスペースに分けると、そのそれぞれに起、承、転、結と文字を入れる。その後で、各パートの初めのシーンと終わりのシーンを決めた。起のパートの初めはドロシーの登場、終わりはドロシーの町が嵐に巻き込まれオズの国に行くまでと、それは原作に従って順調に決まった。また、役者、衣装、小道具、背景は既に決まっているので、それも要素として黒板に追加した。

 そうした後で、クラスのみんなが、それぞれのアイデアを、それぞれのパートの内容に合うところに書き込んでいった。

 間もなくして、黒板がみんなのアイデアで埋まった。それから、それぞれのアイデアに対して、みんなで採用するかしないかの会議になった。その中でも、水島くんのパンク調のオズの魔法使いという案はみんなからもウケが良く、早速、題名が「パンク・オズ」に決まった。

 派手な髪色のドロシー、ドレッドヘアのオオカミ、上半身裸でモヒカン頭のかかしと、ユニークなアイデアがたくさん出てきた。

 クラスのみんなが発言し、活発な教室を見ていると、なんだかうまくいきそうな気がしてきた。雨降って地固まる。そんな言葉さえ浮かんできた。

 しかし、問題は根本的なところにあった。

「みんな、ちょっと待って」

 教室が盛り上がる中、瑞希がそう言って立ち上がった。すると、その場はさっと静まり返り、みんなが一斉に彼女に注目した。

「確かにこのままだと台本っぽいものは作れそうだけど。でも、台本がなんかおかしいっていうのは演じてみないとわからないんだよね」

 瑞希のこの言葉に、役者組から、確かにという声が上がった。それを聞いた僕も、なるほどな、と思ってしまった。

 僕たちは物語の専門家ではない。だから、良い台本と悪い台本の識別は、台本そのものからではわからない。良いか悪いかは、演じられたものを観てみないとわからないのだ。

 僕は、ため息をついてしまった。

 瑞希の言っていることを受けると、僕たちにはあくまでも台本もどきを作る能力しかないことになる。それはつまり、この場では、納得のできる台本を作ることができないことを意味していた。

 クラスのみんなもそれを察したようで、先ほどまで盛り上がっていたのが嘘だったかのように、黙り込んでいる。

 しーんとした教室。

 やはり、僕たち二年三組のクラス演劇は、横山さんなしでは実現できないようだった。

 クラスにまた諦めの雰囲気が漂いだした。もうやめよう。そんな言葉さえ出始めた。

「やっぱり、クオリティなんてどうでもよくない?」

「そうだよね。せっかくここまで準備して来たんだから、このままやろうよ」

 誰かがそんなことを口にした。

「じゃあ、お前たちが役者もやれよな。俺たちはやらないから」

「はあ? 私たちは衣装作ったんだから」

「てか、最初から役者選んどいて、なに今更恥ずかしがってんだよ。中身がどうであれ、責任もってやるべきだろ」

「だから、恥さらしもいいところなんだって」

「ほんとにこのままやるなら、私、文化祭行かないから」

 なんだか、とんでもないムードになってしまった。みんなが自分の思っていることを口にしだし、いつ喧嘩が起きてもおかしくない様子だ。

「今ちゃんと考えれば、演じてもおもしろいものが作れるはずだよ」

 新垣くんのそんな言葉もむなしく消え、教室にはまたどんよりとした雰囲気が戻ってきてしまった。

 横山さんがいれば解決する。しかし、僕は約束したにも関わらず、彼女をここに連れてくることができなかった。本来であれば、ここで責められるのは僕自身だ。僕は仕事を果たせなかったのだ。

 でも、みんなが僕を非難することはなかった。それどころか、誰も僕に目もくれないでいる。

 おそらく、最初から期待されていなかったのだろう。僕がいてもいなくても、このクラスは同じようにまわっていくのだ。

 そう思うと、僕も諦めたい気持ちになってきた。もうどうでもいい。そんな気にすらなっていた。

 重たい沈黙はしばらく続き、もう終わりかなと思った。

 そのとき。

 ガラッと教室のドアが開かれた。

 全員の視線が一斉にそちらに向く。

 僕も同じように扉の方を見た。横山さんが来てくれた。それを確信した。

 でも、扉から顔を出した人物は横山さんではなかった。

「やってるか?」

 そう言いながら教室に入ってきたのは、三島先生だった。

 このクラスを担当していない先生の登場に、みんなはぽかんとした顔をしていた。この中には彼のことを知らない人もいるだろう。みんな、彼が何のためにここに来たのかわからないはずだ。

 無論、僕はなぜ先生がここに来たのかわかった。横山さんが来ているかを確かめに来たのだ。

 それを証明するように、三島先生はゆっくりと教室全体を見渡した。そして、一通り首を動かすと、表情を曇らせた。

「……来ていないようだな」

 彼はそうつぶやいて、出て行こうとした。

「先生!」

 僕はすかさず立ち上がって、そう叫んだ。

 先生は扉に手をかけたまま、こちらに振り向く。

「どうした」

「助けてください」

「助ける?」

「僕たちでは台本は作れませんでした。だから、先生、僕たち二年三組のクラス演劇の台本を作ってくれませんか? 先生なら、できますよね」

 三島先生は僕の言葉を聞くと、黒板に目をやった。そこに書かれている内容を吟味したような時間が過ぎると、先生は口を開いた。

「もともとは俺のせいだもんな」

「お願いします」

 水島くんも立ち上がって、頭を下げた。彼も横山さんをあきらめているようだ。

「この黒板に上がっているアイデアを拾っていけばいいのか?」

 三島先生は教壇の前に立っていた新垣くんに聞いた。

 新垣くんは、事の運びがわからないようで、戸惑いを隠せないでいる。

 僕と水島くん以外の人は、なぜ台本が完成しなかったのが三島先生のせいであるのかわからない。だから、彼の協力に疑問を抱くはずだ。

「そうです。黒板に書かれたことは、ここにいるみんなのアイデアです」

 三島先生とのやりとりは、僕がする。

 先生は、なるほどねとつぶやいて、チョークを手に取った。

「役者の数を詳しく教えてくれ」

 三島先生は、黒板から振り返り、僕たちの方に身体を向けた。すると、彼は、ふんと鼻を鳴らしてから、チョークを置いてしまった。

「やめた!」

 突然のことに、僕は意味がわからなかった。

「どうしてですか?」

 水島くんが聞く。

 すると、三島先生は、何も言わずに後ろの扉の方を指さした。

 指の先を見る。

 そこには、横山さんの姿があった。

 横山さんは、肩にかけたスクールバックの持ち手をぎゅっと握って立っていた。

「さち」

 水島くんが喜び交じりの声を漏らす。

 僕はため息がでた。遅すぎだよ、と思いながらも頬が緩んでしまう。

 僕は口をつぐんでいる横山さんの姿を見て、このクラス演劇の成功を確信した。彼女が来れば安心だ。心からそう思えた。

 クラス全体の注目を集めている横山さんだが、しばらく黙って立っていた。肩がわずかに上下していて、呼吸が乱れているのがわかる。深呼吸をして自分を落ち着けているのだろう。僕たちも黙っていると、彼女はやがて口を開いた。

「私に……」

 そう言って、うつむいていた顔を上げた。

「私にできますでしょうか」

 横山さんの視線の先には、三島先生がいる。彼女は、先生に問いかけているのだ。

 僕は、三島先生に向きなおる。

 彼は、咳ばらいをひとつした。

「できるかできないかは、やってみって、ようやくわかる。そうだろ?」

 三島先生の言葉に、横山さんの表情がほころんだ。彼女は、はい、と言ってスクールバックを肩から降ろす。

「登場人物、小道具、背景をあるだけ全部教えて。みんなが作ったものを全部使った台本を書くから」

 横山さんはそう言いながら、黒板の前まで歩いてきた。

 三島先生はそんな彼女の様子にふっと笑みを漏らすと、何も言わずに教室から出て行った。

 パズルのピースがはまったような気がした。これでクラスがひとつになった。クラス演劇は間違えなく成功する。

 横山さんは、黒板を一望していた。小柄な横山さんと比べると、黒板はとても大きく見える。彼女は、大きな敵に向き合っているようだ。

「いつまでにできる?」

 新垣くんが尋ねた。

「本番来週だから、できるだけ早い方がいいんでしょ?」

「まあ、そうだね」

「明日には完成原稿を渡せるようにする」

「明日?」

「遅い?」

「いや。問題ない」

 小柄な横山さんが大きく見えた。堂々していて、頼もしい。

「あきちゃん」

「なに?」

 水島くんが返事をした。

「パンク・オズらしいけど。音楽は決まってるの?」

「頭の中にはある」

「その曲。ユーチューブで聞ける?」

「うん」

「じゃあ、曲名教えて」

 てきぱきとする横山さんを、僕を含めたクラスのみんなは、ただ見ていることしかできなかった。

「横山、俺たちに何かできることってある?」

 手持ち無沙汰な様子の新垣くんが尋ねる。

「私は徹夜で台本を完成させる。みんなは、明日以降、徹夜で劇を完成させる。だから、今は休んだ方がいいよ」

「……わかった」

 横山さんの言葉に、みんなが息を飲んだだろう。これから本番まで、今までにないくらいあわただしい準備や練習が始まる。

 パンク・オズ。きっと素晴らしい演劇になる。僕と同じように、クラス全員がそれを予感したはずだ。

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