第26話目に映る事実と気持ち③

 僕は校庭の隅にあるベンチに座って、離れたところでキャッチボールをしている野球部をぼんやりと眺めていた。

 悩み事があったり、考えがまとまらないとき、これまでの僕は決まって屋上に足を運んでいた。しかし、今日はそこへ行くことがためらわれた。司か瑞希がいるかもしれないからだ。あの二人と、今、顔を合わせてしまえば、また違ったことを考えないといけなくなる。

 水島くんは、ひとりで国語科準備室を飛び出していった。幼馴染を助けたい彼は、悩んでいる僕を置いていった。彼からしたら、僕の考えることはつまらないことなのだろうか。

 野球部はキャッチボールを終えたようで、ホームベースのところに集まっている。楽しそうに談笑しているような様子を見ていると、気持ちがかき乱される。自分が何を恐れているのか、わからなくなる。

「福本」

 声をかけられ振り向くと、新垣くんが立っていた。

「新垣くん」

「横山の件、うまくいった?」

 新垣くんは、期待に満ちた顔をして聞いてきた。僕がこんなところでのんびりとしているので、横山さんを説得できたと思ったのだろう。

「いや。まだ、これから」

 僕は笑ってごまかす。

「なんとか成功させたいよな。クラス演劇」

 新垣くんは、そう言って僕の隣に腰を下ろした。

「みんなそれぞれの得意なことを活かして準備してきたのがわかるから、ここで無かったことにはしたくないよ」

 今までクラスを取りまとめてきたクラス委員も、クラス演劇の成功を強く望んでいるようだ。

 新垣くんの気持ちを聞いたのは、初めてだった。彼は、いつも中立的な立場にいて、自分の感情を隠しているようだった。

 全ては横山さんにかかっている。

 でも、僕はまだ彼女をクラス演劇に引き戻すべきかわからない。

 新垣くんとの間に沈黙が訪れると、僕の口からふと言葉が漏れた。

「マジカルガールズの橋本優香はしもとゆうかって好き?」

 その名前を聞いて、新垣くんはぴくりと肩を震わせた。

「どうして?」

 新垣くんは、明らかに動揺していた。

 橋本優香。その人物は、最近テレビによく出る人気アイドルグループのひとりだ。年齢は僕たちと同じ高校二年生。アイドルの中でも際立ったルックスでかなり人気がある。

 そして、橋本優香は新垣くんの頭上に浮かんだ名前でもあった。

 僕に能力が芽生えてからずっと、新垣くんの頭上には『橋本優香』という文字が浮かんでいた。しかし、その時点で、僕はそのアイドルを知らなかった。それから数日して、初めてテレビに映る彼女を見た。

 アイドルに恋愛感情を抱く。まさかとは思ったが、ずっと気になっていた。同姓同名の別の人だろうとも思っていた。しかし、彼の持ち物にマジカルガールズのグッズがあるのを見て、確信した。そこで、僕はそういう恋愛もあることを知った。

 僕は、できるだけ冗談めいた口調を意識して続けた。

「マジガルのシャーペン持ってたでしょ?」

「ばれてた?」

 新垣くんは、照れたように笑顔を見せた。なんとか、重い雰囲気にならずに済んだようだ。

「いつから好きなの?」

「高校入ってから。友達の付き合いで握手会に参加したんだけど。その時、たまたま並んだ列が橋本優香で。それからはまってる」

「可愛いよね」

 僕がそう言うと、新垣くんは嬉しそうに僕を見た。

「もしかして福本も好きなの?」

「僕は、まあまあかな」

「まあまあって、お前、どの立場で言ってんだよ」

 新垣くんが笑うので、僕も笑った。

 それが一段落すると、僕は、でもさ、と口を開いた。

「橋本優香とは、付き合ったりできないよ」

 新垣くんから笑顔が消えた。

「そんなのわかってるよ」

「付き合いたいって思わないの?」

「そりゃ、思うけど。でも、それ本気で思ってたら痛いやつじゃん?」

 新垣くんは、本気で恋をしている。でも、アイドルとは付き合えないということは理解しているようだ。

 なんだか切ない。だけど、この状況は、横山さんと三島先生の関係に似ているなと思った。うまくいかないことがわかっている恋。

「付き合えないのに好きって、辛くないの?」

 僕がそう聞くと、新垣くんは吹き出した。

「福本って面白いな。仮に俺が辛いとなると、この世の中にめちゃくちゃいるアイドル好きが全員辛いってことになるぞ」

 アイドルの名前を頭上に浮かべる人は、今のところ新垣くんしか例がない。僕がアイドルについて疎いということもあるが、それでも、新垣くんみたいな人は少ないはずだ。よって、新垣くんの今の言葉は理屈として成り立たない。

「そうだよね」

 新垣くんにアイドルに恋をしていることを認めさせる目的はないので、僕はそう返した。

「テレビとかライブで見たり、たまに握手会に行くだけで幸せっていうか。応援してるとこっちも頑張ろうって思うし。存在してくれてありがとうって感じ」

「へえ」

 新垣くんは、顔を赤くしていた。

「俺、何言ってんだろう。やっぱ、橋本優香のこと好きなんだろうな。あー、付き合いてー!」

 彼はひと際大きい声で、そう叫んだ。離れたところにいた人が、ちらりとこちらを見る。

 笑っている新垣くんを見て、僕は、なんだか微笑ましい気持ちになった。

 本当は辛いのかもしれない。決して近づくことができない人に恋をして、もどかしかったり、歯がゆかったりするのだろう。

 でも、なんだか楽しそうだ。叶わない恋を楽しんでいるように見える。

「もし、橋本優香が引退したらどうする?」

「死んじゃう」

 僕もなんだか笑えてきた。人の恋に関してあれこれ悩んでいた自分が馬鹿みたいに思えてくる。

 きっと、横山さんも新垣くんと同じような気持ちなのだろう。三島先生と接するだけで幸せ。だから、きっと嫌われたと思った彼女は、新垣くんの言う「死んじゃう」と同じような気持になっているはずだ。

 僕は立ち上がった。

「横山さんの説得に行ってくる」

 新垣くんも立ち上がった。

「おう。頼んだぞ」

 僕は強く頷くと、国語科教員室へと駆け出した。

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