第23話僕に能力がなければ⑧

 梨々香と川村さん、そして水島ブラザーズと回る縁日では、司と瑞希のことについて、あれこれ考える余裕など全くなかった。子供たちが、チョコバナナだの、かき氷だのひっきりなしに自分の食べたいものを主張してくるし、梨々香とは喧嘩別れをして以来なので、距離感をはかりかねていた。

 子供たちを世話するように歩く川村さんの少し後ろを、僕と梨々香がついてまわる。

「川村さん、水島くんの家行ったの?」

 僕が聞くと、梨々香は、うん、と頷いた。

「この日のために、瞳ちゃん、加奈ちゃんたちの浴衣作ったんだもん」

「川村さん。そんな積極的だったっけ?」

「もともと、気持ちだけは熱かったでしょ。それに、瞳ちゃん自身も、自分を変えたいって思ってたみたいで。だから、頑張ってるの」

 川村さんは、楽しそうに加奈たちの相手をしている。

 彼女も、梨々香と接することで、少し変わることができたのだ。

 梨々香には、人を前向きにする超能力があるのかもしれない。

 それから、一時間ほど、水島ブラザーズに振り回されっぱなしの時間が続いた。子供の扱いに全く慣れていない僕は、隆史や加奈が欲しがるもののほとんどを買って与えてしまった。だから、満足そうな子供たちの横で、僕の財布は悲鳴を上げていた。

「真人、大丈夫?」

 長女である小学五年生の真央が、僕に声をかけてくれた。財布を見て、少しうろたえていた僕に気を遣ってくれたのだ。

「大丈夫だよ。真央は、楽しかった?」

 真央に気を遣わせないよう、精一杯の笑顔で返す。

「すっごく楽しかった。お兄ちゃんとお姉ちゃんがたくさんできたみたい」

「それなら、よかった」

「お兄ちゃん、大丈夫かな」

 無邪気な笑顔を見せていた真央だが、急に、眉を下げてそう言った。

「お兄ちゃんって、水島くんのこと?」

「うん。最近ずっとバイトで。ご飯も、加奈の世話も、私たちの宿題も見てくれてるけど、最近、なんか大変そうで」

 小学五年生にもなると大人だな、と思った。

 子供たちの世話を一手に引き受けている水島くんだが、身近にいる真央はその苦労に気付いているのだ。

「じゃあ、真央は、お兄ちゃんのお手伝いしてあげれば、お兄ちゃん喜ぶんじゃないの?」

 そう言うと、真央の表情は、ぱっと明るくなった。

「私ね、お兄ちゃんいないときに、料理の練習してるの。もう、ハンバーグと野菜炒めは作れるんだよ」

「すごいじゃん。じゃあ、今度、お兄ちゃんに食べさせてあげようよ」

「うん。そのときは、真人にも食べさせてあげるよ」

 真央は得意げに言う。僕にも食べさせてくれるみたいだが、ちょっと上から目線の物言いをされた。僕は少しなめられている気がするが、そこは気にしないでおく。

「そろそろ、秋良くんバイト終わる時間だよ」

 梨々香が言った。

「じゃあ、私たちも帰る時間だね」

 隆史と加奈と手をつないでいた川村さんが、子供たちに声をかけた。それを聞いた真央も、川村さんのもとへ駆け寄る。

 僕たちは、みんなでそろって神社を出た。

「じゃ、瞳ちゃん、この子たちのことよろしくね」

 鳥居から出たところの通りで、梨々香が立ち止まると、そう言った。

 川村さんは、えっ、と声を漏らした。梨々香が口にしたことを理解できていない様子でいるようだ。

「私と真人くんは、もう少し遊んでいくから。この子たちをおうちに帰すのは、瞳ちゃんのお仕事」

 梨々香は、子供たちを川村さんに押し付ける。

「僕たちも一緒に帰ればいいじゃん」

 川村さんを気の毒に思った僕の言葉に、梨々香は首を振る。

「みんなも、瞳ちゃんと一緒に帰りたいよね?」

「うん!」

 隆史が元気よく声を上げる。

 隆史と加奈は、先ほどからずっと、川村さんとつないだ手を離さない。

「瞳ちゃん、帰ろ」

加奈のもう片方の手を握った真央が言う。

 水島ブラザーズは、みんな、川村さんにべったりだ。

 川村さんも観念したのか、子供たちに向きなおった。

「帰ろっか!」

「瞳ちゃん」

 梨々香が声をかける。

「チャンスだからね」

 梨々香の含みのある表情に、川村さんはあごを引いて頷いた。

 僕たちは、手を振って、川村さんと水島ブラザーズのうしろ姿を見送った。

「これでよし」

 振っていた手を下ろした梨々香が、ふうっと息を吐いた。

「どうして、川村さんに子供たち押し付けたの?」

「え、わからないの?」

 梨々香は、細めた目を僕に向けて来る。

「もしかして。水島くんと二人にするため?」

「当たり前じゃん。そこに私たちがいたら、邪魔でしょ」

 僕は苦笑いした。

 あれほど消極的だった川村さんに、そこまでさせるのか。

 それでも、水島くんの家に行ったり、水島ブラザーズと仲良くなったりと、川村さん自身もすごく積極的になっている。それも、梨々香の働きかけがあってこそのことだろう。

 僕と梨々香は、しばらく、鳥居の前に二人してぽつんと立っていた。

「まだ、怒ってる?」

 梨々香が、恐るおそるといった具合に口を開いた。

 僕が怒りに任せて梨々香のもとを去って以来、僕たちは顔を合わせていなかった。川村さんや水島ブラザーズがいたせいで、僕は、今までその事実を気にしないでいられた。

「ごめんね。私、デリカシー無かったよね」

 梨々香は、僕に相談無く、僕の能力や、それを使って知り得たことを他人に漏らした。

 僕はそれが許せなかった。だから、梨々香に怒りをぶつけた。

 でも、今思えば、梨々香は彼女なりの正義感を持って工藤さんの向き合っただけのことだった。彼女の行動に悪意はみじんもない。

「僕も、声を上げたりして悪かった」

 僕は、梨々香としっかり相談して、工藤さんのことを決めたかった。僕が感情を抑えられなかったのは、僕の能力を彼女が無断で利用したからではなく、彼女に無視されたと感じたからなのかもしれない。

 梨々香が国語科準備室に顔を見せなくなってから、僕は寂しかった。やっぱり、梨々香には隣にいてほしかった。

「ユキちゃんと清水くん、二人でこのお祭りに来てた」

「付き合ったんだもんね」

「二人とも、すごく楽しそうだった。私は、二人の本当の気持ちはわからないけど、そんな二人を見て幸せそうだったし、両想いに違いないと思ったよ」

「そっか」

 それでいいのかもしれない。

 本当の気持ちより大切なものがあるのかもしれない。

「たこ焼き食べたいな」

 梨々香がそう言うので、僕たちは、再び盆踊りに繰り出し、五百円のたこ焼きを買った。僕の財布の事情を知ってか、お金は梨々香が払ってくれた。なんだか、彼女にはご馳走になってばかりだ。

 それから、僕たちは神社を後にして、帰り道をふらふら歩いた。一歩一歩神社から遠ざかって行くごとに、お祭りの熱気に包まれた身体から冷めていく。

 梨々香が髪の毛を上げているせいで、度々、電灯の光に照らされた彼女のうなじが浮き上がって見える。浴衣が赤いせいもあって、彼女の陶器のような肌は、つややかに光っている。僕は、それに少しどきどきしてしまっていた。

 あてもなく歩いていると、気づけばヒノデ公園の前に来ていた。

 僕たちは、そこのベンチに腰を下ろすことにした。

 梨々香が持っていたたこ焼きをビニール袋から取り出す。

「あ」

 梨々香が声を上げる。

「どうしたの?」

 梨々香は、割り箸を一本、僕に見せてきた。

「一本しかない」

 たこ焼きを買うとき二人で並んでいたから、てっきりビニール袋の中には、割り箸が二本入っていると思っていた。しかし、どうやらそれは一本しかないようだ。

「順番こで食べよっか」

 私から食べていい、と聞いてくる梨々香に、僕は頷いた。

「おいしー」

 梨々香はそう言って、割り箸を僕に差し出してきた。

 少し歩いたせいで、たこ焼きはちょうどいい温度まで冷めていた。でも、その味より、梨々香と割り箸を共有していることで、僕の頭がいっぱいだった。

「おいしくない?」

「おいしいよ」

 そう言って、僕の使った割り箸を梨々香に差し出す。その行為が恥ずかしくて、そのとき彼女の顔を見ることができなかった。

「好きな人、できた?」

 出し抜けに梨々香が聞いてきた。

 僕は、それが作戦になっていたことを思い出す。

「どうだろう。そもそも、できたことないから、どういうことが好きだっていうのか、わからないのかも」

 僕は、好きの定義についてわからなくなっていた。

 僕の周りの人は、簡単だ。頭上に名前を浮かべていたら、その人のことが好き。とてもわかりやすい。

 でも、どうやらそれだけではないようだ。

 頭に名前を浮かべる以外にも、誰かのことが好きだとか、誰かと付き合うことには、様々な感情がつきまとっている。

「誰かのことをずっと考えちゃうってこと、ないの?」

 梨々香が言った。

 ずっと考えてしまう人。少し考えるが、特にこれといった人が出てこない。

「そもそも、梨々香はなんで、みんなに幸せになってもらいたいの?」

「どうしてだろう。みんなに幸せになってほしいからかな」

「答えになってないよ」

 梨々香は、そうだね、と言って笑った。

「梨々香は幸せなの?」

「私は幸せだよ。いろんな人が周りにいてくれるし。モデルの活動も順調だし」

「モデルの仕事、別にやりたいわけじゃないって言ってなかった?」

 僕がそう言うと、梨々香は、えっ、と声を上げた。

「私、そんなこと言ったっけ?」

「言ってたよ。出会ってすぐに」

「誰にも言ってないつもりだったんだけど」

「じゃあ、僕しか知らないんだ。梨々香の本音」

「なんか、悔しいな」

 梨々香は、苦笑いを浮かべた。

「幸せってなんだろうね」

 僕が尋ねる。

「幸せだって自分自身が思うことだよ」

 梨々香は言った。でも、なんだか、ぴんとこない。

「モデルの活動。今も、自分のやりたいことだって思えないの?」

「正直、わからない。向かい合うのは、いつもカメラのレンズ。私、こんなことしてて、本当にみんなを幸せにしてるのかなって」

「そのセリフ、前にも聞いた」

 梨々香は顔を赤くする。

「ほんとに! なんで、私、真人くんにだけ本音をぺらぺら話してるんだろう」

「やっぱり、周りの人を幸せにしたいって気持ちは変わらないんだね」

 梨々香は、うん、と頷く。

「だから、クラスのみんなにも、今すぐ幸せになってほしいの。好きな人と一緒にいられたら、絶対幸せだから」

 僕は、今すぐ、という言葉に引っかかった。

 川村さんのときといい、工藤さんのときといい、彼女の行動はいつも早い。

「どうして、そんなに急ぐの?」

 梨々香は、少し間を置いてから、口を開いた。

「幸せってね、手遅れになることがあるの」

「手遅れ?」

「ぼんやりしてたら、手に入れられるはずだった幸せが逃げちゃうの」

 幸せが逃げる。僕は、頭の中で、その言葉を反芻した。

「梨々香。何かあったの?」

「私は、もう幸せになれない」

「なんで?」

「逃げていっちゃったから」

 梨々香の幸せは逃げていった。彼女に何があったのだろうか。

 僕たちは、しばらく黙っていた。風が葉を揺らす音だけが、ときおり響く。なんだが、胸がざわついた。ガサガサという音は、僕の胸のざわつきが奏でているのかもしれない。

 ぐずっ。

 鼻をすする音がした。

 ちらりと隣に目をやると、梨々香の頬が濡れていた。涙だ。

 その理由がわからない僕は、どうしていいのかわからなくなった。瑞希のときのように、僕が原因なのだろうか。

 ふと、視界の上の方に、何かがちらついた。

 涙を流す梨々香の頭上。そこには、ある文字が浮かんでいた。

 ――松山奏汰まつやまそうた

 それは、僕の知らない名前だった。

「どうしたの?」

 声をかけると、梨々香は、涙をぬぐいながら首を振った。

「なんでもない」

「でも、泣いてる」

 僕が梨々香の顔を覗き見ようとしたとき、彼女は、目元を手で覆ったまま立ち上がった。

「僕のせい?」

 梨々香は首を振った。

「私、帰るね」

 そう言って梨々香は、足早に公園を出て行ってしまう。僕は、そんな彼女を止めることができなかった。

 僕は、ベンチに座ったまま、呆然とその後姿を眺めていた。

 涙を流した女の人は、僕の前からいなくなってしまう。ざわついた心は、なかなか落ち着かなかった。

 梨々香の幸せ。涙。そして、頭の上に浮かんだ『松山奏汰』という人物。

 それらに繋がりはあるのだろうか。

 しばらくして、たこ焼きが二つ、まだトレーの中に残りっていることに気づいた。しかし、それらを口に入れる気にはなれなかった。僕は、それを輪ゴムでとじ、ビニールの中に入れた。

 そのとき。

「あれ」

 ビニールの中に、まだ使われていない割り箸が入っていた。

「二本あったじゃん」

 僕はつぶやいた。

 梨々香が一本しかないと言ったから、僕たちはひとつの割り箸を共有することになった。でも、本当は、二本の割り箸がビニール袋に入っていた。

 僕は、新品の方の割り箸を手に取る。

 梨々香は、この存在に気づかなかったのだろか。

 僕は、ビニール袋を片手に下げ、帰路を歩いた。その間、ずっと松山奏汰について考えていた。顔も見たことがないその人物について、僕はあれこれ想像した。

 梨々香は、どうしてこの場で、その人のことを好きになったのだろう。あの涙の意味は何なのだろう。松山奏汰と彼女の涙は、何か関係しているのだろうか。

 自宅に到着すると、玄関の扉を開け、靴を脱ぎ、僕は姿見の前で立ち止まった。

 普段なら、鏡なんかに目をやらずに通り過ぎる。でも、今回ばかりは、その鏡の向こうの世界を無視できなかった。

 鏡に映る、僕の頭の上。

 そこには、文字が浮かんでいた。

 ――桐谷梨々香。

 僕は、梨々香のことが好きになっていた。

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