第20話僕に能力がなければ⑤

 久しぶりに、屋上からの景色が見たくなった。

 司と瑞希が付き合い始めてから、なんとなく屋上に行くことをためらっていた。司と面と向かうことを避けていたのだ。

 司と顔を合わせれば、瑞希との話になりそうで、それが怖かった。

 瑞希は司のことが好きではない。

 その言葉が口から漏れてしまうかもしれないと思った。また、直接的にそうは言わないにしても、僕の言葉の節々から司がそれを感じ取ってしまう恐れもあった。そう思うと、彼と長い時間、話をすることはもうできない。

 司は、能天気そうに見えて、意外と鋭い感覚を持っている。

 長い付き合いの中で、僕はそれを知っていた。また、僕自身が、嘘を苦手としていることもわかっている。

 梨々香が来なくなってから、もやもやとした感情が日に日に募っていた。屋上に行けば、それが少しは晴れるかもしれないと思った。僕は、屋上から見る、校門の風景が好きだった。そこから下校する人たちを見て、みんなこれからどうするんだろうって想像することで、楽しい気持ちになれた。

 僕は、作業を切り上げると、司がいませんようにと願いながら、階段を上がって屋上へと向かった。夏休みだけど、校内には、たくさんの生徒がいる。みんな、学校が好きなのだ。

 時刻は午後五時三十分。外には涼しい風が吹き出していた。

 だだっ広い屋上。

 僕は、扉を開くと、そこに女子生徒のうしろ姿を見た。制服姿の彼女は、僕が屋上に足を踏み入れると、こちらを向いた。

「あ」

 僕と彼女の声が重なる。

 そこにいたのは、瑞希だった。

 瑞希は、金網に手をかけ地上を見ていた。彼女の視線の先には、僕の好きな風景がある。

 僕は、かけるべき言葉が見つからず、しばらく黙っていた。瑞希も同じなのか、うつむいたまま口をつぐんでいる。

 屋上には物が何もない。だから、ときおり、ひんやりとした風が数メートル離れた僕と瑞希の隙間を通る。

 僕は、金網まで歩み寄り、瑞希と同じようにそれに手をかけた。

「ここからの景色。好きなんだよね」

 校門からは、ちらほらと帰宅する生徒が見えた。

「知ってる」

 瑞希が言った。

 そうだ。彼女も何度かここに来ていた。

「大道具、順調?」

「まあね。そっちは」

「ぼちぼち、ね」

「主役。楽しくないの?」

「そんなことはないんだけど。なんか、しっくり来ないの」

「ドロシーの役が?」

「そうなのかな。どうしても、演じてる役の気持ちがわからない」

 役の気持ち。なんだか、難しそうだ。

「台本が良くないのかな」

 瑞希がぽつりと言う。

「台本?」

「なにか、足りない気がするんだよね」

「もともとは、長いものだったから。削り過ぎたのかな」

「そうかも」

 当たり障りのない会話。なんだか、すごく久しぶりな気がする。失われた感情が、僕の中に戻って来るようだ。

 下校する生徒の数が、ぐっと増えた。それが、完全下校の時間を知らせる。僕たちも、そろそろ帰らないといけない。

「涙」

 瑞希が、地上に目を落としながら言った。

「人に涙見せたの。真人が初めて」

 僕は、彼女の横顔にちらりと目をやった。凛としていて、ちょっと美しいと思ってしまう。

 瑞希は、あの時のことを言っているのだ。

 僕が、瑞希を傷つけてしまった、あの夜。

「私。真人には気を許してるってことなのかな」

「昔からの付き合いだから」

「きっと、そうだね。だから、私の気持ちもお見通し」

 瑞希の気持ち。

 司のことを好きではない。そのことだろう。

「うん」

 僕がそれを知っているは、昔からの付き合いだからではない。僕に宿った不思議な能力のおかげだ。

 生身の僕では、誰の気持ちもわからない。

「司くん。いい人だよ。ちょっとおばかだけど。面白いし、優しい」

「司のことは、よく知ってるよ」

「そっか」

「運動が得意で。まっすぐだけど、少しひねくれてるところもあって。誰にも平等に接する。僕は、司に何度も救われた」

「私も。司くんと一緒にいると楽しい。でも――」

 瑞希は、言葉を切ったきり、しばらく口を開かなかった。

 下校する生徒が、ぽつぽつと少なくなる。校舎の中には、もうほとんど人がいないのかもしれない。

「でも、好きかって言われると、ちょっとわからない」

 瑞希の口から、正直な気持ちが漏れた。

 僕は、また彼女を傷つけてしまいそうで、言葉を出せないでいる。

「司くんは、私のことを好きだって言ってくれる。私も、彼と一緒にいて楽しい。でも、これじゃ、だめなのかな。心の底から好きだって思っていない人と付き合うのって、間違ってるのかな。私は、司くんのこと、騙してるってことになるのかな」

 瑞希の口からは、溢れるように言葉が漏れてくる。

 瑞希は、自分の気持ちにずっと悩んでいたようだ。司のことを好きになろうという努力もしたのかもしれない。

「私、わからないよ」

 瑞希は自分で自分の気持ちに問いかけ続けたのだ。どうすることが正しいのか、と。

 でも、それは何のために。

 司の気持ちに応えるため?

 それとも、自分の幸せのため?

 そもそも、好きという気持ちだけが、すべてなのだろうか。男女がお付き合いをすることにおいて、それ以外のことは、すべて嘘になるのだろうか。

 一緒にいて楽しいとか、落ち着くとか、相手のことをもっと知りたいとか、自分のことを知ってほしいとか。

 そんなの、僕にもわからない。そんなこと、他人がとやかく介入ことではないのかもしれない。

 僕が、瑞希の気持ちを暴いた。だから、彼女は余計に悩むことになったのだ。

 すべての原因は、僕にある。

 さっきから、僕は黙ってばかりだ。何か言わないといけない。

 しかし、僕のうちにある言葉の中には、瑞希の悩みを解消してあげられるものがない。

「ごめん。私ばっか話して」

 僕は、首を振ることしかできない。

 下校する人は、もう誰もいなくなっていた。

「じゃあ。私、帰るね」

 瑞希が屋上を去ってからも、僕は、自分の好きだった景色を見続けた。

 やがて、瑞希がぽつんと一人、校門を通って帰っていく。

 辺りは、すっかり暗くなっていた。

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